第5話 モレールのパン
最終話です。
麦の匂いが、先に来た。
王都の香水が、荷車の布から抜けきらないうちに、乾いた穂と、焼いた粉の匂いが乗ってきた。リネットが、膝の上で手を組んだ。組んで、ほどいて、また組む。帰りたくて、帰りきれない人の手だった。
荷車は、三日目だった。
王都の門を出た日は、まだ扇の骨が膝の上で硬かった。乗合は、背もたれのない板で、麦の袋が背中代わりになる。私は一度、かかとから座ろうとして、袋をずらした。御者が笑わずに、袋を戻した。
「令嬢の座り方だと、落ちますよ。ここは、全部が揺れる」
「揺れるまま、座ればいいのね」
「そうです。友達も、そうしてる」
リネットは、すでに土の重心で座っていた。
明るい髪を布で巻いて、侯爵家の香水がしない側にいる。私の香水は、包みの中の扇にだけ残っていた。人に嗅がれる場所からは、自分で外した。
昼に、パンを分けた。
王都の門の近くで買った、白いほう。蜂蜜はない。リネットが半分に割って、大きいほうを私に渡そうとした。
「同じでいい」
「同じだと、あなたが遠慮する」
「遠慮は、今日で終わりにします。同じを、ください」
同じ大きさは、少し難しかった。
粉が指につく。私はついたまま食べた。食べ方が悪いとは、誰も言わなかった。
夜は、村の一つ手前ではなく、まだ街道の宿だった。
一部屋に、狭い寝台が一つ。主人は、姉妹かと聞いた。
「友人です」
リネットが答えた。
友人、がこの道では身分より先に出る。主人はそれ以上を聞かず、湯を置いて出ていった。
「怖くない?」
「宿が、ですか」
「私が、隣にいること。侯爵家なら、令嬢の寝台に平民は座らない」
「あなたは、平民のまま伯爵家にいた人です。私は、侯爵家に残る理由のなくなった人です。今の寝台に、家の順番はない」
リネットは、壁側に座った。
私は、端に座った。端でも、肩が触れる。触れても、どちらかが謝らなかった。
「前の私、電車で隣の人と肩が触れても、謝らなかった日がある。混んでるから。ここは混んでないのに、触れてもいい気がする」
「電車は、知りません。混んでいることだけは、広間で知りました」
「広間は、混んでるのに誰とも触れない。あれが、不思議だった」
二日目は、雨だった。
布を頭から被って、荷車の麦の匂いが水で濃くなった。
御者は口数が減り、馬だけが道を知っていた。川の渡しで、一度降りた。板が濡れていて、私の靴が滑った。リネットが手首を掴んだ。掴み方は、噴水の夜の、杯を拾った手ではなかった。ただ、落とさない手だった。
「わたくし、転ばない」
「今、わたくし、が出た」
「出て、しまいましたわ」
「半分直ってる。もう半分は、村についてからでいい」
対岸で、農夫の妻が私たちを見て、姉妹かとまた聞いた。
同じ問いが、街道には多い。血が似ていないと、人は友達より先に血を疑う。
「友人です。モレールへ」
「モレールなら、パンがいい。マルグリットの炉は、雨の日のほうが膨らむ」
リネットの目が、その一言で湿った。
湿ったまま、彼女は礼を言って、荷車に戻った。私は、母の名が街道の他人の口にあることを、少し羨んだ。羨んで、すぐにその羨みをしまった。しまう先が、もう侯爵家の引き出しではない。隣の人の、湿ったままでいい目の横だった。
三日目の朝、丘が見えた。
リネットが静かになった。静かさは、喜びの手前で足が止まるときの静かさだった。
「席が、なかったら」
「手紙に、残っていなくても怒らないで、と書いてあった」
「書いたのは私。読むのは母。母は、怒らない人だけど、席を人に譲る人でもある」
「譲られていたら、二人で座れる場所を、床の一列から作ります」
「床の拭き方、知らないでしょう」
「知りません。教えてください」
リネットが、やっと肩の力を抜いた。
抜いた肩が、荷車の揺れと同じ側に揺れた。
「あそこ」
丘の裾に、低い家が並んでいた。
屋根は、侯爵家の石ではない。藁と、ところどころ新しい板。水路が、家のうしろを一本通っている。水が、泥ではなく、石のあいだを走っていた。さらったあとの水の走り方を、私は知らない。知らないまま、綺麗だと思った。
荷車が止まると、粉の匂いが濃くなった。
扉が開いた。
マルグリットは、大きな人ではなかった。
リネットより半頭高く、腕に粉がついている。眉が、娘と同じ場所にある。笑う前に、先に目が笑った。
「リネット」
「お母さん」
娘が、降りた。
降りた瞬間に、令嬢の呼び方が剥がれた。伯爵家の便宜も、清らかさも、この粉の腕の中にはない。マルグリットは、娘の頭を、粉のまま抱いた。白い手が、明るい髪についた。
私は、荷車の上に残った。
降りるタイミングが、分からない。
この抱擁は、二人のものだ。侯爵令嬢の入り方をすれば、粉が遠慮する。
リネットが、母の腕の中からこちらを見た。
見て、手を伸ばした。
「一緒に暮らす人。カトリーヌ」
侯爵、とは言わなかった。
サントメール、とも。名だけが、麦の匂いの中に置かれた。
マルグリットが、私を見た。
値踏みではなかった。パンを一切れ、先に誰へ渡すかを決めるときの見方だった。
「お腹、空いてるでしょう」
「……はい」
「じゃあ、降りて。席は、あるから」
席は、残してあってください。
手紙の三行目が、この人の口で、別の人にも開いていた。
私は、包みを抱えて降りた。
着地が、かかとではなかった。土が、靴の底で柔らかく沈んだ。
◇
村を、先に一周した。
リネットが、母に「パン、焼いといて。すぐ戻る」と言って、私の袖を引いた。
引く力は、命令ではなかった。道を知っている人が、知らない人を迷わせないための力。
水路が、家のうしろから畑のほうへ伸びていた。
水は速くない。速い必要がない。石のあいだを、泥ではなく、透明なまま走っている。縁に、長靴の跡がいくつか。さらった人の跡が、乾いて残っていた。
「春に一度。帳面に名を書く。書かない人は、来なくても怒らない。代わりに入った人の名を、別に書く」
「ガスパール、という方」
「覚えてるんだ」
「紙に、ありましたもの。あなたの箱の中に」
リネットは、少し照れた。
照れは、自分の手紙を読まれた照れで、侵された怒りではなかった。
「あそこが、瓶を冷やす棚」
小屋の陰に、木の棚。
空の瓶が、口を下にして並んでいる。一つだけ、中に赤いものが残っていた。冬の手前の、最後の手前。蜂蜜の話は、まだこの時点では出ていない。私は赤い残りを見て、二十四、という数字を思った。
「一軒に、一つ」
「うん。余りは、小さい子から。カトリーヌさんの家は、逆だったでしょう」
「逆でした。位の高い人から、減っていく」
「こっちは、減り方が逆でも、腹は壊さない。去年、赤子は一人も」
自慢の声ではなかった。
確認の声だった。自分がいなくても、村が一年を持ったことの確認。
畑の端で、女の人が二人、麦の穂を見ていた。
リネットを見て、手が止まった。止まったあと、走りはしなかった。走りは、王都の驚き方だ。こちらは、穂を一度地面に置いてから、笑った。
「戻ったのか」
「戻った。こちらは、カトリーヌ。一緒に暮らす」
「お屋敷の声だね」
「お屋敷には、戻らない」
私が言うと、二人は顔を見合わせて、それ以上を聞かなかった。
聞かないことが、歓迎だった。名前と、戻らないこと。村が受け取る情報は、それで足りる。
「明日、寄合がある。来ても来なくても、パンは焼けるよ」
「行きます」
リネットが、私より先に言った。
言ってから、私を見た。
「行くよね」
「行きますわ」
ですわ、が土の上に落ちて、二人の女の人が小さく笑った。
笑いは、嘲りではなかった。新しい長靴が、まだ靴ずれを起こしているのを見る笑いだった。
水路の端まで戻ると、マルグリットが戸口で手を振っていた。
粉の手。振っても、粉は落ちない。落ちないまま、席はある、ともう一度言わなくても、戸が開いていた。
◇
家の中は、一部屋が多かった。
炉と、テーブルと、奥に布で仕切った寝床が二つ。
壁に、子どもの書いた名前の板。ルイーズ、と読める。その横に、まだ字形の崩れた名前が三つ。莓の蓋を閉めた子たちの、証拠だった。
「床、こうやって」
リネットが、桶と布を持ってきた。
私は、布の持ち方から知らなかった。侯爵家の床は、私が起きる前に光っている。光らせた人の手を、私は見たことがなかった。
「折ると、角が床を傷める。緩く持って、自分のほうへ引く。押すんじゃなくて」
「引く」
「うん。水は、少しだけでいい。多いと、粉が泥になる」
一列、引いた。
二列目で、布がねじれた。リネットは笑わず、ねじれを戻した。戻し方が、教える人の手だった。村を、ささやかに良くした人の手。知識は、奇跡の形をしていない。布の角度と、水の量だった。
「できた」
「できた。ここ、今日からあなたの列ね」
私の列。
家の側から残る理由がなくなったあとに、床の一列が残っていた。
パンは、そのあとだった。
マルグリットが、生地を分割する。
リネットが、丸める。私は、丸めたものを見て、自分の手に分を一つ乗せられた。
「潰さなくていい。端を、中へ入れる。入れるとき、息を止めない」
息を止めていた。
令嬢の作法は、よく息を止める。止めると、手が綺麗に見える。パンは、止めた息だと固くなった。
「ふっ」
リネットが、自分の分で見せた。
端が、中へ消える。表面が、張る。
私は、もう一度した。
潰してはいない。綺麗でもない。端が少し見えている。
「それでいい。最初は、端が見える」
マルグリットが、何も足さずに言った。
砂糖を一つ多く入れる言い方ではなかった。味が、ばけない。
◇
昼前に、ガスパールが来た。
村長は、水路の泥の話を、挨拶の代わりにした。
「お嬢さんがいないあいだも、春はさらった。ルイーズが、帳面に名を書いた。書いた名の者が来なかった日は、私が代わりに入った。代わりの分も、帳面にある」
「見ていい?」
リネットが、古い紙の束を広げた。
私が伯爵家の箱でなぞった、あの丸い字の続きが、別の字で続いていた。知識は、リネットの頭の中だけにはなかった。村の紙の上に、残っていた。
「瓶は、冬の手前で一軒に一つ。余りは、寄合のあと。去年、赤子の腹は、壊れていない」
アンが言った通りだった。
アンは、王都に残った。付いてきたいと言ったのを、リネットが「次に瓶を届けるとき、会おう」と止めた。止めた理由は、伯爵家に、モレールの子を一人残しておくためではなかった。アンの母が、村の一つ隣にいるから、とリネットは荷車の上で言った。
ガスパールが、私に気づいて、帽子を持ち上げた。
「そちら様は」
「カトリーヌです。今日から、この床の一列を拭きます」
侯爵、とは言わなかった。
言わないことを、リネットが横で聞いていて、小さく頷いた。
「拭く人は、寄合に出ていい決まりです。出て嫌なら、出なくていい。パンは、出なくても焼ける」
「出ます。まだ、名の書き方を知りませんけれど」
「書けなくても、泥はさらえます」
村長は、それだけ言うと、水路のほうへ戻っていった。
戻る背中が、急いでいなかった。追われている村の背中ではない。
◇
寄合は、午後の木陰だった。
机はない。
板を、樽の上に渡して、その上に帳面が開いている。人が十人ほど。爵位の話は、最初からなかった。あったのは、誰が水路に入ったかと、瓶の蓋を誰が閉めたかだった。
ガスパールが、名を読んだ。
「ルイーズの父。マルグリット。アンの従兄。私。リネットは、不在のまま、紙の続きを皆が書いた」
「不在の行、空いてた?」
リネットが聞くと、村長は帳面の端を示した。
空いてはいない。小さい字で、『不在。代わり、ガスパール』と続いていた。代わりの名が、隠されていなかった。
「カトリーヌの名は、今日は私が書く」
リネットが、丸い字で私の名を一行足した。
足した横に、何をしたかは、まだ空欄だった。
「空欄のままで、いいの」
「今日は、床を引いて、パンの端を中に入れた。それも、仕事のうち。書けなくても、村長が後で見る」
十人の視線が、一度だけ私に来て、すぐに帳面へ戻った。
値踏みが、短い。短いことが、この木陰の作法だった。王都の視線は、もっと長く、もっと甘く、もっと残る。
女の人が、空の瓶を一つ、板の上に置いた。
「蓋が、緩んでた。冬の前に、締め直す人を決める」
「私が、見る」
リネットが言って、私を見た。
「一緒に見る? 熱い布で拭いて、すぐに蓋。息をさせない」
「息」
「瓶が、冷めてから呼吸すると、カビが入る。私の言葉。変でしょう」
「変では、ありません。二十四本を、冬まで持たせる言葉です」
木陰の誰かが、小さく笑った。
また、嘲りではなかった。新しい人が、瓶の呼吸を真面目に受けたのが、少しおかしかっただけだ。
私は、熱い布を受け取った。
受け取るとき、侯爵家の手袋の感触を思い出した。インクのついた、誰かの手袋。ここにあるのは、清潔な布と、空の瓶だけだった。
拭いて、蓋を回す。
回し足りない。リネットが、手の上から力を足した。厨でアンがしたのと同じ角度。私はそのことを、リネットには言わなかった。言えば、入れ替わった朝の話になって、木陰の帳面が重くなる。
「閉じた」
「閉じた。カトリーヌの名の横に、瓶、一つ、と書いていい」
リネットが書いた。
丸い字の横に、私のしたことが、初めて一行になった。婚約の署名とは、違う紙だ。怖がっている字では、ない。
寄合は、それで終わらなかった。
麦の倒れる前の水路の日を、もう一度確認して、赤子のいる家に瓶を先に回す順を決めて、余った蜂蜜を小さじで数えた。派手な決定は、一つもなかった。ないことが、村の発展の正体だった。
「知識、と呼ぶには、小さいね」
帰り際に、リネットが言った。
「高校で習ったのは、もっと大きな顔をしていた。ここでは、蓋と、泥と、名の書き違えないことだけが残った。残った分だけで、去年の冬は越せた」
「大きい顔の知識は、広間に置いてきたのでしょう」
「置いてきた。追ってこないように」
水路の音が、木陰のうしろで続いていた。
私たちは、パンの家の戸へ戻った。戻る道で、私の長靴はまだ大きく、踝の布が一度ずれた。リネットが、立ち止まって直した。直すあいだ、どちらも急がなかった。
◇
着いた日の午後、炉の口は暗かった。
踝を直して戻った家で、マルグリットが薪を二本、床に置いていた。生地は布の下に、朝の形のまま寝ている。端の見える私の分も、張ったリネットの分も、何も言わずに丸められた分も、火の順番を待っていた。
薪は、二本ともよく似ていた。
似た皮の、どちらが火を先に受けるのかを知らないまま、私は軽いほうを上にし、持ち替え、また戻し、戻したところでやっと、自分の手が答えを持っていないことに気づいた。
マルグリットは、その持ち替えを見ても急かさない。
リネットが、枝の乾いた葉を指で払う。
払った葉は、炉の口の外に落ちた。
落ちた場所には、火を当てない。
当てない場所だと分かったのは、もう少しあとだった。
「太いほうを、下。隙間は、残す」
「隙間を、残しますわ」
「塞ぐと、煙ばかりになる。煙ばかりだと、パンが苦くなる」
私は、どちらが太いかを手のひらで量って、太いほうを炉の奥へ立てた。奥が火の場所だと思った。侯爵家の炉は、私が階段を降りる前から奥が赤くて、赤くした人の膝は、一度も見たことがなかった。
煙が、先に出た。
火は、つかない。
つかないまま、枝の先だけが黒くなって、色は壁のほうへ逃げた。
「奥は、壁。壁に当てると、息ができない」
マルグリットが、立てた薪を手前へ寝かす。
寝かした下へ、リネットが細い枝を組んだ。
組む音が、乾いている。
「火は、ここ。口に近いほう。空気が入って、上へ抜けていくところ」
「抜けていく道が、要るのですね」
「要る。パンが息をするのと、同じ」
私は火種を、薪の背中に当てた。
当てた場所が、黒いだけで、火は横へ逃げた。
逃げる熱のにおいが、手袋の記憶より先に、鼻の奥に残る。
「背中だと、逃げる。枝の腹。空気のあるほう」
マルグリットが言った。
言って、私の手ごと火種を移した。
移す力は、強くない。
場所だけを、変える。
「わたくしの当て方が、逆でも」
「逆でも、今からでいい。火は、最初の手を覚えていない」
もう一本の薪を、私は端ではなく真ん中で持った。持ったまま枝の上に置こうとして、斜めのつもりが横になり、組んだ枝が下で潰れた。潰れた音は、乾いたまま、小さく怒ったように聞こえた。
潰した。
「潰しても、やり直せる。床の布も、最初はねじれた」
リネットが、潰れた枝を一本抜き、私の薪の下へ戻す。戻し方は、教える人の手だった。私は止めかけた息を、細く吐いた。吐いたあとの手は、端を持っている。端で、斜めに、もう一度だけ置いた。
置いた薪が、今度は乗った。
乗った下で、枝の腹に火種が当たっている。
皮が黒くなり、少し遅れて、色がついた。
ついた。
リネットが、自分の枝を一本だけ横から足した。足した分だけ色が太くなって、太くなった火は、誰の薪から来たかを言わず、炉の石を内側から温めていく。布の下の生地には、まだ触れていない。触れる前の熱が、先に石へ入った。
「ここから、待つ。蓋は、急がない。開けすぎると、今の色が逃げる」
「待ちますわ」
待つ膝が、三つ揃った。
真ん中がマルグリットで、片方が娘で、もう片方が今日からの人で、煤のつき方が、袖で同じだった。
戸の隙間から、午後の風が一本入った。
風は火を一度寝かせ、また起こした。
起こった火の音が、水路より小さく、家の中だけを走っている。
待つあいだに、石のにおいが変わった。
冷えていた粉のにおいが熱を含み、木のにおいのほうへおりてくる。
おりてきたにおいは、蜂蜜ではなかった。
菓子の甘さでもない。
この家の、炉の甘さだった。
マルグリットが、布の端を一度だけめくった。
めくった下で、私のパンの端が、まだ見えている。
見えたまま、彼女は布を戻した。
戻すときに、まだ、とも、もう、とも言わない。
言わない時間が、火の仕事だった。
私は膝についた煤を払おうとして、払うと筋が広がるので、払うのをやめた。
やめた手を、どこへ置くかを知らない。
知らないまま浮かした手を、リネットが目で、熱くない石の手前へ下ろした。
下ろした石は、ぬるい。
ぬるさが、今日の炉の端だった。
三人の影が、炉の口の明るさで壁に出た。
出た影は、背の順ではなく、しゃがんだ順で並んでいる。
並んだまま、誰も、令嬢、とは呼ばなかった。
私は、指の煤を見た。
落としても、筋にいる。
筋にいたまま、火の位置を、もう一度だけ目でなぞった。
(奥ではない。口に近い、隙間のあるところ)
覚えたのは、それだけだった。
それだけで、着いた日の炉は、パンのほうを向いた。
◇
夕方、子どもが一人、戸口に立った。
「リネット姉ちゃん、帰った?」
「帰った。ルイーズ、字は増えた?」
「帳面、一日も空けてない。こっちの人は、だれ」
私は、粉のついた手のまま、腰を下ろして目の高さを合わせた。
合わせ方を、リネットが朝、子どもにそうしていた。真似だった。真似でよかった。
「カトリーヌ」
「カトリーヌ姉ちゃん?」
姉ちゃん、が、喉に届くまでに少し時間がかかった。
令嬢、様、侯爵家の、を全部飛ばした呼び方。飛ばしたあとに残るのが、名だけだった。
「そう呼んで、いいわ」
「いいの? お屋敷の人みたいな声なのに」
「お屋敷には、もう戻らないの」
ルイーズは、納得したのかしないのか、莓の瓶の蓋の話を始めて、途中で母に呼ばれて走っていった。走る音が、土の上で軽かった。
テーブルに、パンが置かれた。
端の見える、私の分。リネットの、張った分。マルグリットの、何も言わない分。
三つを、割った。
湯気が出た。バターはない。蜂蜜が、小さじ一つ。一つを三人で、端から付けた。
「甘い」
「冬の前の、最後の一つ。明日からは、莓の瓶のほう」
リネットが、私の分の端を指で示した。
「見えてるけど、中まで火が通ってる。成功」
「成功、ですの」
ですの、が出た。
出て、私は自分の舌を見たように感じた。十一年が、蜂蜜の上に残っている。
リネットは、笑わなかった。
直して、とも言わなかった。マルグリットは、自分のパンを食べている。
私は、もう一度、口を開いた。
「成功、だと思う。私の、最初のパン」
私。
わたくし、ではなかった。
広間の床でも、父への紙でも、使わなかった一人称が、蜂蜜のあとで、自分の喉に残った。
リネットが、やっと笑った。
「うん。あなたのパン」
◇
夜、行商人が水路の端で水を汲んでいた。
リネットが、杯を一つ貸した。
貸す代わりに、というほどではなく、相手が自分から王都の話をした。
「第二王子の新しい婚約は、三日で立ち消えだそうですよ。紙が一枚出たら、王子の側は、清らかな令嬢はもうよい、と。侯爵家の令嬢の退出も、同じ週の噂です。追う者は、出ていません。家のほうが、静かにしたがっている」
静かにしたがっている。
父の、抗うな、が、届かない場所で、家の体面として閉じていた。義母の笑いも、義妹のインクも、王子の正義も、この水路までは水音に負けて届かない。
「エステル嬢は」
私が聞くと、行商人は肩をすくめた。
「第一王子の隣のまま、です。第二王子は、相変わらずそちらを見ているとか。見ている、以上の話は、売り物になりませんな」
売り物にならない話は、もう追わなくてよかった。
リネットが、杯を受け取って、何も足さなかった。足せば、新しい事件になる。私たちは、杯を洗って、戸を閉めた。
◇
寝床は、布一枚の仕切りだった。
隣の寝息が、近い。
マルグリットと、リネット。私は、その外側の一枚を貰った。枕は、麦の殻を布で包んだもの。星のハンカチを、その横に置いた。
母の匂いが、日向のまま残っている。
この家の粉の匂いと、喧嘩はしなかった。
(返ってきた、のではない)
カトリーヌ・ド・サントメールの部屋へ、戻ったのではない。
戻る理由のなくなった家から出て、名だけの席を、一つ貰った。
仕切りの向こうで、リネットが小さく言った。
「起きてる?」
「起きています」
「明日、水路を見る。長靴、母さんの古いので合うと思う。泥は、冷たいよ」
「冷えましてよ」
「また、ですわ、が出てる」
「出て、おりますわ」
リネットが、布の向こうで笑った。
笑いは、怒っていなかった。残っていい、という笑いだった。
「ゆっくりでいい。パンの端も、最初は見えてた」
「見えて、いたわね」
◇
仕切りの布が、息で一度動いた。
「カトリーヌ。王都の話は、今夜でしまう」
「しまいますわ。戻る話は、布のこちらには置かない」
「戻らない。私も、あなたも。家が静かにしたがっているなら、こちらから叩かない」
リネットの声は、杯を洗ったあとの低さだった。新しい名を足すための低さではなく、足さないために暗がりをそのままにしておく低さで、布の向こうには、それ以上の影が立たなかった。
「戻りませんわ。父の門も、侯爵家の食卓も、わたくしが開けにいく場所では、もうありません」
言ったあとで、言葉の硬さを自分で聞いた。硬いままでよかった。柔らかく直せば、戻りそうな隙間が、文と文のあいだに残ってしまう。
(追っては、来ない)
行商人が水路の端で置いていった言葉を、私は布のこちらで、もう一度だけ胸の中に戻した。戻すだけで、手紙は書かない。書かないことが、今夜の返事だった。
「追手は、来ない。来ない話を、明日の帳面には入れないよ」
「入れませんわ。明日の紙は、明日の仕事だけで、十分です」
「うん。なら、三つだけ。水路と、名と、パン」
「三つ、ですわ」
向こうで、寝息の手前の笑いが、一つ落ちた。
怒っていない。
残る側の、小さい笑いだった。
外では、水路がまだ動いていた。
動く音は、蹄には似ていない。
似ていない音のほうを、私は布のこちらで聞いていた。
聞くだけで、誰かの名は呼ばない。
母の寝息が、一つ深くなった。
深くなったあと、リネットが声だけを、布のこちらへ少し寄せた。
「短くて、いい」
「短いほうが、残りますわ。長い言葉は、広間に置いてきました」
「置いてきたものは、ここまで来ない。炉の石は、まだ温かいよ」
「温かいほうに、おりますわ」
三つを、私は指で数えた。
水路。
名。
パン。
数えた指は、まだ星に触れていない。
私は、ハンカチの星に指を置いた。
置いたまま、目を閉じた。
◇
朝は、パンの匂いで来た。
香油でも、熱い鉄でもなかった。
粉と、炉と、誰かがすでに一度は床を引いたあとの、水の薄い匂い。
「起きて」
リネットが、仕切りを半分開けていた。
明るい髪に、粉がついている。母の腕の中でついた粉を、落としきっていない。
「行くよ。水路。そのあと、寄合の紙。カトリーヌの名を、今日は私が書く。明日は、自分で」
「自分で、書く」
「うん。書けなくても、泥はさらえる。ガスパールさんの言葉」
◇
長靴より先に、板があった。
壁の、子どもの名の下。ルイーズの字は朝の光で読めて、その横の三つは、まだ崩れたまま乾いている。リネットが炉の端から炭を一本抜き、私の手に乗せた。炭はペンより短く、黒い側が、指のほうを向いていた。
「帳面の今日は、私が書く。これは練習。板は、布で消える。一回でいい」
「一回、ですわ」
「上手くなくていい。明日、自分の行を書くための、今日の手だから」
私は、カ、から書いた。
ペンなら細い横線になるところが、炭だと太く、先に伸びた。
カ、の横棒を、ルイーズの字の高さに合わせようとした。
合わせた線が、子どもの字より大きく、板の縁を一度越える。
越えた分を炭で消すと、消した場所が灰色になって残った。
残った灰色の上から、ト、を書いた。
点は、二ついる場所で一つになり、丸くなりすぎて、字というより、灰の小さい粒に見えた。
リーヌへ下りるあいだに、字の全体が板の下のほうへ滑った。
滑った。
「滑っていい。泥の上の長靴も、最初はそうする」
リネットは、その粒を見ても笑わなかった。
笑わないで、自分の小指を、板の空いた下へ添える。
「ここまで。これより下は、明日の行」
「明日の行には、まだ入りませんわ」
「入らなくていい。今日は、跡があればいい」
リネットは、崩れた字を拭かなかった。
拭かないで、空いた横に、丸い字を一つだけ置いた。
置いた字は、比べて勝つための字ではなく、となりに残る字だった。
マルグリットが、炉のほうから言った。
粉の声のまま、振り向かない。
「読めれば、名だよ。読めなくても、人は呼ぶ」
「この、崩れたほうを、呼べますか」
「呼べる。カトリーヌ。朝から、そう呼んでる」
呼ばれた名のほうが、板の上の失敗より先に、台所の空気の中で立っていた。私はもう一度だけ、最後の線を足した。足した線は太く、ヌの横にいるべき場所を外れて、ルイーズの字の裾に触れそうになった。
触れそうなところで、私は炭を止めた。
止めた跡は、名の完成ではなく、名の手前で終わっている。
太いまま、炭の粉が朝の光で散った。
散った。
終わっていても、マルグリットは炉のほうから、同じ名をもう一度呼んだ。
呼ぶ声は、板が上手くいったかどうかを見ていない。
(書けた、とは言わない)
書こうとした跡が、子どもの名の下に残った。
上手くない。
上手くないままで、よかった。
戸の外で、麦が音を立てた。
追手の蹄ではなかった。風だった。
私は、古い長靴を履いた。
サイズが、少し大きい。礼服の肩が大きかったリネットとは、逆の余り方。余りは、布を一枚、踝に巻けば済んだ。
「行く」
カトリーヌの声で、私は言った。
わたくし、ではなかった。
侯爵家の娘でも、王子の婚約者でも、広間の悪い令嬢でもなかった。
水路の冷たい泥と、端の見えるパンと、名だけの席が、今日の用事だった。
リネットが、先に戸を出た。
振り返って、待っている。
私は、星のハンカチを枕の横に残して、そのあとを歩いた。
麦の匂いの中で、水が、石のあいだを走っていた。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
これで完結です。感想をいただけると励みになります。




