↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/5

第4話 もう一度、手を

前回の続きです。

噴水は、昨夜と同じ音をしていた。


違うのは、座っている側だった。

私はリネット嬢の体のまま、石の縁の、昨日の自分の位置にいた。向かいに来るべき自分の体が、まだ庭の扉の向こうにいる。


夜会は、もう終わっている。

学院の広間は暗く、蝋燭の熱はない。水だけが、古い紋の上で揺れていた。丸と、十字。名前は、やっぱり覚えていない。


胸の内側に、マルグリットへの宛名がある。

折り目が、一日で肌に馴染んだ。返すための紙なのに、返すまで預けられた温もりがある。


扉が、開いた。


自分の歩き方が、入ってきた。

かかとから。直線。カトリーヌの靴を、今夜は崩していない。リネット嬢が、一日で私の歩き方を、必要な分だけ覚えたのだ。覚えたことを、私は少し嫌った。嫌って、すぐに感謝した。この庭まで、その歩き方でなければ通してもらえなかっただろうから。


「来たわ」


私の声が、そう言った。

中身は、リネット嬢。石鹸ではなく、私の香水。入れ替わった夜の匂いが、一日遅れで、正しい人の肌に残っている。


「手紙、届きました」


「無地の蝋でよかった? 家の紋は、使いたくなくて」


「正解ですわ。あの紋は、父のものです」


二人とも、座らなかった。

座ると、昨夜の続きになって、血をまた落としかねない。石の縁から、半歩だけ離れた。


月が、水面に細い道を作っていた。


◇


先に渡したのは、私のほうだった。


「母上の宛名です。箱の中に、書きかけがありました。麦の前に水路をさらって、席は残して、残っていなくても怒らないで、と」


リネット嬢は、自分の顔で、その紙を受け取った。

受け取った手が、私の手だ。私の指が、自分の字をなぞるのを、私は見ていた。


「読んだんだ」


「すみません。返します」


「いい。読んでほしかった、わけじゃないけど。知ってほしかった、には近いかも」


紙が、香水のする胸の内側へ戻った。

正しい胸では、まだない。リネット嬢の心が、私の体のポケットに母を入れている。


「こちらは、夕食でした」


私の声が、低くなった。


「義母様が、広間で黙っていたことを笑っていました。コリーヌ様が、言いました。手袋のインクは、自分が足した。使いに、姉の名を言わせた。ばれない、本当が一つあれば人は残りを信じる、と」


夜気が、水面を一度だけ乱した。


「父上は、ワインを見ていました。娘を、見ませんでした。王子が決めたことに、家は従う。娘が食卓で、ほどけたものを拾い直す必要はない、と」


リネット嬢は、私の口でそこまで言うと、自分の言いすぎを怖がる顔をした。

私の顔が、怖がる。見ている私は、リネット嬢の顔のまま、石を掴んでいた。


「箱もありました。幼い署名。端に、家のために、とだけ。底に、星のハンカチ。お母様のだと思います。畳みは、崩していません」


「……ありがとう」


私の声が、そう言った。

礼を、自分の声で聞くのは、奇妙だった。奇妙のまま、胸の奥が熱くなった。十一年、誰もその箱をありがとうとは言わなかった。言う人が、今、私の喉を借りている。


「王子も、来ました」


「わたくしの顔で」


「うん。もう前に立つな、って。エステル嬢への非礼を見過ごせなかった、って。私、言ってしまった。その人を好きなのは、あなたの都合でしょう、って」


私は、目を閉じた。


(言ったのね)


広間で、私が言えなかったこと。

言えなかったのは、言えなかったから正しい、ではない。箱の蓋が、喉まで被さっていただけだ。リネット嬢は、蓋の外側から、その文を置いた。


「怒って、いない?」


「怒っておりません。少し、眩しいだけです」


「眩しい?」


「わたくしの声で、わたくしの言えなかったことが、夜の庭に残っている。明日、その声が私に戻ったら、同じことが言えるかは、分かりません。それでも、一度、空気の中に出た」


リネット嬢は、ほっとしたように息を吐いた。

吐いた息が、白い。夜が、思ったより冷えていた。


◇


広間へ、戻った。


二人で、というより、リネット嬢が先に扉を押して、私がそのあとについた。

夜の学院は、使用人が床を一度拭いたあとで、まだ蝋の匂いが残っている。中央の床だけが、他より光っていた。磨いたせいではない。今夜、人が立たされた場所は、足が覚える。


「ここ」


私が言った。

リネットの声で。


「わたくしが立って、あなたが半歩横で、首を振った場所」


リネット嬢は、私の体でその床の真ん中に立ってみた。

立って、すぐに退いた。退き方が、礼ではなく、熱い石から足をどける退き方だった。


「立たされると、頭の上が熱い。蝋燭、もうないのに」


「残っているのよ。熱は」


「インクの話、ここで返せばよかったのかな」


私は、首を横に振った。

リネットの顔で。昨夜、この子がしたのと同じ方向へ。


「返せば、コリーヌ様が笑い、父が従い、王子がもう一度、正義の顔をします。本当が一つ増えるたびに、この床は上手になる。上手な床には、もう紙を出しません」


「じゃあ、エステルさんには」


「手紙も、出しません。出せば、親切の形をした火になる。あの方は、襟の色を淡くして、それでも私を憎んではいなかった。それで、十分です」


リネット嬢は、私の手袋のまま、床の一点を見ていた。

見て、頷いた。


「高校なら、職員室に走ってた。走って、先生に言って、それでも解決しない日もあった。ここは、職員室が父の机なんだね」


「机は、ワインを見ています」


「うん。だから、村の紙のほうがまし」


空いた床を、私たちは端まで歩いた。

端の柱に、昨夜リネットが掴んだ跡はない。石は、白い指を覚えない。覚えなくても、私は覚えていた。


「戻りましょう。噴水のほうが、まだ正直です」


◇


「戻りたい」


リネット嬢が、言った。


「あなたの体を、あなたに返す。星のハンカチも、歩き方も、喉も。私が着ていると、十年以上のものが、私の不器用で痛む」


「痛んで、いないでしょう。あなたは、かかとから歩けていました」


「歩けただけ。中は、別」


水面の紋が、月の道と重なった。

丸と、十字。昨夜、血が落ちた場所。


「戻ったあと、あなたはどこへ行きますの」


「村。モレール。母がいる。伯爵様は、帰るなと言う。王子の婚約者として振る舞え、とも。でも私、爵位がない。清らかな令嬢じゃなくて、パンの家の子だよ」


「知っております」


「カトリーヌさんは」


聞かれた。


戻る家が、ない。

侯爵家の食卓は、今夜の話で完成している。父は見ない。義母は笑う。義妹は、本当を一つ残して残りを塗る。王子は、私を見ずにエステル嬢を見る。婚約は、すでに破棄された。箱は、家のために、で閉じている。


戻る場所として、あの家は、もう機能していない。

機能していないものを、家と呼ぶのは、父の言葉だった。


「わたくしには、戻り先がありません」


声が、リネット嬢の声で出たので、告白が少し軽く聞こえた。

軽くても、中身は重かった。


リネット嬢は、私の顔で、私を見た。

自分の目で自分を見る夜が、もう一日ある。


「じゃあ、一緒に来て」


「村へ」


「うん。席は、母が残してる。残ってなくても、怒らないって、私が書いた。カトリーヌさんの席は、書いてないけど。書けばよかった」


「令嬢を、パンの家へ」


「令嬢のまま来なくていい。カトリーヌで来て。侯爵は、置いていって」


噴水が、小さく弾はじけた。

魚か、風か。名前は、どうでもよかった。


私は、胸の宛名を思った。

マルグリット。知らない母。この子の母。盾ではない、パンを焼く人。


「行きたい、と言ったら、図々しいですか」


「言って。私、一人で荷車に乗るの、怖い」


笑った。

リネット嬢の顔で、私が笑った。この顔は、笑ってよい顔だった。広間では、誰もその笑いを見ていなかった。


◇


戻し方を、私たちは知っていた。

知っているというより、体が、石の温度を覚えていた。


「血は、もう要らないわ」


「うん。切りたくない。あなたの指も、私の指も」


二人で、石の縁に手を置いた。

リネットの手と、カトリーヌの手。中身は逆。掌を、古い紋の真上で重ねた。


冷たい石が、昨夜のように、掌の温度まで上がってきた。


「返して」


リネット嬢が、私の声で言った。


「返して。カトリーヌさんを、カトリーヌさんに。私を、私に」


「わたくしも、そう願います」


願う、が、この夜やっと自分の動詞になった。

七年の婚約は、願いで結ばれていなかった。これは、願いでほどくほうだ。


白が来た。


水音が消え、香水と石鹸が一度に混ざって、どちらがどちらか分からなくなった。

熱が、喉の深い十一年のところまで降りて、それから上がって、目の前が紙のように白くなった。


名前を呼んだ。

今度は、意味があった。


「リネット」


「カトリーヌさん」


◇


自分の手が、戻っていた。


爪が、令嬢の長さ。

人差し指の、小さな傷。香水が、正しい首のうしろにある。向かいには、明るい髪と、短い爪と、大きい礼服ではなく、旅に近い地味な外套。


リネットだった。


「私の顔、してる?」


「あなたの顔ですわ」


「よかった。カトリーヌさんの顔でいると、ほくろの責任が重くて」


私は、笑った。

自分の喉で。ですわ、が自然に出て、それから少し恥ずかしくなった。


リネットは、自分の手を開いたり閉じたりしていた。

閉じて、胸の内側を探る。宛名の紙が、正しい胸に戻っているかを確かめる手つき。


「ある。母の手紙。戻った」


「星のハンカチは」


「あなたの部屋。箱の底。崩してない。約束したから」


約束を、私のいないところで守る人がいる。

それだけで、今夜の冷気は、昨夜の冷気とは別のものだった。


◇


名前を、もう一度呼び直した。


一度目は、戻った瞬間の確認で、喉が先に安心を拾ってしまっていた。拾いすぎた分を水音のあいだへ置いて、私たちは立ったまま、相手の名を自分の口に戻した。座れば石が昨夜を思い出しそうで、縁からは半歩のまま離れている。


「リネット」


「カトリーヌさん」


「リネット」


三度目で、リネットが息を吐いた。

吐く息に、石鹸の匂いが混ざる。伯爵家の、香りの主張をしない石鹸。旅に近い外套の襟から、それが夜気に出て、私の香水とはもう混ざらなかった。


「届いてる。昨日までだと、カトリーヌさんの顔が私の名前を受け取るの、変だった。今は、私の顔が受け取ってる」


「わたくしの名前も、今、わたくしの耳に届いています」


「もう一回だけ、いい?」


「ええ」


「カトリーヌさん」


今度の速度は、確かめではなかった。

庭に置いて、置いたまま次の仕事へ持っていく呼び方だった。さん、が残るのは、この子の癖だ。直させない。直した名前は、呼んだ私の都合になる。


自分の人差し指を、月のほうへ上げた。


小さな傷。

昨夜、杯の縁でできた切れ目が、爪の影に半分隠れている。令嬢の爪は傷を見ないふりが上手くて、ふりの奥にだけ、細い熱がまだ残っていた。


「痛くない?」


「痛くはありません。場所が、正しいだけです」


リネットが、自分の人差し指を隣まで持ってきて、触れない距離で止めた。

触れたら石が温度を覚えそうで、二人とも最後のところで指を浮かせたままにした。短い爪の下に、同じ切れ方がある。ある場所が、この子の指だ。私の傷は、私の指に戻っている。


「同じだ。私のほうは爪が短いから、よく見える。隠れてない。昨日、あなたの手の上でこの傷を見てたときより、自分の傷だって分かる」


「隠れていても、わたくしの指の傷です。一日、あなたの側にあった熱が、今は自分の熱に戻った。それ以上のことは、この傷は話しません」


香水が、首のうしろで正しく温まっていた。


一日、リネットの肌の上で寝ていた匂いが、自分の脈で目を覚ます。甘いというより、長い時間を布の内側へ閉じ込めた匂いで、向かいの石鹸とはもう席が違う。白く混ざった夜が、二つの匂いへほどけて、ほどけたまま水面の上に残っていた。


(戻った)


名前より先に、匂いがそう言った。

私の香水は私。リネットの石鹸はリネット。噴水は、それ以上を説明しなかった。しなくてよかった。説明を足せば、足した言葉がまた蓋になる。


「石鹸、私のだよ。王都に来てからも、これしか使わなかった。香水はきれいだった。きれいなまま、カトリーヌさんの首のうしろにあると、息が半分になる気がした」


「わたくしの香水で、苦しい思いをさせましたわ」


「苦しいのは瓶のせいじゃない。十一年、その匂いの中で我慢してきた人の匂いだったから、私が着ると我慢まで着たみたいで。返すとき、少し申し訳なかった」


「謝らなくてよいのです。着た人が、中の年月を自分のものにしなかった。それだけで、十分ですわ」


リネットは、石鹸のする手首を一度だけ鼻の近くまで運んだ。

母の手紙を胸に探したときと同じ手つきで、戻ったかを確かめる。確かめたあと、手首を自分の外套の中へ戻した。


「ある。匂いも、傷も。名前も、呼んでもらえた」


「わたくしの分も、ここにあります」


水面が、月の道を一度だけずらした。

ずらしたあとも、丸と十字は名前を持たない。持たない紋の上で、私たちは自分の息が自分の胸にあることを、呼んだ名前の残りで数えた。私の一回。リネットの一回。混ざらない。混ざらないことが、戻ったあとの礼儀だった。


「指、まだ熱い?」


「熱は、あります。痛みには、なっておりません」


「私も。石鹸で洗っても、切れ目だけは残る。残ってていい。どっちの手だったか、忘れないから」


「忘れません。わたくしの傷は、わたくしの指にあります」


「カトリーヌさん」


四度目は、もう返事を要らなかった。

呼んだ事実だけが庭に残って、残った名前を私たちは紙のほうへ持っていく。紙は匂いより冷たい。冷たいほうが、今夜の次の仕事には合う。


噴水は、まだ鳴っていた。

鳴っているあいだが境目で、境目で呼び終えてから、私たちは石の縁に背を向けた。


◇


協力は、告発ではなかった。


インクの話を、広間へ戻さない。

戻せば、コリーヌが笑い、父が従い、王子がまた正義の顔をする。本当が一つあるたびに、残りが塗られる場所へ、私たちはもう紙を出さない。


出すのは、辞退と、退出だった。


学院の空いた教室を、夜のあいだだけ借りた。

監視はいない。卒業の翌日、生徒はもう各自の馬車の準備をしている。机の上に、リネットが伯爵家の紙を一枚置いた。良すぎる紙。村の紙ではない。それでも、文面は村へ帰るための文面だった。


書く前に、一度、文を捨てた。


最初の案は、私が出した。

インクの真相を、小さく脚注のように添える案だった。添えておけば、父が読んだとき、娘が全部は悪くなかったと残る。残したい気持ちが、指の傷より先に出た。


「入れないで」


リネットが、丸い字を置く前に言った。


「入れた瞬間、この紙は辞退じゃなくなる。告発になる。告発は、広間の床が上手に受け取る。受け取り方を、私たちはもう見ている」


「一行だけなら」


「一行が、妹の名になる。名になったら、あなたの父は妹を守る側で机を見る。見る先が、またあなたではなくなる」


私は、書いたばかりの下書きを、二つに裂いた。

裂く音が、空いた教室で大きかった。窓の外の誰かが振り返らなかったことだけが、幸いだった。


「では、骨はこうします。爵位がないこと。母が村にいること。選ばれた席は、自分の席ではないこと。王子の心には、触らない」


「触らない。触ると、エステルさんの名前まで、この紙が運ぶ」


「運ばせません」


二案目は、短すぎた。

『帰りたい』の四文字。リネットが自分で書いて、自分で笑った。


「これだと、子どもね。伯爵様は、子どもを村へ返す人じゃない。返すなら、大人の文が要る」


「大人の文は、冷たくなります」


「冷たくていい。冷たいほうが、家の言葉に似る。似た言葉でないと、家は読まない」


三案目で、やっと残った。

爵位。母。席。選ばれた理由を、清らかさという言葉ごと返す。返したあとに、恨みの段落は置かない。置かないことが、私たちの礼儀だった。


リネットは、その骨を見てから、自分の言葉を一本だけ足した。


「パンは、焼けます。水路も、村がさらっています。これは、残して。伯爵様が、金を送ると言うから。送らなくていい理由が、要る」


「事実ですわ。事実は、恨みより机に載る」


「うん。載せて、終わりにしよう」


「私、字が丸いと、伯爵様に怒られる。文を、カトリーヌさんが骨にして。字は私が書く」


「骨だけですわ。命令は、あなたの言葉で」


二人で、短い紙を作った。


第二王子との婚約は、辞退する。

私は爵位を持たない。フォルジュの名は、便宜として借りていただけである。

母が、モレールにいる。私はそこへ帰る。

清らかさや家格で選ばれた席は、私の席ではない。


リネットが、丸い字でそれを書いた。

私が、語尾の乱れだけを直した。直しながら、自分の婚約破棄の夜を思った。あれは、私の紙ではなかった。これは、リネットの紙だ。


「王子の前には、出ません」


「出ないで。出たら、また床の真ん中になる。紙だけでいい。伯爵様には、私が渡す。カトリーヌさんは、隣にいて」


「友人として、でよろしいですか」


「うん。友人です、で足りる」


次に、私の紙。

父へ。長く書かない。長く書けば、十一年が涙になる。涙は、父の机ではワインと同じで、見られない。


『婚約は、王子の側で破棄されました。家のために結ばれたものは、ほどけました。私は、サントメール侯爵家に残りません。恨んで出るのではありません。残る理由が、家の側からなくなりました。カトリーヌ』


リネットが、その文を読んで、一度だけ頷いた。


「これでいい。上手に怒ってない。でも、残ってない」


「怒れ、と」


「怒ってもいいけど。この文は、カトリーヌさんの歩き方に似てる。かかとから。崩れない」


封は、無地にした。

家の紋は、退出の紙には押さない。


◇


伯爵家の小さい部屋で、夜の残りを包んだ。


リネットの箱が、机の上で開いている。

帳面。瓶の書きつけ。母への三行。私は自分の手に戻っているので、その紙に触れなかった。触れるのは、リネットの仕事だ。私の包みは、もっと少なかった。星のハンカチは、侯爵家の箱の底にまだある。取りに戻れば、父の「抗うな」が廊下で待っている。


「ハンカチ、捨ててきたみたいで、嫌」


「捨ててない。止めてある。針も、星の途中で止めたまま。コリーヌ様が、完成前の枠を見に来た」


「来たの」


「戸は、丁寧に閉めた。丁寧が、一番冷たい閉め方だった」


リネットは、莓の書きつけを布に包みながら、一度手を止めた。


「取りに、戻る? 二人でなら」


「戻らない。戻れば、私の足があの段差を覚える。覚えた足は、また箱の歩き方になる」


「星は」


「布の星は、ここにある」


私は、自分の胸ではなく、記憶を指した。

リネットが畳みを崩さなかった、という事実のほうを。布そのものは、あの部屋だ。それでも、守られたことは、もう私の側にある。


「扇は、持っていくの」


「持っていきます。開かないかもしれない。開かないものを持つのは、令嬢の癖ですわ」


「癖は、持ってていい。使えなくなったら、モレールの炉の横に置こう。子どもの名を書く板の、重しになる」


重し。

扇の骨が、紙を押さえる。広間で顔を隠すためではなかった骨が、村の名を飛ばさないために残る。私は、その使い方を気に入った。


窓の外で、荷車ではなく、誰かの犬が一度鳴いた。

追手の音ではない。それでも二人とも、鳴きやむまで話を止めた。


「王子は、追ってこないと思う」


リネットが、先に言った。


「私を見ていない人は、いなくなっても、見る場所を変えない。見る場所は、エステルさんの横のまま」


「父は」


「父上は、体面が静かになればいい。娘の行き先より、噂の終わり方のほうが、机に載る」


「ひどいね」


「ひどいことを、怒りの文にはしませんでした。あなたが、そう言ったから」


「言った。崩れないほうが、カトリーヌさんらしい」


包みが、二つになった。

リネットのほうが大きく、私のほうが小さい。小さいことが、負けではなかった。持っていく理由が、家の側に残っていなかっただけだ。


「眠れそう」


「眠れません。それでも、横になります。明日、伯爵の前で、立っていられるように」


「隣で、立ってる。友人です、の距離で」


「その距離が、ちょうどいい」


ランプを落とした。

暗い部屋で、リネットの寝息はなかなか始まらなかった。始まらないまま、朝の牛乳の匂いが、窓の隙間から先に来た。


◇


朝、フォルジュ伯爵家の机の前で、ベルナール伯爵は紙を二度読んだ。


「誰が、この文を整えた」


「私です。隣にいるのは、友人のカトリーヌさん」


伯爵が、私を見た。

昨夜、壊れるときでさえ礼のできる娘、と呼んだ顔。今は、自分の体に戻っている。私は礼を、深くはしなかった。深くすると、また箱に入る。


「侯爵令嬢を、このようなことに使うのか」


「使っていません。見ていただいただけです」


リネットの声は、もう私の喉ではなかった。

丸い字と同じ場所から出ている。それでも文の骨は、二人のものだった。


◇


次の言葉が、リネットの喉で止まった。


伯爵の目は、また紙の上にあった。紙を見ているあいだに、リネットは自分から続きを足そうとした。足すなら、紙に書けなかったほう。広間で誰の手袋に何がついたか、使いが誰の名を言わされたか。その入口まで来て、唇が先に閉じた。


「カトリーヌさんは、本当は、あの広間で……」


本当は、のあとが来ない。


来れば、友人の夜をこの机の上で言い直すことになる。言い直せば、辞退の紙が、誰かの非を並べる紙に変わる。変わる手前で、リネットは自分の声を怖がった。怖がったまま、吸った息を胸の中へ戻した。


私は、半歩も出なかった。


友人の距離。

机に向かって、並ぶ位置。肩は触れない。声も、先には出さない。詰まっているあいだに詰まりを埋めると、励ましの形をした告発になる。告発は、広間の床が上手に受け取る。受け取り方を、私たちはもう見ている。


(言わなくていい)


口には出さなかった。

出せば、心の中のその一文まで机に載る。載った一文は、妹の名を呼ぶ。名を呼べば、この人の見る先がまた娘ではなくなる。


部屋の中で、ペンの尻が机を一度叩いた。


「本当は、なんだ」


リネットの睫毛が、一度下がって、上がった。

上がったとき、声は細くなって、終わりのほうで自分の場所へ戻った。戻った声は、丸い字と同じところから出ている。


「……いえ。続きは、言いません。この紙に書いたこと以上は、今日は置きません。置けば、辞退じゃなくなります」


伯爵が、私のほうを見た。

見た距離のまま、私は靴の位置を守った。リネットの斜め前にも、斜めうしろにも出ない。出た場所は、すぐに代弁の場所になる。代弁は、この子の紙を私の紙にしてしまう。


「そちらは、続きを知っているのか」


知っている。

食卓の笑いも、箱の底の星も、広間へ出さなかった本当も。知っていて、この机には置かない。


「知っておりましても、わたくしの口からは申上げません。隣にいるだけです」


「隣にいるだけ、とは便利な言い方だな」


「便利ではありません。友人ですわ」


深く礼をすれば、箱に入る。

礼は、昨夜と同じ深さで止めた。止めた靴の横で、リネットは私を見なかった。見ないのが、この距離の作法だった。見れば頼ることになる。頼らないで、並んで立っている。


伯爵は、上がりかけた続きを追わなかった。

追わないことが許可なのではない。この人の机は、載らない言葉を数えない。数えないまま、ペン先が辞退の紙へ戻った。紙の上には、誰の非もない。ないまま読まれることが、私たちの礼儀だった。


「王子が、許さん」


「王子は、私を見ていません。見ていない人の許しも、要りません」


伯爵の肩が、落ちた。

息子を二人失ったときの落ち方に、近かったのかもしれない。私には、比べる記憶がない。リネットが、その肩を見て、一瞬だけ目を細めた。


「マルグリットには、金を送る」


「送らなくていいです。パンは、焼けます。水路も、村がさらっています。私がいなくても、一年はもった。戻れば、また一緒にやれます」


「……行け」


短い許可だった。

許可の形をしています、とリネットはあとで言った。本当は、もう止める言葉を、この人は持っていなかった。


侯爵家へは、戻らなかった。

紙だけを、信頼できる使いではなく、学院の事務を通して父の机へ送った。届けばよい。返事は、要らない。返事が来るなら、抗うな、の四文字だろう。もう、その四文字の届く場所に、私はいない。


◇


門の内側で、一度、足を止めた。


荷車は、もう見えている。見えたまま乗ると、持っていくものと持っていかないものが、揺れる板の上で混ざる。混ざる前に、朝の光の下で包みを膝の高さまで開けた。ランプより、光のほうが正直だった。


リネットが、自分の包みから先に指を折って数えた。


「帳面。瓶の書きつけ。母への三行。莓の布。これ以上は、伯爵家の紙を持っていかない。紋の封蝋も、この家に置いていく」


「置いて、正しいですわ」


「カトリーヌさんのほうを、もう一度」


私の包みは、小さい。

小さいことを、光に透かして確かめた。透かした布の中で、骨が一本、硬いまま当たった。


扇だった。

無地のままの、広間で最後まで顔を隠すのに使わなかった骨。要を指でなぞって、開こうとした。開かない。昨夜まで、かもしれない、で済ませていたことが、指の途中で決まってしまった。壊れていない。広間の角度を、もう覚えていないだけのような拒み方だった。


「開かない」


「開かなくていい。重しになるって、言ったから」


「重しとして、持っていきます。開いて顔を隠す扇は、持っていきません。隠す道具に戻るものは、モレールには要りません」


星のハンカチは、包みのどこにもなかった。


探してはいない。ないことを知るために、布の隅まで指を通した。通って、空だった。空が正しい。ハンカチは侯爵家の箱の底に残してある。畳みは崩していない。母の星を、あの部屋に置いたままにする。


「ない」


「取りに、戻らないんだね」


「戻りません。戻れば、父の廊下がわたくしの足を待っています。ハンカチは、布としてあそこにある。守られたことは、もうこちらにあります」


リネットは頷いて、自分の包みの口を結んだ。

結び方は村の結び方で、蝶々にはしない。一度、きつく。ほどけるのは、着いてからでよかった。


持っていかないものを、声に出して数えた。


家の紋。

夜会の手袋。

幼い署名の入った箱。

開く扇。

星のハンカチ。


ハンカチの名を、最後にもう一度だけ言った。

侯爵家に残す。残す、と言ったあとで、私は包みの口を閉じた。閉じた中にあるのは、開かなかった扇だけだった。


(空で、いい)


事実は軽い。

軽いものを腕に抱えて、私たちは止めていた足を、門のほうへ戻した。


◇


門の外に、乗合の荷車があった。


馬車ではなかった。

紋がない。麦の袋と、誰かの樽と、私たち二人の小さい包み。リネットの包みには、箱の紙と、莓の書きつけ。私の包みには、無地のまま残した扇。開かなかったものを持っていくことと、使うことは、別でよかった。


「怖い、と言ったのは、本当?」


「半分。半分は、あなたが乗ってくれるなら、怖くない」


荷車の御者が、行き先を聞いた。


「モレール」


リネットが答えた。

答えた声が、晴れていた。広間の、首を横に振る声とは、もう違った。


私は、かかとからではなく、リネットの隣に座った。

土の道を行くときの重心が、分からない。分からないまま、包みを膝に置いた。


城門の石が、後ろへ流れた。


噴水の音は、もう聞こえない。

聞こえないことが、出発だった。

お読みいただきまして、ありがとうございました。

続きが気になった方は、評価やブックマークをしていただけると励みになります。

次回は「第5話 モレールのパン」です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。