第3話 侯爵家の夕食
前回の続きです。
昼の侯爵家は、人の声が少なかった。
少ないのに、廊下は狭く感じた。靴音は令嬢の扉の手前で必ず遅くなって、遅くなったまま、ノックの一拍を空ける。空いた一拍で、この家は中の人の機嫌を測っていた。
私は、カトリーヌさんの机に座っていた。
卒業の夜が明けて、この家は私を朝の席に呼ばなかった。盆は扉の外に、置いたときの形のままある。スープの表面に薄い膜。手はついていない。ノックは一度だけで、一度で足りる朝を家のほうが知っていて、知っているのは私ではなく、この肩のほうだった。
盆を下げに入った侍女が、私の顔を見て、盆を胸のほうへ戻した。
若い子だった。
私よりいくつも下に見えて、エプロンの紐を自分で固く結びすぎている。目は、床に置いたままだった。
「お昼が、残っておりました。お代わりを、すぐに」
「残したのは、味のせいではありません。下げてください。ありがとう」
肩が、跳ねた。
(まだ、何も言ってない)
カトリーヌさんの声は、穏やかにしても低い。低いだけで次の命令を待ってしまう人がいて、侍女は盆を一度机の端に置くと、手を後ろで組んだ。組んだ指の先が白く、血の気を自分で止めて、止めたまま次の言葉を待っている。
「ほかに、ご用はございませんか」
「ありません。大丈夫です」
大丈夫が、よけいに悪かったらしい。
侍女は礼をして、廊下へ下がった。角で靴が一度止まって、それから急ぐ。止まっているあいだ、あの子は次の言葉を怖がっていた。私は足さない。足せば、怖がる理由がもう一つ増える。
机の上に、本が三冊、揃えてあった。
上の一冊は、作法だった。
頁の角が同じ場所だけで毛羽立っていて、毎日開く場所だと、開く前から指が知っている。礼の深さ。杯を置く角度。笑ってよい間。カトリーヌさんの日課は、折り目になって残っていた。
私はその折り目を開き、字を読んだ。
沈黙の項で、話してはならない席と、頷いてよい回数と、令嬢の口は家が許可してから動く、と書いてある。書いてある頁は、紙が布のように柔らかかった。
「こんな頁を、毎日にしなくてよかったのに」
声は、扉まで届かない大きさにした。
届いたら、さっきの子が戻ってくる。
二冊目は、庭の植物の図だった。
一枚の絵の横に薄い鉛筆の点があって、点の意味を心は知らない。指だけが点の上で止まり、止め方は読むときの止め方ではなく、誰かに見られる前に隠す止め方だった。私は頁を閉じた。閉じる勢いで点が消えたりしないように、ゆっくり閉じた。
三冊目は裏返してあって、その下から紙の角がはみ出している。
手紙だった。
宛名はない。書き出しが一行だけある。
『わたくしは、今後、言葉を慎み』
そこで止まっている。
最後の一画がインクの溜まりで少し太く、ペンを置いた瞬間までが残って、続きを考える時間は残っていない。字は細くて、私の丸さがない。この手の字だと、指が先に分かった。
(書きかけ、なんだ)
作法の本のうしろに、謝罪の文例が載っていた。
載っている文を、カトリーヌさんは写しかけて、写しきれなかった。写しかけた紙を捨てずに、本の下へ置いている。捨てる場所が、この家の机にはないように見えた。
私は、続きを足さなかった。
足した字は今夜の私の字になって、途中でペンを置いた理由まで、私のものになってしまう。未完のままの理由は、本人が戻ってから自分で決めればよかった。
手紙を本のあいだへ戻すと、作法の本がもう一度開いて、沈黙の頁が上を向いた。
開いたままにしておくと、入ってきた人が読む。読ませないように揃えて、手紙はその下に隠した。隠す手順まで、指が知っている。
窓の外は、昼の庭だった。
花壇は丸く刈ってあって、水は止めてあり、止めた水面に空が薄く乗っているだけだった。カトリーヌさんの肩が、その明るさの中で、すでに夕方の重さを待っている。
◇
夕食の前に、義母が来た。
ノックは、返事を待たない。
扉が開いて、ヴィクトワール様の香水が先に入り、甘い匂いが人より先に席を取った。
「カトリーヌ。背中が見えません。家の中の夕食でも、肩を落とす夜にはしないで」
うしろに、夕食のドレスがあった。
持っているのは、昼の若い子とは別の侍女で、目を伏せたまま、布の重さを両腕で受けている。受けている腕が、すでに少し震えていた。
私は腕を通した。
通した瞬間に肩が沈む。沈んだ位置へ、義母の指が来る。襟の布は曲がっていないのに、一度外側へ引っ張られて、喉のあたりが細くなった。
「わたくし、このままでも」
喉が、先に出た。
私、を飲み込む音を、義母は微笑で受け取る。微笑のまま襟の左右を見て、直ったあとも指がもう一度止まる。止まるたび、布の下の肩が家の肩に戻されていく。
背中のボタンは、侍女の仕事だった。
冷たい指が、一つずつ穴を探す。探すあいだ、息をしていない。していないことが、私の背中に分かる。カトリーヌさんの背中は、この怖がり方に慣れていて、慣れていること自体が、今日の私には痛かった。
「その口ね。賢い子の口ね。賢い子は、夕食で昔の話をしません。コリーヌが何か言っても、匙は置かないこと。置いた匙は、反論に見えます」
茶が運ばれてきた。
杯は一つ、私の前にだけ置かれる。砂糖の粒が表面でまだ溶けきっていなくて、一つ多い。母が死んでから家の茶はそうなったと、舌のほうが先に知っていた。
(これは、飲まない)
「冷めないうちに。顔色が、悪いわ」
「いただきますのは、夕食にします」
「あら。飲まないの」
怒らなかった。
怒らない笑顔のほうが、この部屋では広い。壁際の侍女は、杯から立つ湯気だけを見ている。飲まれない茶は、あとで誰かの手が片づけて、片づけた指に甘さが残る。
「砂糖が、多いので」
「あなたのお母様の頃は、薄かったのよ。私は、娘がほっとするように足してあげているだけ。感謝を、顔に出さないのね。それも、よくできているわ」
私は、杯の取っ手に指を添えなかった。
添えればこの手は飲む。口をつければ砂糖の膜が先に残って、残った膜で、夕食の薄い塩まで甘くなる。甘くしたくなかった。
義母は肩の線をもう一度見て、満足したように手を引いた。
「綺麗になりました。お父様は、あなたを見ないかもしれません。見なくても、席には座りなさい。空いた席は、かわいそうに、コリーヌが埋めることになるわ」
「席には、座ります」
廊下の向こうで、コリーヌが誰かに返事をしていた。
言葉は届かない。笑い声だけが、扉の隙間から入る。義母はそちらへ顔を向け、私には用の済んだ人の背中になった。香水が、部屋に少し残る。
残った茶が、窓の明るさで白く光った。
私は、一口も飲まなかった。
昼の若い子が、杯を取りに戻ってくる。取っ手のところで指が震えていて、震える先を見れば、また言葉を足すことになる。言葉は、この家では次の命令より怖い。私は見ないようにして、「ありがとうございます」とだけ言った。
ドレスの肩に、義母の直した線が残っている。
自分の肩の線ではない。それでも今夜は、この線のまま食卓へ行く。
◇
ドレスが、重かった。
自分の体なら、この重さは肩で受けない。モレールの服は、洗った麻で、腕を上げればパンの炉まで届く。今の肩は、カトリーヌさんの肩で、重いものを文句も言わずに受ける作りになっていた。
私は、その肩のまま食卓についた。
蝋燭が六本。
侯爵家は、夜でも昼のように明るい。明るいのに、人の顔はよく見えない。光が、表情の手前で止まっている。
向かいに、ヴィクトワール様。
右に、コリーヌ。
奥に、クロード侯爵。カトリーヌさんの父。私の父ではない。それでもこの体の父として、席がそこにある。
スープが来た。
塩が薄い。味を消すための薄さだった。
「よく、あの場で黙っていたわね」
義母の匙が、皿の縁に当たって、小さい音を立てた。
「広間で泣けば、インクの話は確定しましたもの。あなた、本当に何も知らない顔ができたわ。才能ね」
才能。
私は匙を置いた。置く角度を、この手は知っていた。心が知る前に、指が令嬢の位置へ戻る。
「インクは、カトリーヌのしたことではないのでしょう」
口が、私、を選びかけた。
この食卓で私、は異物だ。異物だと、今は言えない。言えば、この体の主が、夕食のあいだに別人になったことになる。それは本当だけれど、本当をこのテーブルに置く気はなかった。
「わたくしは、しておりません」
わたくし、が出た。
喉が、カトリーヌさんの十一年を覚えていた。私の高校の口より、この喉のほうが今夜は強い。
コリーヌが、パンを割った。
割れ目から、湯気ではなく、笑いが先に出た。
「姉様。今さら、わたくし、ですの。広間では、あんなに小さかったのに」
「小さいのは、知らなかったからです」
「可愛いわ」
桃のドレスは、もう着ていなかった。
家の中のコリーヌは、白い室内着で、その白が一番残酷に見えた。汚れを知らない布が、汚れの話をする。
「手袋のインクは、わたくしが足しておいたの。使いの子には、姉様の名を言わせた。ばれないわ。だって姉様、襟の色のことは本当にしたんですもの。本当が一つあれば、人は残りを信じます」
匙を持つ手が、止まった。
(カトリーヌさん)
噴水で、彼女は言っていた。
インクのことは存じません、と。本当だった。この食卓の、この明るさの中で、妹がその本当を菓子のように割っている。
父が、ワインを一口飲んだ。
杯を見ている。娘を、見ていない。
「父上は、今の話を聞いていらっしゃいますか」
声が、少し震えた。
震えても、カトリーヌさんの声の震えた。誰も、中の人が入れ替わったとは思わない。思わないまま、この家はこの会話を、何度もしてきたのだろう。
侯爵は、杯の脚を指で回した。
「食事の席で、過去を掘るな」
「過去では、ありません。昨夜です」
「昨夜のことは、王子が決めた。家は、それに従う。お前の婚約は、家が結んだものだ。家がほどかれたものを、娘が食卓で拾い直す必要はない」
拾い直す。
カトリーヌさんは、拾い直したいわけではなかったはずだ。ただ、知らない罪を、知っている顔で被せられた。
義母が、ナプキンで口を拭った。
拭う動作が、美しい。美しさが、この家では盾だった。
「コリーヌ。食べなさい。話は、もう十分よ。姉様は賢いから、これ以上、誰にも言いません。言えば、自分の襟の一言まで、もう一度広間に出ることになるもの」
コリーヌは、姉を見た。
勝ったあとの顔だった。高校で、私はこういう顔を見たことがある。グループの端で、本人は手を汚さずに、誰かの名前だけを残す子。こちらでは、令嬢の白い室内着を着ているだけだった。
私は、スープを飲んだ。
塩は、やっぱり薄かった。
◇
食事のあと、誰も私を送らなかった。
それが、この家の親切らしい。
放っておくことが、娘への扱いの完成形になっている。私は廊下を、カトリーヌさんの足で歩いた。足は、曲がり角を知っている。心が迷う前に、小さい部屋の前で止まる。
寝室ではなかった。
隣の、窓の狭い部屋。机が一つ。引き出しの奥に、手の覚えで鍵があった。鍵の場所を、私は知らない。指が知っていた。
箱が出てきた。
木ではなく、皮。
角が擦れて、金の線が半分剥げている。子どものころから、何度も開いた箱。
中に、紙が一枚。
幼い字で、アルベール、と署名してある。その横に、もっと幼い、カトリーヌ。七つか、八つ。字の大きさが、怖がっている。
端に、父の字があった。
『家のために』
それだけ。
愛だとか、幸せだとか、この紙は最初から約束していない。家のために、娘の名前が置いてある。
私は、その紙を恨むより先に、疲れた。
(この人、ずっとこれだったんだ)
箱の底に、ハンカチがあった。
紙より古い。縁の刺繍が、花ではなく、小さい星。香水は、もうしない。石鹸でもない。日向の、乾いた布の匂い。
実母のものだと、指が知っていた。
心は、知らない人の母の布を持っている。それでも丁寧に、折り目を崩さないように戻した。崩したら、カトリーヌさんが何年も守ったものが、私の不器用で終わる。
「返すからね」
声に出して、言った。
カトリーヌさんの声で。部屋には、誰もいない。
◇
箱を閉じてから、足が、もう一つの扉を知っていた。
小さい部屋を出て、廊下を曲がる。曲がる回数は数えていない。絨毯の擦れたところで膝が一度沈んで、沈んだ膝が、自分でまた伸びた。伸びたあとも、足は戻る方向を向かない。
角の向こうで、私は止まった。
止まったあと、すぐに戻りたかった。戻りたかったのは、ハンカチを箱の底に戻したばかりだからで、折り目はもう守ってある。守ったものを置いて、知らない扉の前に立つ理由を、心は持っていなかった。それでも足は、扉の二歩手前で、それ以上もそれ以下も動かなくなった。
木の扉だった。
塗料が、下の端で髪の毛一本ほど割れている。割れ目の奥は暗くて、時計の音も、布の擦れる音も、人が息を整える音も、していない。夕食のあとの蝋燭が、壁の割れ目だけを照らしていた。
扉の横に、色の薄い四角が残っていた。
絵を外したあとの形で、掛け直した跡はない。外した人の名前は聞かない。聞いても、今夜の私が壁へ戻せるものではなかった。
実母の部屋の前だった。
そう知ったのは足で、心は、その名前を口の中に置かない。置いた瞬間に、この冷たい木が私の記憶になる。記憶は、明日返す体と一緒には渡せない。
(開けたら、返せなくなる)
指に、乾いた布の匂いが残っている。
残っているあいだ、私は木に触れなかった。匂いの主は、箱の底に畳んである。扉の向こうへ、もう一度会いにいく必要はなかった。
掌を、近くまで上げて、上げただけで下ろす。
下ろした掌の熱が、自分のスカートの上で冷えていく。冷えるまで、そこから動かなかった。カトリーヌさんがこの距離で止まった回数を、床が知っている。扉の前だけ、絨毯の毛がほかより寝ていた。
耳を澄ますと、家の奥で皿が重なった。
食卓の片づけ。義母の声はもうしない。父の書斎のほうで、紙が一度だけ鳴る。鳴った紙は、娘の名を書いていない音だった。
モレールなら、扉の向こうから粉の匂いがした。
ここには匂いがない。ないことが長くて、蝋燭の芯が二度、小さく爆ぜるまで、私は同じ場所にいた。
「開けません」
誰に言うのでもない。
言ったあとも、息があと三回要った。三回のあいだ、扉は閉まったままで、私の顔を映さない。映さない木のまま、うしろの暗がりへ足を戻した。
戻るとき、膝がもう一度だけ沈む。
沈んでも、扉は開かない。
寝室へ戻っても、目は閉じなかった。
◇
眠れなかったので、家の中を歩いた。
カトリーヌさんの足は、暗い廊下を怖がらない。
怖がらないのは、勇敢だからではなく、この暗さを毎日通ってきたからだ。私の足なら、モレールの夜道のほうがまだ明るい。星が出る。ここでは、窓が少なく、香油の匂いが角ごとに濃い。
突き当たりに、閉めた部屋があった。
扉の前に、花が一輪もなかった。
埃が、取っ手の上に薄くいる。使っていない部屋の埃は、怒っているように見える。私は取っ手に触れかけて、やめた。この部屋の主は、カトリーヌさんの実母だと、足が知っていた。心は知らない。知らない部屋を、客人の好奇心で開けたくなかった。
「奥様の部屋は、開けません」
背後に、侍女がいた。
年は私より上で、蝋燭を胸の高さに持っている。私の顔を見て、蝋燭を少し下げた。下げると、自分の表情が影になる。
「開けません。埃を、見ただけです」
「見ないでください、と侯爵様が。新しい奥様が、気になさいますので」
新しい奥様。
食卓で匙を鳴らしていた人。気に入らない部屋は、花さえ置かせない。
侍女は、私の次の言葉を怖がっていた。
カトリーヌさんが、この廊下でどんな声を出してきたのかが、その下がり方で分かった。怒らなくても、令嬢の沈黙が、使用人には命令より重い。
「怖がらせて、ごめんなさい」
侍女の目が、揺れた。
「……カトリーヌ様が、そのようなことを」
「します。今夜は、します」
侍女は礼をして、角を曲がった。
曲がるとき、蝋燭の火が一度だけ大きくなって、また小さくなった。
私は、閉めた扉に額はつけなかった。
つければ、ドラマになる。高校の文化祭の舞台なら、そうしたかもしれない。ここは舞台ではない。埃のある取っ手を、布の端で一度だけ拭いて、手を下ろした。
(青葉結なら、泣いてた)
前の名が、久しぶりに出た。
電車の窓。制服のリボン。母の弁当の卵焼きが、いつも端に寄っていること。高校の私は、嫌なことがあると友達の肩を叩いて、言葉にしていた。言葉にすれば、半分は外に出た。
カトリーヌさんの十一年は、外に出る扉が、この埃の向こう側で閉まっていた。
私は、自分の頬に触れた。
触れた頬は、カトリーヌさんの頬で、泣いてはいなかった。泣かない練習が、肌にまで染みている。
「泣かなくていいって、言わない。泣きたかったよね、本当は」
誰も答えない廊下で、それだけ言って、私は寝室へ戻った。
戻る途中、庭に面した窓から、七つの年の場所が見えた。
応接の見える庭。カトリーヌさんが、花を持って帰ってきた庭。足が、そこを見ると速度を落とした。
月の下で、花壇だけが黒く丸まっている。
母の墓の花を替えて、帰ったら婚約者がいた、という話を、私はこの体の膝で聞いたわけではない。それでも膝が、段差の前で一度止まった。止め方を、この体が覚えている。
(家のために、か)
紙の字と、同じ夜だ。
私は窓に手をつかなかった。指紋を残すと、明日の侍女が拭く。拭かせるほどの感情を、この家にはもう置かない。
◇
夜更けに、王子が来た。
玄関ではなく、庭に面した応接だった。
正式な訪問にしては、随行が少ない。挨拶、という名の、確認。婚約を切った相手が、まだ大人しく壊れているかを見に来た顔だった。
アルベール王子は、立ったまま私を見た。
見たのは、カトリーヌさんの顔だ。中の高校生を見る目ではない。悪い令嬢の残り香を、鼻で確かめる目。
「もう、僕の前に立つな」
「立っておりません。座るように、と父が」
「口が、減らないのだな。広間では、もう少し哀れに見えた」
哀れ。
私は、膝の上の手に力を入れた。この手は、扇を投げなかった手だ。私なら、高校の廊下で言い返したかもしれない。カトリーヌさんは、言い返さなかった。その差を、王子は哀れと呼んでいる。
「エステル嬢への非礼を、僕は見過ごせなかった。兄上の妃となる方を、陰で傷つける令嬢を、妻にはできない」
正義の声だった。
通る声。歌を習ったあとが、怒りに残っている。
「あなたは、その方のことがお好きなのですね」
言ってから、遅かった。
カトリーヌさんなら、言わなかった言葉だ。噴水で彼女が私に教えたばかりのことを、私は王子の顔に返してしまった。
アルベール王子の色が、すっと落ちた。
「何を」
「視線の先が、そう言っていました。広間で。婚約破棄の言葉より、はっきりと」
「僕は、公正であろうとしただけだ」
「公正なら、インクを誰がしたか、お聞きになりましたか」
王子は、答えなかった。
答えないことが、答えだった。聞く気は、最初からなかった。理由は、切るために足りていればよかった。
「その人を好きなのは、あなたの都合でしょう。カトリーヌさんのせいではない」
カトリーヌさん、と言った。
三人称が、この口から出た。王子の眉が寄る。自分を、自分の名で呼ぶ令嬢。おかしい。おかしいままでよかった。本当のおかしくは、もっと大きい。
「君は、今夜、どこかおかしい」
「おかしくなりました。昨夜、自分の知らない罪で、床の真ん中に立たされましたので」
「知らない、で済むと思うな、とは言ったはずだ」
「済みません。それでも、手袋は違います」
王子は、手袋を見た。
カトリーヌさんの手袋ではない。今夜の、家の中の、素手。王子の見ているのは、罪の形をした空の手だった。
「僕の心を、君が測るな。エステル嬢は、兄上の方だ。僕は、それをわきまえている」
わきまえている人の顔ではなかった。
わきまえている人は、あんな風に、相手の名を発音しない。発音の端が、甘い。本人だけが、それに気づいていない。
「リネット嬢は、清らかだ。君と違って」
「あの子も、望んでいません」
「望む必要はない。家が、足りている」
家。
また家だった。父の紙の、『家のために』と、同じ置き方。人ではなく、箱のサイズで妻を選ぶ。
私は、立ち上がった。
カトリーヌさんの背筋が、私を支えた。支えなければ、高校生の怒りで、この部屋の杯を割っていた。
「今夜は、ここまでにしてください。わたくしは、あなたの前に立つことを、もう自分からはいたしません」
王子は、勝った顔に戻ろうとして、戻れなかった。
哀れな令嬢を見に来たのに、哀れが席を立った。応接の扉が、侍従によって開かれる。王子は一度だけ振り返り、それから庭の暗がりのほうへ消えた。
残った香水は、男の、整えた匂いだった。
カトリーヌさんの香水とは違う。勝利の匂い。
◇
応接に、一人だけ残った。
侍従が茶を置いて、出ていった。
杯を見て、飲む前に分かった。砂糖が多い。ヴィクトワール様の茶だ。カトリーヌさんの杯にだけ多かった、あの甘さ。誰が頼んだのか、侍従は知らない顔をしていた。家の習慣は、頼まなくても届く。
私は、飲まなかった。
飲めば、舌がばける。
ばけた舌では、今夜の王子の言葉の味まで分からなくなる。分からなくすることが、この家の親切らしい。
窓の外は、もう庭だった。
月が、花壇の丸い黒の上にある。七つの年の段差を、この膝が覚えていることは、廊下で知った。今は、その段差の向こうに王子の背中が消えたあとだ。
(青葉結の放課後なら、屋上に行った)
前の学校の屋上は、コンクリートで、風が強くて、友達がパンの袋を鳴らした。
嫌な先生の話をすると、半分は笑いになった。残り半分は、明日の宿題になった。宿題は、解けた。解けない問題は、少なかった。
ここの問題は、解けないまま十一年置いてある。
婚約。義母。見ない父。好きでもない王子。インク。どれも、答えを空欄にしたまま提出されている。
机の端に、刺しゅうの枠が置きっぱなしだった。
花ではなく、星。ハンカチの星と、同じ形。途中で糸が止まっている。止まった場所に、針が刺さったまま、小さく錆びかけていた。
カトリーヌさんは、これを完成させなかった。
完成させる前に、別の星を、母の布のほうで守ることにしたのだと思う。新しい星は、義母の家の中では、咲かせなくてよかった。
私は、針には触らなかった。
触れば、続きを刺してしまう。続きは、本人の指の仕事だ。
「姉様、まだ起きていらっしゃるの」
コリーヌが、戸口にいた。
白い室内着。食卓のあと、化粧を落としても、勝ち方は落ちていなかった。
「茶が、甘いので」
「飲まないの。賢い。でも遅いわ。十一年、飲んできたのに」
「今夜から、飲みません」
コリーヌは、部屋に入らず、枠の星を見た。
「それ、お母様の形でしょう。新しいお母様は、お嫌いよ。姉様が隠すから、まだ残っているだけ」
「隠しては、いません。止めているだけです」
「同じこと」
同じでは、なかった。
隠すのは、見つかれば終わる。止めるのは、本人が戻るまで針を動かさない、ということだ。コリーヌには、その違いが要らない。要らない人に、違いを説明すると、説明が新しいインクになる。
「コリーヌ様。手袋の話を、広間でする気は私にもありません」
「あら、私。姉様、おかしいわ。自分を、他人みたいに」
「他人に、されたのです。昨夜」
義妹の笑顔が、一度だけ本物の困惑になった。
困惑は、すぐ母の娘の顔に戻った。
「寝なさいな。明日、父上が、退出の支度を言い出すかもしれないわ。修道院か、遠い別邸か。悪い令嬢の行き先は、だいたいその二つですもの」
「行き先は、自分で決めます」
「決められると思っているのね。可愛い」
戸が、閉まった。
閉まり方が、丁寧だった。丁寧な戸は、この家では優しさではない。音を立てずに、人を内側に残す技術だった。
私は、甘い茶を窓の外の土へ、少しだけ捨てた。
全部は捨てない。捨てた跡を、明日の侍女が驚いて拭く。驚く人を、これ以上作りたくなかった。残りは、そのまま冷ました。
冷めた杯の表面に、部屋の蝋燭が細く映っていた。
(カトリーヌさん。針は、止めたままにする。星は、ハンカチのほうを返す)
約束が、今夜二つになった。
体と、布。どちらも、私のものではない。
◇
鏡は、寝室の隅にあった。
小さい。
侯爵令嬢の鏡にしては、遠慮している。誰にも長く見られたくない人の鏡だった。
私は、蝋燭を一つだけ持って、その前に立った。
カトリーヌさんが、いた。
上げた髪は、もう解いてある。アンではなく、この家の侍女が無言で解いて、無言で出ていった。残った顔は、夜会の化粧が落ちて、目の下が青かった。十七か、十八か。綺麗だった。綺麗なのに、鏡の中の人は、綺麗でいることに疲れていた。
私の動きを、その顔がする。
手を上げれば、カトリーヌさんの手が上がる。こわい。こわいまま、目を逸らさなかった。
(この人、悪くない)
襟の一言は、本当だったと彼女が言った。
言わされた、とも。インクは、妹だった。父は見ていない。王子は、別の人を好きな自分を、正義と呼んでいる。
悪役の席に立たされた人は、悪役の顔で、こんなに疲れていないはずだ。
疲れていた。十一年分。
「ごめんね」
鏡に、言った。
「あなたの口で、言いすぎた。王子に。でも、言わなきゃ、あの人、一生、自分を正しいままなんだと思う」
鏡の人は、困ったように見えた。
カトリーヌさんが困ると、ほくろのあたりが少し下がる。私は、その下がり方を覚えた。返すときに、この顔を傷つけないように。
机に、紙があった。
この家の紙は良すぎる。村の、粗い紙が恋しかった。それでも今は、届くことのほうが大事だ。
ペンを持つ。
カトリーヌさんの字にならないように、丸く書いた。リネットの字。この手で書くと、どうしても線が細くなる。細くても、宛名ははっきりさせた。
『フォルジュ伯爵家 リネット様』
中身は、一行。
『会いたい。噴水のところで。明日の夜』
差出人は、書かなかった。
書けば、カトリーヌからリネットへの手紙になる。中身は逆だ。噴水を知っている人なら、一行で分かる。
封蝋を、この家の紋で落としかけて、やめた。
紋は、カトリーヌさんのものではない。家のものだ。家の紋で、脱出の手紙は出せない。
蝋を、無地のまま落とした。
廊下に、アンはいない。
ここは侯爵家で、モレールの子はいない。私は自分で、夜の使用人に手紙を預けた。伯爵家へ、明朝届くように、と。使用人は不思議そうな顔をして、それでも令嬢の命令として受け取った。
部屋に戻ると、箱の底のハンカチを、もう一度だけ掌に置いた。
星の刺繍が、蝋燭で薄い影を作る。
「明日、返す。体も、これも」
約束は、鏡の人にだった。
返事は、ない。ないまま、私はカトリーヌさんのベッドに横になった。
枕が、この頭の形を知っていた。
知っている枕の上で、知らない心が、朝を待った。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
続きが気になった方は、評価やブックマークをしていただけると励みになります。
次回は「第4話 もう一度、手を」です。




