第2話 伯爵家の朝
前回の続きです。
馬車の窓が、小さかった。
自分の香水が、向かいの席にある。
首のうしろに置いたはずの匂いが、今は向こうの人の肌から来ていた。私の顔が、その匂いの上で、私を見ている。
(あれが、わたくし)
切れ長の目。上げた髪が、馬車の揺れで一つだけ落ちている。左の耳の下のほくろ。唇は、私なら絶対にしない形で、半分開いたまま困っていた。
中にいるのは、リネット嬢だ。
声を出せば、私の声で、私ではない言葉が出る。さっき噴水で、それを聞いた。
私の今の口は、リネット嬢の口だった。
開けば、何が出るか分からない。石鹸の匂いのする息が、喉の浅いところにいる。
侍従が、扉側の小さい席に座っていた。
フォルジュ家の紋のついた襟。若い男で、二人の令嬢が夜会の途中から黙り込んでいることを、見ないふりで見ていた。
「リネット様。お加減が、悪いのでしたら」
私を、その名で呼んだ。
返事が、遅れた。
わたくし、と言いかけて、この口がそれを拒んだのではない。拒んだのは、私のほうだった。侍従の前で侯爵令嬢の口を出せば、この馬車は広間の続きになる。
「……大丈夫」
声が高い。
自分の声より前に出て、空気に触れてから意味になる。リネット嬢の声だった。語尾に、ですわ、が付かない。付かないことが、こんなに裸に感じるとは思わなかった。
向かいの私が、目を見開いた。
(聞こえたのね。あなたの声が、わたくしの口から)
私の顔が、小さく頷いた。
侍従には、淑女同士の会釈に見えただろう。私たちには、名前の確認だった。
「カトリーヌ様も、侯爵家までお送りいたします。夜会のあと、お一人で馬車を呼ばせるのは、伯爵がお気の毒だと」
伯爵。
ベルナール・フォルジュ。リネット嬢を、村から引き上げた人。噴水で聞いたばかりの話が、侍従の口で家の用事になっていた。
私の顔の中のリネット嬢が、何か言いかけて、やめた。
やめたあと、自分の手袋を見ていた。私の手袋だ。指のつけねに、今夜できたばかりの小さな傷がある。同じ傷が、今の私の人差し指にもあった。
痛みだけは、入れ替わっていなかった。
◇
伯爵家は、侯爵家より暗かった。
悪い暗さではない。蝋燭の数が、少ない。廊下の絨毯が擦り切れていて、端を糸で留めてある。使用人は、迎えるために並ばなかった。玄関に、年配の女が一人と、小さな女の子が一人。
女の子が、私の姿を見て、息を吸った。
「おかえりなさいませ、リネット様」
アン、と噴水の話には出てこなかった名前を、年配の女が呼んだ。
「アン。声が大きい」
「すみません。でも、お嬢様、髪が」
アンは、私の明るい髪を見て、それから何が違うのか自分でも分からない顔をした。違うのは髪ではない。髪は、リネット嬢のままだ。違うのは、立ち方だった。私は知らず、背筋を侯爵家の位置に戻していた。
「疲れていらっしゃるのよ。部屋へ」
年配の女が、私の背中に手を添えかけた。
添えかけて、やめた。侯爵令嬢の背中は、勝手に触れさせない。その癖が、この小さい体にも出ていたらしい。女は手を戻し、アンに目で命じた。
向かいの私、本当の私の体が、玄関の外に残っていた。
馬車のステップで、自分の足の出し方を迷っている。リネット嬢は、カトリーヌの靴で、カトリーヌの歩き方を知らない。
目が、もう一度合った。
(待って)
言えなかった。
侍従が、私の体の腕を、丁寧に、しかし逃さない角度で支えていた。侯爵家へ送る、は、親切の形をした護送だった。
私の顔が、唇だけを動かした。
噴水。
読めた、と思った。
声はなかった。夜の水音だけが、記憶のほうで鳴った。
それから馬車が、私の体を乗せて、門を出た。
◇
リネット嬢の部屋は、令嬢の部屋にしては小さかった。
天蓋がない。
窓のカーテンは、厚い織りではなく、洗った麻だった。机の上に、学院の本が三冊。その横に、木の箱。蓋の合わせ目が、手の脂で黒くなっている。何度も開けた箱だった。
アンが、湯を置いて、それでも出ていかなかった。
「お嬢様。今夜、広間で、お名前が呼ばれたんですって」
「……呼ばれたわ」
「王子の、婚約者に」
アンの声は、喜びに慣れていなかった。
喜ぼうとして、眉のあたりで失敗している。村から付いてきた子だと、年配の女が廊下で言っていた。王都の祝い方を、まだ着ていない。
「アンは、嬉しくないの」
「嬉しい、と言うべきなんですよね」
「言うべきことと、本当のことは、別でいいのよ」
侯爵の娘の言葉が、リネットの声で出た。
アンは、びくりとした。それから、なぜか少し安心した顔になった。
「お嬢様、今夜はいつもと、ちょっと違います」
「どう、違うの」
「昔のほうです。モレールにいたころ。本家に来てからは、お嬢様、もう少し小さくなっていました。ごめんなさい。小さく、って、背の話じゃなくて」
アンは自分の口を押さえた。
言いすぎたと思っている。
私は、木の箱に手を置いた。
蓋が、掌の形を知っていた。この手は、箱の持ち主の手だ。私の心だけが、客人だった。
「アン。少し、一人にしてくださる?」
「はい」
扉が閉まったあと、私はようやく座った。
椅子が、体に合う。
合うことが、悲しかった。私の体は、今ごろ侯爵家の、合わない夜の中にいる。
◇
箱の中は、村だった。
一番上に、紙の束。
罫線のない、粗い紙。字は丸くて、急いでいるのに、数字だけが丁寧だった。
『モレール寄合 三月』
麦、何束。
瓶、何本。
水路の泥をさらった人の名が、五日分。子どもが字を書いた、と端に小さく書いてある。書いた本人の名は、ルイーズ。年齢は書いてない。
私は、指でその名をなぞった。
侯爵家の帳簿は、家令がつける。令嬢は、合計の美しい頁だけを見せられる。誰が泥の中にいたかは、美しい頁には残らない。
この紙には、残っていた。
次に、瓶詰めの書きつけ。
莓を、砂糖を多くしないで煮る。蓋を熱いうちに閉める。冬の手前で、一軒に一瓶。余ったら、寄合のあとで分ける。
(知識、なのかしら)
噴水で、この子は言っていた。
前の私は高校生だった、と。電車だの、日本だのは、まだ私の中で絵にならない。絵になるのは、この書きつけのほうだった。派手な奇跡ではなく、冬まで持つ赤い瓶。
その下に、手紙があった。
書きかけて、閉じたもの。
宛名だけが、完成している。
『モレール マルグリットへ』
本文は、三行で止まっていた。
『麦が倒れる前に、水路をさらってください。私は、まだ帰れません。席は、残してあってください。残っていなくても、怒らないでください』
三行目の、怒らないで、の字が、少しにじんでいた。
涙ではないかもしれない。瓶の湯気かもしれない。私には、涙に見えた。
(この子は、幸せだった場所を、取り上げられている)
広間で、清らかだと紹介された夜に。
私の隣で、首を横に振っていた夜に。
私は、手紙を胸のところまで上げて、それから戻した。
この胸は、リネット嬢の胸だ。母の名を、私のもののように抱えてはいけない。
それでも指は、宛名から離れなかった。
◇
鏡は、扉の裏についていた。
小さい。
夜会の化粧を落とすための鏡で、令嬢の顔を完成させる鏡ではなかった。私は蝋燭を持って、その前に立った。
リネット嬢が、いた。
明るい髪。まっすぐな目。頬が、私の頬より丸い。唇を結ぶと、謝る前の顔になる。今、結んでいるのは私だ。だから鏡の中の子は、謝りたげで、それでも背筋だけが侯爵家だった。
「……こんばんは」
声が、この部屋に似合った。
似合ってしまうことが、居候のようでつらかった。
私は、礼をしてみた。
深い礼。サントメールの令嬢の礼。鏡の子は、その深さまでついてきて、髪が前に落ち、村の子の礼になって崩れた。
(この体は、箱の礼を知らない)
知らないままで、よかったのかもしれない。
知っていたのは、寄合の紙と、瓶の蓋と、母への三行だ。
机に戻って、帳面の続きを読んだ。
『四月。水路、二日目。ガスパール、ルイーズの父、マルグリット。リネットは帳面。泥の中には入らず、名を書き違えないこと』
名を、書き違えない。
それがこの子の仕事だった。侯爵家の令嬢の仕事は、名を間違えないことではなく、名を出さないことだった。出さないことで、家が綺麗でいられた。
『五月。莓、二十四瓶。一軒に一つ届いたあと、余り三。余りは寄合で、一番小さい子から』
一番小さい子から。
私の家の菓子は、逆だった。客の位の高い人から減っていって、子どもには残らない。残らないことを、誰も不正とは呼ばなかった。
私は、二十四、という数字を指で押さえた。
(あなたは、勝つためにこれをしたのではないのね)
広間で王子が私から奪った席と、この二十四瓶は、同じ「得る」という言葉に入らない。
入れようとすると、瓶のほうが恥ずかしがる。
年配の女が、ランプの油を足しに来た。
ノックは、した。返事の前に、半分だけ扉を開けた。伯爵家の作法は、侯爵家より近い。
「まだ、起きていらっしゃる」
「紙が、眠れなくて」
女は、箱の中を見なかった。
見ないことが、この家の優しさだった。
「ジャン坊が生きていれば、あなた様は村のままでした。リュック坊も。二人とも、あなた様の瓶の話を聞いて、一度食べたいと言っていた。食べる前に、いなくなりました」
「……ごめんなさい」
「謝ることはありません。あなた様が殺したわけではない。熱と、馬です。伯爵様は、残った血を数える人になりました。数える人の前では、娘は娘ではなく、続きです」
続き。
私は、自分の婚約を思った。あれも続きだった。七つの年から、家の文面の続き。
「リネット様は、来たくなかった。それは、私が知っています。知っていて、荷物をまとめました。まとめなければ、伯爵様が人をよこして、母上ごと連れていくところでしたので」
「母上を、村に残すために」
「はい。パンの炉は、王都では焼けません。あの方のパンは、モレールの水でないと、膨らみが違う」
女は、油を足し終えると、それ以上を言わなかった。
言い残した分は、ランプの芯が小さく音を立てて受けた。
「お眠りください。明日、伯爵様は笑顔の話をします。笑顔は、今夜だけで十分です」
出ていったあと、私は宛名の紙を、もう一度だけ胸に戻した。
眠れなかった。
眠れないまま、窓の外の王都の灯を数えた。数えても、二十四瓶のほうが、はっきり残った。
◇
箱を、膝の上に戻した。
五月で指が止まっていた。止まらせたままでは、この子の一年が莓で終わる。紙はまだ下にあった。六月。七月。八月。九月。月の字だけが少し大きく、あとは丸い字が、泥の話を急いでいる。
『六月。雨。水路が三日でまた浅くなった。さらった名。ガスパール、トーマ、ポール。マリオンは端の泥。ルイーズは父の長靴の横で、落ちた名を拾う係』
泥の名。
ガスパール。
トーマ。
ポール。
マリオン。
端に、ルイーズ。
侯爵家の雨の日は、欠席の令嬢の名しか残さない。水の中に誰がいたかは、残らないほうを選んで、絨毯を綺麗にしていた。
私はポールの字を、爪の短い指で押さえた。知らない男の名だ。この手は知っている。指の腹が字の角で一度だけ迷って、それから正しく止まった。迷ったのは私で、止まったのはリネット嬢の手のほうだった。
『七月。暑い。配ったあとの瓶を、小さい家から見た。コレット、ニコラ、アン。蓋の下に息なし。二十四のうち、見た三は無事。マルグリットが冷たい床を勧めた家は、割れていない』
二十四。
そのうちの、小さい子から。
アンの名が、また余りを受け取る側にある。廊下で息を吸った子は、侍女になる前、冬の瓶の順番の先頭のほうにいた。
『八月。コレットの瓶、蓋が甘かった。開けて、煮直して、また閉じた。閉じた人、リネット。カビの手前で間に合った。二十四は、まだ二十四』
間に合った。
誇る字ではなかった。三文字が少し大きく、息を吐いた形になっている。
『九月。雨が長い。泥、二度目。五日では終わらず、名を足す。セシル。ピエール。ルイーズの父は腰が痛く、深いところはトーマが代わった。代わっても父の名は消さない。帳面に残す。リネット、書き違えなし』
消さない。
働けなかった人を、泥の列から外さない。侯爵家の席次は、来られなかった人を最初から書いておかなかった。書かない人は、いなかったことになる。
『十月。風が冷たい。瓶を触って、蓋の緩みを見る。見た人、リネット。緩み、一軒だけ。八月に閉じ直したコレットの家は、もう緩んでいない。二十四、まだ割れていない』
私は十月を、五月の下へ戻した。戻す途中で七月をもう一度見る。小さい子から。コレットの次にニコラ、その次にアン。泥の名は六月と九月に残って、瓶の数はどの月も、二十四から減っていなかった。
(順番が、逆なのね)
位の高い皿から空にしていく家で、私は育った。この紙は、小さい口から先に蓋を確かめる。確かめる理由を、誰にも勝つ、とは書いていない。書いてあるのは、泥の名と、瓶の数だけだった。
蝋燭が、紙の端を明るくしすぎた。
私は蓋を閉じた。掌が合わせ目の黒さを知っていて、音を立てなかった。
◇
机の端に、まだ白い紙があった。
母への三行は、胸のほうにある。これはそれではない。私はペンを持った。持つ位置が、私の十一年より指一本ぶん先にある。村の手は、字を急ぐ場所でペンを掴んでいた。
『この体の中の人へ』
書いて、宛名が自分の体だと分かって、ペンが止まった。読むのは私の顔の中にいるリネット嬢で、紙のこちらにいるのは、その子の手を借りている私だ。
『箱は、勝手に捨てません。母の宛名は、私の文にしません。痛くは、していません』
三行目の、痛く、のあたりで字が混ざった。
丸い字の列に、私の細い払いが一本入る。払いを、この手は知らない。知らないものを癖が足す。足された字は、カトリーヌの字でもリネット嬢の字でもなく、夜の途中で転んだみたいに見えた。
『わたくしは』
わたくし、の「く」が、丸い字に潰された。潰れた「く」は、この家で殺している口調の、紙の上の死に方だった。喉の手前で止めているものを、この手までが止めた。
(混ざる。このままだと、どちらの手紙でもない)
もう一行は、書けなかった。書けない文を書けるふりして残すと、朝に誰かが読む。読まれれば、病人の文になる。病人にされた子を、私はこれ以上増やしたくなかった。
紙を、横に裂いた。
音は乾いていた。裂いた片を、もう一度、縦に裂く。細かくして、字が一つの片に揃わないところまで。母の三行は胸に残して、自分の体への書きかけだけを、手の中で小さくした。
小さくしても、混ざった字は混ざったままだ。
私はそれを、床の隅の、燃えかすを入れる壺の底へ落とした。底なら朝のアンが、紙を広げない。
指にインクが残った。
短い爪の間に、黒が一本。自分の体へ書いた指なのに、名の形は、どの片にも揃っていなかった。
母の三行を、胸から箱へ戻した。戻すとき宛名だけをもう一度見る。マルグリット。この字は、裂かない。
◇
朝は、牛乳の匂いで来た。
侯爵家の朝は、香油と、熱い鉄の匂いで来る。
こちらは、厨のほうが近い。窓を開けると、中庭の石ではなく、乾いた布と、誰かが切った林檎の匂いがした。
アンが、着付けに来た。
手際は良い。良いのに、途中で一度止まり、私の襟の合わせを見ていた。
「やっぱり、違います」
「髪が、乱れている?」
「声です。昨日の夜から。お嬢様の声なのに、文の終わりが、お屋敷の奥のほうです」
私は、口の中で、ですわ、を殺した。
殺しても、文の骨は侯爵家のままらしい。十一年は、喉ではなく、もう少し深いところにいる。
「アン。モレールでは、朝は何をしていたの」
侍女に、自分の過去を聞くのはおかしなことだった。
アンはおかしがらず、紐を結びながら答えた。これは、リネット嬢がよくする質問なのだと、結び目が知っていた。
「パンです。マルグリット様が、一番に炉を起こします。お嬢様は、子どもたちの名前を、板に書かせていました。書けた子から、莓の瓶の蓋を閉めさせる。閉め方を間違えると、冬にカビが来るから、って」
「カビ」
「お嬢様の言葉です。王都の先生は、そんなこと教えないって、伯爵様は言っていました。でも村では、その言葉のおかげで、去年の冬、赤子が一人も腹を壊さなかったんです」
アンの手が、紐の上で誇らしそうに止まった。
「水路も、です。春に一度、泥をさらう。さらう日は、爵位のある人もない人も、同じ長靴。お嬢様は爵位がないから、最初から同じ長靴でしたけど」
爵位がない。
噴水で聞いたことが、朝の光の中で、家の事実になった。
「本家に来る前、私は、平民だったのね」
「ご存じでしょう。どうして、そんな顔を」
「顔が、自分で見えないの」
本当だった。
夜の鏡は、蝋燭の顔だった。朝の光の中のこの子を、私はまだ自分の目で受けきれていない。声と、手と、アンの呼び方だけで、リネット嬢の朝に座っている。
扉が、二度ノックされた。
年配の女が、伯爵がお呼びだと告げた。
茶を、甘いものにするか、無糖にするかまで聞いてきた。私は無糖と言った。リネット嬢の朝かどうかは、分からなかった。砂糖の多い茶は、もう飲みたくなかった。
「厨を、見てから行きます」
年配の女が、眉を上げた。
上げて、止めはしなかった。伯爵は待つ人ではないが、娘の朝を一分で切る人でも、今日はまだない。
◇
厨は、廊下の突き当たりだった。
熱が、広間の蝋燭とは違う場所から来る。
炉の口。鉄の鍋。誰かがすでに切った林檎の皮が、桶の縁に残っている。侯爵家の厨を、私は扉の外から匂いだけ知っていた。中に入る令嬢は、いない。
アンが、小さな瓶を棚から下ろした。
「空です。蓋の練習、お嬢様が私にしてくださいました。今日は、逆に私が」
「逆で、構わないわ」
瓶の口を熱い布で拭く。
拭き方が、アンの手では一回で終わる。私は二回拭いて、三回目で布を落とした。落ちた布を、自分で拾った。拾うこと自体が、この家の令嬢の仕事ではなかったのかもしれない。リネット嬢の体は、拾うことを恥だと思わなかった。膝が、自然に折れた。
「蓋は、熱いうちに。冷めてから押すと、冬に息をします。息をすると、カビが入ります」
「息」
「お嬢様の言葉です。私は、最初、瓶が呼吸するのかと思いました」
アンが笑った。
笑い方が、王都の扇の裏ではなかった。
私は、空の瓶の蓋を、教えられた角度で回した。
回し足りない。アンが、私の手の上から一度だけ力を足した。力は、命令ではなかった。
「これで、閉じます。中身は、今日はありません。莓は、モレールに残っています」
「二十四瓶」
「読んで、いらっしゃったんですね」
「読みました。余りは、小さい子から」
アンは、瓶を棚へ戻しながら、小さく頷いた。
「伯爵様は、その紙を見ると顔をしかめます。村の帳面を、令嬢の机に置くのは無作法だ、と。でもお嬢様は、箱の底に隠して、それでも捨てませんでした」
「捨てません」
私の言葉ではなかった。
この手の約束として、出てしまった。
炉の前で、厨の女がパンの端を一切れ、何も言わずに板の上に置いた。
客への菓子ではない。作業の手のための、一切れ。私はそれを見て、受け取ってよいのか分からなかった。
「どうぞ」
アンが言った。
かじると、甘いものが入っていなかった。
粉と、塩と、炉の熱。侯爵家の朝の菓子は、これより白く、これより意味がなかった。
「おいしい」
「マルグリット様には、負けます。負けますけど、王都の水でも、膨らみはします」
「母上のパンは、水が違うのね」
「はい。だから、炉ごとは連れてこられなかった」
私は、一切れを食べ終えて、手の粉を払った。
払いきれない。爪の短い指の間に、白が残る。残ったまま、伯爵の机へ行く。それでよかった。無糖の茶より、この白のほうが、今朝の私を説明していた。
「行きましょう。待たせると、続きの話になります」
アンの続き、は、血の続きだった。
私は頷いて、厨を出た。出すとき、空の瓶の列が、棚の上で同じ方向を向いていた。口を下にして。冬を待つ並び方。
◇
ベルナール伯爵は、大きい人ではなかった。
机が大きいだけで、本人は肩の落ちた、五十の男だった。
息子を二人失った顔は、怒りではなく、紙の枚数を数える顔になっていた。私を見ても、娘を見た目にはならない。残った血を、見る目だった。
「リネット。座れ」
座った。
背筋が、また侯爵の位置に戻る。伯爵の眉が、わずかに動いた。
「昨夜のことは、聞いた。よく、拒まなかった」
「拒めない、と朝に言われたからですわ」
ですわ、が出た。
伯爵のペンが、紙の上で止まった。
「……口調が、変わったな」
「緊張しておりますの」
嘘だった。
緊張はしている。しかし口調の理由は、別の人だからだ。その本当は、この机には置けない。置けば、私は病人か、魔女になる。どちらも、村へ帰る助けにはならない。
伯爵は、嘘を疑いきらず、ペンを置いた。
「跡継ぎのジャンが、熱で死んだ。次のリュックは、猟の帰りに馬から落ちた。二年のあいだに、二人だ。傍流で、年格好が足りて、生きているのは、お前だけだった」
「爵位は、私にはない」
「ない。伯爵は、私だ。お前は平民の籍のまま、この家の名を借りている。学園が、伯爵令嬢と呼ぶのは、便宜だ」
便宜。
清らかで、家格が足りる、という王子の言葉の、裏側がこれだった。家格は、借り物。清らかは、味方がいない、という意味の言い換え。
「今日から、第二王子の婚約者として振る舞え。村へ帰るな。マルグリットには、私が金を送る。母を、盾にするな」
盾。
書きかけの手紙の、三行目が浮いた。
席は残してあってください。残っていなくても、怒らないでください。
「母は、盾ではありません」
「では、何だ」
「パンを焼く人です」
伯爵は、私を初めて、少しだけ人間として見た。
見て、すぐに紙へ戻った。人間として見る時間が長いと、命令が鈍ることを、この人は知っている。
「手紙は、私が読む。直接、出すな。王子からの使いが来たら、笑顔で受け取れ。笑顔は、サントメールの令嬢に習え。あれは、壊れるときでさえ礼のできる娘だ」
私の体の話を、私は他人の褒め言葉として聞いた。
壊れるときでさえ、礼ができる。
昨夜の私が、そう見えていた。扇を投げなかったから。泣かなかったから。
(あれは、強さではなかったのに)
「分かりました」
伯爵は、もう私を見ていなかった。
◇
廊下に出ると、アンが待っていた。
待っていたのではなく、中庭の窓から離れられなかったらしい。
私は、その窓に並んだ。
下に、自分の体がいた。
侯爵家へ送られたはずのカトリーヌが、伯爵家の中庭に戻っている。送り届けたあと、何かの用事で引き返す途中なのか。あるいは、リネット嬢が、この家から離れるのを拒んだのか。
自分の足が、石の上で迷っていた。
かかとから下ろす。
私の歩き方だ。リネット嬢は、それを真似ている。真似るたびに、膝が先に出て、令嬢の直線が崩れる。侍従が何か言っている。自分の顔が、困って、それでももう一度、かかとから試している。
(上手にならないわ)
ならなくてよかった、と思った。
私の歩き方は、箱の中の歩き方だ。あの体に、今は別の人がいる。別の人まで、十一年を着なくていい。
自分の顔が、上を向いた。
窓の私を、見た。
見た、と分かった瞬間、リネット嬢は侍従に頭を下げ、中庭の奥へ歩いていった。歩き方は、もう真似ていなかった。土の上の重心で、カトリーヌの靴を不器用に運んでいる。
その不器用が、噴水の言葉よりよく分かった。
(あなたは、私の体を、私の箱に戻したくないのね)
◇
アンが、袖を指先だけで引いた。
「リネット様。応接に、王子の使いの方が」
中庭のほうを、もう一度だけ見た。自分の姿は、奥の暗がりに消えていた。姿の消えた石をあとにして、私は廊下を戻った。
応接は、伯爵の机の間より狭かった。
アンが扉の脇に立つ。立ったまま、祝いの部屋の入り方を体で思い出している。村から来た子の位置で、王都の客を迎える。
使いの人は、若かった。王子その人ではない。紋のついた短い外套で、祝福の紙と、白い包みを両手に持っている。包みから、砂糖の匂いがした。侯爵家の祝いなら、匂いの前に家名が来る。こちらは、匂いが先だった。
「リネット・フォルジュ様。第二王子殿下より、婚約のお祝いを預かりました」
お祝い。
私は、口の端を上げた。上げ方は、十一年で覚えたものだ。壊れる前に使う笑顔で、伯爵が、あれに習えと言った顔。習う相手の体は、今、中庭の奥にいる。ここにあるのは、その笑顔を覚えている心だけで、頬はリネット嬢の頬だった。
丸い。
丸い頬の上では、習った笑顔が、習った形より柔らかく見える。柔らかく見えることが、嘘を綺麗にしてしまって、嫌だった。
「受け取ります」
ですわ、を喉の手前で殺した。殺したあとの声は、リネット嬢の高さのまま、文の骨だけが硬い。使いの人は、その硬さを緊張の礼儀と聞いたらしい。紙を、卓の上に置いた。
「殿下は、清らかな方だと、広間で申しておりました。末永く、と」
末永く。
この口が、七つの年から続いた席を祝っている。祝われている席は、昨夜、隣で首を横に振った子の席だ。中身が入れ替わっても、席の嫌さは入れ替わらなかった。
(嬉しくない)
笑顔は、崩さなかった。崩すと、使いの人は理由を聞く。理由は、この応接には置けない。二十四瓶の話を、王子の砂糖の前ではしない。
包みを、開けないまま受け取った。手のひらに、砂糖の重さ。重さのわりに、中身は小さい。小さいものを、大きい祝いの顔で渡してくる。
「殿下へは、口上でお礼を」
「こう伝えてください。紙は、受け取りました」
喜びました、とは言わなかった。使いの人は、一拍だけ待った。祝いの返事には、もう一語、甘いものが要る顔だった。私は足さなかった。足す語が、この丸い口の中になかった。
それでも笑顔は、卓の上に残していた。残しているあいだ、使いの人は満足したように見えた。満足は、相手の顔が足りていた、というだけの満足だ。心までは、紋の外套は読まない。
礼をして、外套の裾を返した。
扉が閉まった。
閉まったあとで、私は口の端を下ろした。下ろすと、頬が疲れていた。笑顔は筋肉だと、家庭教師は言っていた。この顔の筋肉は、私の十一年を知らない。知らない筋肉で作った笑いは、作った本人より先に、狭い部屋に残った。
卓の紙を、裏返した。祝詞は、家の文面の続きに似ている。続く、と書いてある。続きの先に、瓶の数は出てこない。
「アン。これ、厨へ」
「お嬢様は、食べないんですか」
「食べたくないの」
本当だった。砂糖の多いものは、昨夜からもう欲しくない。欲しくないものを、婚約の印として舌の上に載せる気はしなかった。
アンは、包みを胸に抱いて、尋ねなかった。尋ねないまま、一言だけ言った。
「今の笑顔、モレールのと違います」
「知っているわ」
「悪い意味じゃ、ないです。ただ、お嬢様の笑顔は、もう少し下手でした。下手なほうが、私は好きです」
下手。
上手な笑顔は、サントメールの財産で、この頬の財産ではない。好きだと言われた下手さを、私はまだこの顔で持っていなかった。
◇
部屋に戻り、箱の手紙を、もう一度だけ出した。
『モレール マルグリットへ』
宛名の字は、丸い。
この手で書かれた字だ。今、同じ手でなぞっても、私の字にはならない。
それでも私は、紙を小さく折って、胸の内側に入れた。
母の名を、借りる。
返すまで。返す場所が、噴水だと、窓の向こうの人が知っているなら。
アンが、扉の外で牛乳の杯を置いた。
ノックは、しなかった。中にいるのが、いつものリネット様だと、まだ決めかねているノックのなさだった。
私は、折った紙の角が肌に当たるのを感じながら、窓を閉めた。
中庭には、もう自分の姿はなかった。
石だけが残って、朝の光の中で乾いていた。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
続きが気になった方は、評価やブックマークをしていただけると励みになります。
次回は「第3話 侯爵家の夕食」です。




