第4話 もう一度、手を
前回の続きです。
噴水は、昨夜と同じ音をしていた。
違うのは、座っている側だった。
私はリネット嬢の体のまま、石の縁の、昨日の自分の位置にいた。向かいに来るべき自分の体が、まだ庭の扉の向こうにいる。
夜会は、もう終わっている。
学院の広間は暗く、蝋燭の熱はない。水だけが、古い紋の上で揺れていた。丸と、十字。名前は、やっぱり覚えていない。
胸の内側に、マルグリットへの宛名がある。
折り目が、一日で肌に馴染んだ。返すための紙なのに、返すまで預けられた温もりがある。
扉が、開いた。
自分の歩き方が、入ってきた。
かかとから。直線。カトリーヌの靴を、今夜は崩していない。リネット嬢が、一日で私の歩き方を、必要な分だけ覚えたのだ。覚えたことを、私は少し嫌った。嫌って、すぐに感謝した。この庭まで、その歩き方でなければ通してもらえなかっただろうから。
「来たわ」
私の声が、そう言った。
中身は、リネット嬢。石鹸ではなく、私の香水。入れ替わった夜の匂いが、一日遅れで、正しい人の肌に残っている。
「手紙、届きました」
「無地の蝋でよかった? 家の紋は、使いたくなくて」
「正解ですわ。あの紋は、父のものです」
二人とも、座らなかった。
座ると、昨夜の続きになって、血をまた落としかねない。石の縁から、半歩だけ離れた。
月が、水面に細い道を作っていた。
◇
先に渡したのは、私のほうだった。
「母上の宛名です。箱の中に、書きかけがありました。麦の前に水路をさらって、席は残して、残っていなくても怒らないで、と」
リネット嬢は、自分の顔で、その紙を受け取った。
受け取った手が、私の手だ。私の指が、自分の字をなぞるのを、私は見ていた。
「読んだんだ」
「すみません。返します」
「いい。読んでほしかった、わけじゃないけど。知ってほしかった、には近いかも」
紙が、香水のする胸の内側へ戻った。
正しい胸では、まだない。リネット嬢の心が、私の体のポケットに母を入れている。
「こちらは、夕食でした」
私の声が、低くなった。
「義母様が、広間で黙っていたことを笑っていました。コリーヌ様が、言いました。手袋のインクは、自分が足した。使いに、姉の名を言わせた。ばれない、本当が一つあれば人は残りを信じる、と」
夜気が、水面を一度だけ乱した。
「父上は、ワインを見ていました。娘を、見ませんでした。王子が決めたことに、家は従う。娘が食卓で、ほどけたものを拾い直す必要はない、と」
リネット嬢は、私の口でそこまで言うと、自分の言いすぎを怖がる顔をした。
私の顔が、怖がる。見ている私は、リネット嬢の顔のまま、石を掴んでいた。
「箱もありました。幼い署名。端に、家のために、とだけ。底に、星のハンカチ。お母様のだと思います。畳みは、崩していません」
「……ありがとう」
私の声が、そう言った。
礼を、自分の声で聞くのは、奇妙だった。奇妙のまま、胸の奥が熱くなった。十一年、誰もその箱をありがとうとは言わなかった。言う人が、今、私の喉を借りている。
「王子も、来ました」
「わたくしの顔で」
「うん。もう前に立つな、って。エステル嬢への非礼を見過ごせなかった、って。私、言ってしまった。その人を好きなのは、あなたの都合でしょう、って」
私は、目を閉じた。
(言ったのね)
広間で、私が言えなかったこと。
言えなかったのは、言えなかったから正しい、ではない。箱の蓋が、喉まで被さっていただけだ。リネット嬢は、蓋の外側から、その文を置いた。
「怒って、いない?」
「怒っておりません。少し、眩しいだけです」
「眩しい?」
「わたくしの声で、わたくしの言えなかったことが、夜の庭に残っている。明日、その声が私に戻ったら、同じことが言えるかは、分かりません。それでも、一度、空気の中に出た」
リネット嬢は、ほっとしたように息を吐いた。
吐いた息が、白い。夜が、思ったより冷えていた。
◇
広間へ、戻った。
二人で、というより、リネット嬢が先に扉を押して、私がそのあとについた。
夜の学院は、使用人が床を一度拭いたあとで、まだ蝋の匂いが残っている。中央の床だけが、他より光っていた。磨いたせいではない。今夜、人が立たされた場所は、足が覚える。
「ここ」
私が言った。
リネットの声で。
「わたくしが立って、あなたが半歩横で、首を振った場所」
リネット嬢は、私の体でその床の真ん中に立ってみた。
立って、すぐに退いた。退き方が、礼ではなく、熱い石から足をどける退き方だった。
「立たされると、頭の上が熱い。蝋燭、もうないのに」
「残っているのよ。熱は」
「インクの話、ここで返せばよかったのかな」
私は、首を横に振った。
リネットの顔で。昨夜、この子がしたのと同じ方向へ。
「返せば、コリーヌ様が笑い、父が従い、王子がもう一度、正義の顔をします。本当が一つ増えるたびに、この床は上手になる。上手な床には、もう紙を出しません」
「じゃあ、エステルさんには」
「手紙も、出しません。出せば、親切の形をした火になる。あの方は、襟の色を淡くして、それでも私を憎んではいなかった。それで、十分です」
リネット嬢は、私の手袋のまま、床の一点を見ていた。
見て、頷いた。
「高校なら、職員室に走ってた。走って、先生に言って、それでも解決しない日もあった。ここは、職員室が父の机なんだね」
「机は、ワインを見ています」
「うん。だから、村の紙のほうがまし」
空いた床を、私たちは端まで歩いた。
端の柱に、昨夜リネットが掴んだ跡はない。石は、白い指を覚えない。覚えなくても、私は覚えていた。
「戻りましょう。噴水のほうが、まだ正直です」
◇
「戻りたい」
リネット嬢が、言った。
「あなたの体を、あなたに返す。星のハンカチも、歩き方も、喉も。私が着ていると、十年以上のものが、私の不器用で痛む」
「痛んで、いないでしょう。あなたは、かかとから歩けていました」
「歩けただけ。中は、別」
水面の紋が、月の道と重なった。
丸と、十字。昨夜、血が落ちた場所。
「戻ったあと、あなたはどこへ行きますの」
「村。モレール。母がいる。伯爵様は、帰るなと言う。王子の婚約者として振る舞え、とも。でも私、爵位がない。清らかな令嬢じゃなくて、パンの家の子だよ」
「知っております」
「カトリーヌさんは」
聞かれた。
戻る家が、ない。
侯爵家の食卓は、今夜の話で完成している。父は見ない。義母は笑う。義妹は、本当を一つ残して残りを塗る。王子は、私を見ずにエステル嬢を見る。婚約は、すでに破棄された。箱は、家のために、で閉じている。
戻る場所として、あの家は、もう機能していない。
機能していないものを、家と呼ぶのは、父の言葉だった。
「わたくしには、戻り先がありません」
声が、リネット嬢の声で出たので、告白が少し軽く聞こえた。
軽くても、中身は重かった。
リネット嬢は、私の顔で、私を見た。
自分の目で自分を見る夜が、もう一日ある。
「じゃあ、一緒に来て」
「村へ」
「うん。席は、母が残してる。残ってなくても、怒らないって、私が書いた。カトリーヌさんの席は、書いてないけど。書けばよかった」
「令嬢を、パンの家へ」
「令嬢のまま来なくていい。カトリーヌで来て。侯爵は、置いていって」
噴水が、小さく弾はじけた。
魚か、風か。名前は、どうでもよかった。
私は、胸の宛名を思った。
マルグリット。知らない母。この子の母。盾ではない、パンを焼く人。
「行きたい、と言ったら、図々しいですか」
「言って。私、一人で荷車に乗るの、怖い」
笑った。
リネット嬢の顔で、私が笑った。この顔は、笑ってよい顔だった。広間では、誰もその笑いを見ていなかった。
◇
戻し方を、私たちは知っていた。
知っているというより、体が、石の温度を覚えていた。
「血は、もう要らないわ」
「うん。切りたくない。あなたの指も、私の指も」
二人で、石の縁に手を置いた。
リネットの手と、カトリーヌの手。中身は逆。掌を、古い紋の真上で重ねた。
冷たい石が、昨夜のように、掌の温度まで上がってきた。
「返して」
リネット嬢が、私の声で言った。
「返して。カトリーヌさんを、カトリーヌさんに。私を、私に」
「わたくしも、そう願います」
願う、が、この夜やっと自分の動詞になった。
七年の婚約は、願いで結ばれていなかった。これは、願いでほどくほうだ。
白が来た。
水音が消え、香水と石鹸が一度に混ざって、どちらがどちらか分からなくなった。
熱が、喉の深い十一年のところまで降りて、それから上がって、目の前が紙のように白くなった。
名前を呼んだ。
今度は、意味があった。
「リネット」
「カトリーヌさん」
◇
自分の手が、戻っていた。
爪が、令嬢の長さ。
人差し指の、小さな傷。香水が、正しい首のうしろにある。向かいには、明るい髪と、短い爪と、大きい礼服ではなく、旅に近い地味な外套。
リネットだった。
「私の顔、してる?」
「あなたの顔ですわ」
「よかった。カトリーヌさんの顔でいると、ほくろの責任が重くて」
私は、笑った。
自分の喉で。ですわ、が自然に出て、それから少し恥ずかしくなった。
リネットは、自分の手を開いたり閉じたりしていた。
閉じて、胸の内側を探る。宛名の紙が、正しい胸に戻っているかを確かめる手つき。
「ある。母の手紙。戻った」
「星のハンカチは」
「あなたの部屋。箱の底。崩してない。約束したから」
約束を、私のいないところで守る人がいる。
それだけで、今夜の冷気は、昨夜の冷気とは別のものだった。
◇
名前を、もう一度呼び直した。
一度目は、戻った瞬間の確認で、喉が先に安心を拾ってしまっていた。拾いすぎた分を水音のあいだへ置いて、私たちは立ったまま、相手の名を自分の口に戻した。座れば石が昨夜を思い出しそうで、縁からは半歩のまま離れている。
「リネット」
「カトリーヌさん」
「リネット」
三度目で、リネットが息を吐いた。
吐く息に、石鹸の匂いが混ざる。伯爵家の、香りの主張をしない石鹸。旅に近い外套の襟から、それが夜気に出て、私の香水とはもう混ざらなかった。
「届いてる。昨日までだと、カトリーヌさんの顔が私の名前を受け取るの、変だった。今は、私の顔が受け取ってる」
「わたくしの名前も、今、わたくしの耳に届いています」
「もう一回だけ、いい?」
「ええ」
「カトリーヌさん」
今度の速度は、確かめではなかった。
庭に置いて、置いたまま次の仕事へ持っていく呼び方だった。さん、が残るのは、この子の癖だ。直させない。直した名前は、呼んだ私の都合になる。
自分の人差し指を、月のほうへ上げた。
小さな傷。
昨夜、杯の縁でできた切れ目が、爪の影に半分隠れている。令嬢の爪は傷を見ないふりが上手くて、ふりの奥にだけ、細い熱がまだ残っていた。
「痛くない?」
「痛くはありません。場所が、正しいだけです」
リネットが、自分の人差し指を隣まで持ってきて、触れない距離で止めた。
触れたら石が温度を覚えそうで、二人とも最後のところで指を浮かせたままにした。短い爪の下に、同じ切れ方がある。ある場所が、この子の指だ。私の傷は、私の指に戻っている。
「同じだ。私のほうは爪が短いから、よく見える。隠れてない。昨日、あなたの手の上でこの傷を見てたときより、自分の傷だって分かる」
「隠れていても、わたくしの指の傷です。一日、あなたの側にあった熱が、今は自分の熱に戻った。それ以上のことは、この傷は話しません」
香水が、首のうしろで正しく温まっていた。
一日、リネットの肌の上で寝ていた匂いが、自分の脈で目を覚ます。甘いというより、長い時間を布の内側へ閉じ込めた匂いで、向かいの石鹸とはもう席が違う。白く混ざった夜が、二つの匂いへほどけて、ほどけたまま水面の上に残っていた。
(戻った)
名前より先に、匂いがそう言った。
私の香水は私。リネットの石鹸はリネット。噴水は、それ以上を説明しなかった。しなくてよかった。説明を足せば、足した言葉がまた蓋になる。
「石鹸、私のだよ。王都に来てからも、これしか使わなかった。香水はきれいだった。きれいなまま、カトリーヌさんの首のうしろにあると、息が半分になる気がした」
「わたくしの香水で、苦しい思いをさせましたわ」
「苦しいのは瓶のせいじゃない。十一年、その匂いの中で我慢してきた人の匂いだったから、私が着ると我慢まで着たみたいで。返すとき、少し申し訳なかった」
「謝らなくてよいのです。着た人が、中の年月を自分のものにしなかった。それだけで、十分ですわ」
リネットは、石鹸のする手首を一度だけ鼻の近くまで運んだ。
母の手紙を胸に探したときと同じ手つきで、戻ったかを確かめる。確かめたあと、手首を自分の外套の中へ戻した。
「ある。匂いも、傷も。名前も、呼んでもらえた」
「わたくしの分も、ここにあります」
水面が、月の道を一度だけずらした。
ずらしたあとも、丸と十字は名前を持たない。持たない紋の上で、私たちは自分の息が自分の胸にあることを、呼んだ名前の残りで数えた。私の一回。リネットの一回。混ざらない。混ざらないことが、戻ったあとの礼儀だった。
「指、まだ熱い?」
「熱は、あります。痛みには、なっておりません」
「私も。石鹸で洗っても、切れ目だけは残る。残ってていい。どっちの手だったか、忘れないから」
「忘れません。わたくしの傷は、わたくしの指にあります」
「カトリーヌさん」
四度目は、もう返事を要らなかった。
呼んだ事実だけが庭に残って、残った名前を私たちは紙のほうへ持っていく。紙は匂いより冷たい。冷たいほうが、今夜の次の仕事には合う。
噴水は、まだ鳴っていた。
鳴っているあいだが境目で、境目で呼び終えてから、私たちは石の縁に背を向けた。
◇
協力は、告発ではなかった。
インクの話を、広間へ戻さない。
戻せば、コリーヌが笑い、父が従い、王子がまた正義の顔をする。本当が一つあるたびに、残りが塗られる場所へ、私たちはもう紙を出さない。
出すのは、辞退と、退出だった。
学院の空いた教室を、夜のあいだだけ借りた。
監視はいない。卒業の翌日、生徒はもう各自の馬車の準備をしている。机の上に、リネットが伯爵家の紙を一枚置いた。良すぎる紙。村の紙ではない。それでも、文面は村へ帰るための文面だった。
書く前に、一度、文を捨てた。
最初の案は、私が出した。
インクの真相を、小さく脚注のように添える案だった。添えておけば、父が読んだとき、娘が全部は悪くなかったと残る。残したい気持ちが、指の傷より先に出た。
「入れないで」
リネットが、丸い字を置く前に言った。
「入れた瞬間、この紙は辞退じゃなくなる。告発になる。告発は、広間の床が上手に受け取る。受け取り方を、私たちはもう見ている」
「一行だけなら」
「一行が、妹の名になる。名になったら、あなたの父は妹を守る側で机を見る。見る先が、またあなたではなくなる」
私は、書いたばかりの下書きを、二つに裂いた。
裂く音が、空いた教室で大きかった。窓の外の誰かが振り返らなかったことだけが、幸いだった。
「では、骨はこうします。爵位がないこと。母が村にいること。選ばれた席は、自分の席ではないこと。王子の心には、触らない」
「触らない。触ると、エステルさんの名前まで、この紙が運ぶ」
「運ばせません」
二案目は、短すぎた。
『帰りたい』の四文字。リネットが自分で書いて、自分で笑った。
「これだと、子どもね。伯爵様は、子どもを村へ返す人じゃない。返すなら、大人の文が要る」
「大人の文は、冷たくなります」
「冷たくていい。冷たいほうが、家の言葉に似る。似た言葉でないと、家は読まない」
三案目で、やっと残った。
爵位。母。席。選ばれた理由を、清らかさという言葉ごと返す。返したあとに、恨みの段落は置かない。置かないことが、私たちの礼儀だった。
リネットは、その骨を見てから、自分の言葉を一本だけ足した。
「パンは、焼けます。水路も、村がさらっています。これは、残して。伯爵様が、金を送ると言うから。送らなくていい理由が、要る」
「事実ですわ。事実は、恨みより机に載る」
「うん。載せて、終わりにしよう」
「私、字が丸いと、伯爵様に怒られる。文を、カトリーヌさんが骨にして。字は私が書く」
「骨だけですわ。命令は、あなたの言葉で」
二人で、短い紙を作った。
第二王子との婚約は、辞退する。
私は爵位を持たない。フォルジュの名は、便宜として借りていただけである。
母が、モレールにいる。私はそこへ帰る。
清らかさや家格で選ばれた席は、私の席ではない。
リネットが、丸い字でそれを書いた。
私が、語尾の乱れだけを直した。直しながら、自分の婚約破棄の夜を思った。あれは、私の紙ではなかった。これは、リネットの紙だ。
「王子の前には、出ません」
「出ないで。出たら、また床の真ん中になる。紙だけでいい。伯爵様には、私が渡す。カトリーヌさんは、隣にいて」
「友人として、でよろしいですか」
「うん。友人です、で足りる」
次に、私の紙。
父へ。長く書かない。長く書けば、十一年が涙になる。涙は、父の机ではワインと同じで、見られない。
『婚約は、王子の側で破棄されました。家のために結ばれたものは、ほどけました。私は、サントメール侯爵家に残りません。恨んで出るのではありません。残る理由が、家の側からなくなりました。カトリーヌ』
リネットが、その文を読んで、一度だけ頷いた。
「これでいい。上手に怒ってない。でも、残ってない」
「怒れ、と」
「怒ってもいいけど。この文は、カトリーヌさんの歩き方に似てる。かかとから。崩れない」
封は、無地にした。
家の紋は、退出の紙には押さない。
◇
伯爵家の小さい部屋で、夜の残りを包んだ。
リネットの箱が、机の上で開いている。
帳面。瓶の書きつけ。母への三行。私は自分の手に戻っているので、その紙に触れなかった。触れるのは、リネットの仕事だ。私の包みは、もっと少なかった。星のハンカチは、侯爵家の箱の底にまだある。取りに戻れば、父の「抗うな」が廊下で待っている。
「ハンカチ、捨ててきたみたいで、嫌」
「捨ててない。止めてある。針も、星の途中で止めたまま。コリーヌ様が、完成前の枠を見に来た」
「来たの」
「戸は、丁寧に閉めた。丁寧が、一番冷たい閉め方だった」
リネットは、莓の書きつけを布に包みながら、一度手を止めた。
「取りに、戻る? 二人でなら」
「戻らない。戻れば、私の足があの段差を覚える。覚えた足は、また箱の歩き方になる」
「星は」
「布の星は、ここにある」
私は、自分の胸ではなく、記憶を指した。
リネットが畳みを崩さなかった、という事実のほうを。布そのものは、あの部屋だ。それでも、守られたことは、もう私の側にある。
「扇は、持っていくの」
「持っていきます。開かないかもしれない。開かないものを持つのは、令嬢の癖ですわ」
「癖は、持ってていい。使えなくなったら、モレールの炉の横に置こう。子どもの名を書く板の、重しになる」
重し。
扇の骨が、紙を押さえる。広間で顔を隠すためではなかった骨が、村の名を飛ばさないために残る。私は、その使い方を気に入った。
窓の外で、荷車ではなく、誰かの犬が一度鳴いた。
追手の音ではない。それでも二人とも、鳴きやむまで話を止めた。
「王子は、追ってこないと思う」
リネットが、先に言った。
「私を見ていない人は、いなくなっても、見る場所を変えない。見る場所は、エステルさんの横のまま」
「父は」
「父上は、体面が静かになればいい。娘の行き先より、噂の終わり方のほうが、机に載る」
「ひどいね」
「ひどいことを、怒りの文にはしませんでした。あなたが、そう言ったから」
「言った。崩れないほうが、カトリーヌさんらしい」
包みが、二つになった。
リネットのほうが大きく、私のほうが小さい。小さいことが、負けではなかった。持っていく理由が、家の側に残っていなかっただけだ。
「眠れそう」
「眠れません。それでも、横になります。明日、伯爵の前で、立っていられるように」
「隣で、立ってる。友人です、の距離で」
「その距離が、ちょうどいい」
ランプを落とした。
暗い部屋で、リネットの寝息はなかなか始まらなかった。始まらないまま、朝の牛乳の匂いが、窓の隙間から先に来た。
◇
朝、フォルジュ伯爵家の机の前で、ベルナール伯爵は紙を二度読んだ。
「誰が、この文を整えた」
「私です。隣にいるのは、友人のカトリーヌさん」
伯爵が、私を見た。
昨夜、壊れるときでさえ礼のできる娘、と呼んだ顔。今は、自分の体に戻っている。私は礼を、深くはしなかった。深くすると、また箱に入る。
「侯爵令嬢を、このようなことに使うのか」
「使っていません。見ていただいただけです」
リネットの声は、もう私の喉ではなかった。
丸い字と同じ場所から出ている。それでも文の骨は、二人のものだった。
◇
次の言葉が、リネットの喉で止まった。
伯爵の目は、また紙の上にあった。紙を見ているあいだに、リネットは自分から続きを足そうとした。足すなら、紙に書けなかったほう。広間で誰の手袋に何がついたか、使いが誰の名を言わされたか。その入口まで来て、唇が先に閉じた。
「カトリーヌさんは、本当は、あの広間で……」
本当は、のあとが来ない。
来れば、友人の夜をこの机の上で言い直すことになる。言い直せば、辞退の紙が、誰かの非を並べる紙に変わる。変わる手前で、リネットは自分の声を怖がった。怖がったまま、吸った息を胸の中へ戻した。
私は、半歩も出なかった。
友人の距離。
机に向かって、並ぶ位置。肩は触れない。声も、先には出さない。詰まっているあいだに詰まりを埋めると、励ましの形をした告発になる。告発は、広間の床が上手に受け取る。受け取り方を、私たちはもう見ている。
(言わなくていい)
口には出さなかった。
出せば、心の中のその一文まで机に載る。載った一文は、妹の名を呼ぶ。名を呼べば、この人の見る先がまた娘ではなくなる。
部屋の中で、ペンの尻が机を一度叩いた。
「本当は、なんだ」
リネットの睫毛が、一度下がって、上がった。
上がったとき、声は細くなって、終わりのほうで自分の場所へ戻った。戻った声は、丸い字と同じところから出ている。
「……いえ。続きは、言いません。この紙に書いたこと以上は、今日は置きません。置けば、辞退じゃなくなります」
伯爵が、私のほうを見た。
見た距離のまま、私は靴の位置を守った。リネットの斜め前にも、斜めうしろにも出ない。出た場所は、すぐに代弁の場所になる。代弁は、この子の紙を私の紙にしてしまう。
「そちらは、続きを知っているのか」
知っている。
食卓の笑いも、箱の底の星も、広間へ出さなかった本当も。知っていて、この机には置かない。
「知っておりましても、わたくしの口からは申上げません。隣にいるだけです」
「隣にいるだけ、とは便利な言い方だな」
「便利ではありません。友人ですわ」
深く礼をすれば、箱に入る。
礼は、昨夜と同じ深さで止めた。止めた靴の横で、リネットは私を見なかった。見ないのが、この距離の作法だった。見れば頼ることになる。頼らないで、並んで立っている。
伯爵は、上がりかけた続きを追わなかった。
追わないことが許可なのではない。この人の机は、載らない言葉を数えない。数えないまま、ペン先が辞退の紙へ戻った。紙の上には、誰の非もない。ないまま読まれることが、私たちの礼儀だった。
「王子が、許さん」
「王子は、私を見ていません。見ていない人の許しも、要りません」
伯爵の肩が、落ちた。
息子を二人失ったときの落ち方に、近かったのかもしれない。私には、比べる記憶がない。リネットが、その肩を見て、一瞬だけ目を細めた。
「マルグリットには、金を送る」
「送らなくていいです。パンは、焼けます。水路も、村がさらっています。私がいなくても、一年はもった。戻れば、また一緒にやれます」
「……行け」
短い許可だった。
許可の形をしています、とリネットはあとで言った。本当は、もう止める言葉を、この人は持っていなかった。
侯爵家へは、戻らなかった。
紙だけを、信頼できる使いではなく、学院の事務を通して父の机へ送った。届けばよい。返事は、要らない。返事が来るなら、抗うな、の四文字だろう。もう、その四文字の届く場所に、私はいない。
◇
門の内側で、一度、足を止めた。
荷車は、もう見えている。見えたまま乗ると、持っていくものと持っていかないものが、揺れる板の上で混ざる。混ざる前に、朝の光の下で包みを膝の高さまで開けた。ランプより、光のほうが正直だった。
リネットが、自分の包みから先に指を折って数えた。
「帳面。瓶の書きつけ。母への三行。莓の布。これ以上は、伯爵家の紙を持っていかない。紋の封蝋も、この家に置いていく」
「置いて、正しいですわ」
「カトリーヌさんのほうを、もう一度」
私の包みは、小さい。
小さいことを、光に透かして確かめた。透かした布の中で、骨が一本、硬いまま当たった。
扇だった。
無地のままの、広間で最後まで顔を隠すのに使わなかった骨。要を指でなぞって、開こうとした。開かない。昨夜まで、かもしれない、で済ませていたことが、指の途中で決まってしまった。壊れていない。広間の角度を、もう覚えていないだけのような拒み方だった。
「開かない」
「開かなくていい。重しになるって、言ったから」
「重しとして、持っていきます。開いて顔を隠す扇は、持っていきません。隠す道具に戻るものは、モレールには要りません」
星のハンカチは、包みのどこにもなかった。
探してはいない。ないことを知るために、布の隅まで指を通した。通って、空だった。空が正しい。ハンカチは侯爵家の箱の底に残してある。畳みは崩していない。母の星を、あの部屋に置いたままにする。
「ない」
「取りに、戻らないんだね」
「戻りません。戻れば、父の廊下がわたくしの足を待っています。ハンカチは、布としてあそこにある。守られたことは、もうこちらにあります」
リネットは頷いて、自分の包みの口を結んだ。
結び方は村の結び方で、蝶々にはしない。一度、きつく。ほどけるのは、着いてからでよかった。
持っていかないものを、声に出して数えた。
家の紋。
夜会の手袋。
幼い署名の入った箱。
開く扇。
星のハンカチ。
ハンカチの名を、最後にもう一度だけ言った。
侯爵家に残す。残す、と言ったあとで、私は包みの口を閉じた。閉じた中にあるのは、開かなかった扇だけだった。
(空で、いい)
事実は軽い。
軽いものを腕に抱えて、私たちは止めていた足を、門のほうへ戻した。
◇
門の外に、乗合の荷車があった。
馬車ではなかった。
紋がない。麦の袋と、誰かの樽と、私たち二人の小さい包み。リネットの包みには、箱の紙と、莓の書きつけ。私の包みには、無地のまま残した扇。開かなかったものを持っていくことと、使うことは、別でよかった。
「怖い、と言ったのは、本当?」
「半分。半分は、あなたが乗ってくれるなら、怖くない」
荷車の御者が、行き先を聞いた。
「モレール」
リネットが答えた。
答えた声が、晴れていた。広間の、首を横に振る声とは、もう違った。
私は、かかとからではなく、リネットの隣に座った。
土の道を行くときの重心が、分からない。分からないまま、包みを膝に置いた。
城門の石が、後ろへ流れた。
噴水の音は、もう聞こえない。
聞こえないことが、出発だった。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
続きが気になった方は、評価やブックマークをしていただけると励みになります。
次回は「第5話 モレールのパン」です。




