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第1話 卒業の広間で

全五話で完結する話です。

卒業の夜会で、侯爵令嬢は婚約者に断罪される。新しい婚約者として名を呼ばれた令嬢は、首を振る。

蝋燭が、多すぎた。


熱が、肩の上に乗っている。香水と、焼いた肉と、女の子たちの汗が、天井へ上りきらずに、顔の高さで止まっていた。


私は、扇を開かなかった。


開けば、手が震えているのが見える。閉じておけば、骨の硬い感触だけが掌にある。それなら、まだ令嬢の手でいられた。


(今夜で、終わる)


誰にも言われていない。手紙も来ていない。それでも体が知っていた。靴の中で指が冷たい。背中の紐が、いつもよりきついわけでもないのに、息が半分しか入らない。


広間の中央は、空いていた。


踊る人は端にいる。輪の真ん中だけが、磨いた床のまま光っている。そこに立たされる人が、今夜いる。


私だと、分かっていた。


◇


サントメール侯爵家の令嬢は、七つの年から、第二王子の婚約者だった。


決めたのは、父だった。


庭で、母の墓の花を替えて戻ったら、応接の間に知らない子どもが座っていた。金色に近い髪。膝の上できちんと重ねた手。私より二つ上で、それでも子どもだった。


「アルベール王子であらせられる。今日から、お前の婚約者じゃ」


父は、私の頭に手を置かなかった。置いたのは、言葉だけだった。


王子は私を見た。

嫌っている目では、まだなかった。ただ、別の場所を見たがっている目だった。窓の外。鳥。なんでもよかったのだろう、この部屋以外なら。


「……よろしく」


小さな声だった。


私はスカートを摘んで、教えられた通りに礼をした。


「わたくしこそ。カトリーヌ・ド・サントメールと申します。以後、お見知りおきを」


王子は、もう一度だけ私を見て、それから父のほうを向いた。


「父上には、僕から申し上げます」


父が、満足そうに頷いた。


母の墓へ持っていくつもりの花が、私の手の中で、まだ生きていた。水の滴が、手袋の端を暗くした。誰も、それを見ていなかった。


◇


母が死んでから、家の茶は甘くなった。


ヴィクトワール様は、笑って茶を淹れる人だった。私の杯にだけ、砂糖を一つ多く入れる。多いのは、優しさに見える。舌がばけて、味が分からなくなる、というだけのことだと知ったのは、もう少しあとだった。


「カトリーヌ。背筋を伸ばして。あなたのお母様は、もういらっしゃらないのだから、私が直してあげるわ」


直されるのは、いつも私だけだった。


義妹のコリーヌは、同じテーブルで、肘をつき、菓子を二つ取っても、何も言われない。私が見ていると、母のほうを見てから、ゆっくり私に微笑んだ。


(あなたが怒れば、あなたが悪いのよ)


その微笑は、そう言っていた。


父は、奥の席で書類を見ていた。

娘が砂糖の多い茶を飲んでいることも、もう一人の娘が肘をついていることも、父の紙の上にはなかった。


「クロード様。カトリーヌは、本当に真面目ですこと」


義母が言うと、父は「うむ」とだけ言った。


真面目は、褒め言葉ではなかった。手のかからない娘、という意味だった。婚約という大きな箱に入れて、蓋をして、卒業の夜まで出さなければいい。


私は、蓋の内側で大人になった。


◇


今夜の馬車の中で、義母は私の手袋を直した。


直す場所は、曲がっていなかった。

それでもヴィクトワール様の指は、私の甲の上で一度止まり、それから布を引っ張った。痛くはない。痛くないまま、自分の手ではなくなる。


「笑顔を忘れないで。アルベール王子は、公正な方です。公正な方の前で、感情を見せるのは無作法よ」


「わたくし、何もしておりません」


「しているかどうかを、決めるのはあなたではないの」


向かいの席で、コリーヌが小さく笑った。

新しいドレスだった。私の卒業の夜なのに、一番新しい布を着ているのは義妹のほうだった。色は薄い桃で、インクの染み一つない。


「姉様は、いつも何もしていないお顔がお上手ですもの」


父は、窓の外を見ていた。

王都の灯が、父の横顔を黄色く切る。口は、義母の言葉が終わるまで開かなかった。


「クロード様」


「……抗うな」


それだけだった。


抗うな、は、七つの年の庭から続いている。

花を持っていた手を、誰も見なかった夜から。私は手袋の中で指を折り、折ったまま広間の階段を上った。


階段の途中で、エステル嬢とすれ違った。


薄い緑。襟は、前の夜会より淡い。

私の言葉が、布の色を変えたのだと思うと、胸の下がいつの間にか重くなった。


「カトリーヌ嬢。今夜は、卒業ね」


「エステル嬢も」


笑顔を、忘れなかった。

義母の言った笑顔ではなく、ただ唇の形だけを、令嬢の位置に置いた。エステル嬢はそれを見て、何か言いかけて、やめた。ルイ王子が、階段の上から彼女の名を呼んだ。


呼ばれた人は、救われる。

呼ばれなかった私は、段を一つずつ上った。


◇


広間の左手に、第一王子がいた。


ルイ王子の隣に、エステル嬢。

薄い緑のドレス。襟の色が、今夜は抑えてある。私が言ったからだ。


(その襟の色は、第一王子妃には派手ですわ)


言わされた文だった。

義母が、鏡の前で三度言わせた。四度目に、私の口がそれを覚えた。夜会の前の廊下で、エステル嬢の前に立たされて、私はその通りに言った。


エステル嬢は、怒らなかった。

困ったように笑って、「そうね」とだけ言って、襟に手を当てた。


あの笑顔が、今夜も向こうにある。

私を見ていない。ルイ王子の杯に、静かについでいる。


そしてアルベール王子が、その笑顔を見ていた。


婚約者が、広間の中央を空けて待っているのに。

見る先は、兄上の隣だった。


(ああ、そうだったのね)


今さら、驚いてはいない。

子どものころから、この人の目は私の後ろにあった。鳥でも、窓でも、なんでもよかった。名前が、今夜やっと分かっただけだ。


エステル嬢。

第一王子の婚約者。

アルベール王子の、見てはいけない人。


私は扇の要を、指でなぞった。


震えていないことを、確かめるように。


◇


端の柱のそばに、もう一人いた。


リネット・フォルジュ。

伯爵家の令嬢、と紹介されて、学園に来た子。来たのは、卒業まで一年を切ってからだった。


礼服が、少し大きい。

肩の線が、誰かに合わせてもらった線で、本人の肩より外側にある。立ち方も、この広間の立ち方ではない。重心が、かかとではなく、土の上にいるときの場所にある。


綺麗な子だった。

髪が明るくて、目がまっすぐで、笑えば周囲が安心する顔。今夜は笑っていなかった。


私と目が合った。


リネット嬢は、小さく頭を下げた。

敵の頭の下げ方ではなかった。申し訳なさそうで、それから、怖そうだった。


(あなたは、何を知っているの)


聞く場所が、なかった。

楽隊が曲を変え、公爵夫人が笑い、アルベール王子がやっと私のほうを向いた。


笑顔だった。

正義の人の笑顔だった。


(来る)


来るまでに、広間はまだ踊っていた。


私は壁の花の横で、杯を持たされたまま、一口も飲まなかった。

飲めば、手が空く。手が空くと、扇を開いてしまう。開いた扇は、今の私には、顔を隠す道具にしかならない。隠した顔は、悪いことをした顔に見える。見えていなくても、人はそう読む。


三年前の夜会で、アルベール王子は私と一度だけ踊った。


踊りそのものは、難しくなかった。

足は教則を覚えていて、王子の手は正しい位置にあり、曲は長すぎなかった。難しかったのは、目だった。王子は私の肩の上を見ていた。肩の上には、何もない。シャンデリアの光と、誰かの羽根飾りがあるだけだ。


「左手が、少し早い」


「失礼いたしました」


「気にしないでいい。僕も、今夜はここにいたくない」


いたくない、を、私は未熟な言葉として聞き流した。

婚約者の未熟は、あとで育つものだと、義母が言っていたから。育たなかった。育つ場所が、私の肩の上にはなかった。


今夜、その同じ肩の上を、王子の視線が通り過ぎて、エステル嬢のところで止まる。

三年前に空いていた場所に、やっと人の名が埋まった。埋まったのは、私ではない。


隣で、見知らぬ夫人が扇の裏から言った。


「手袋の件、ご存じ? インクですって。使いの子が、侯爵令嬢の名を」


「まあ。あの静かなお方が」


「静かだから、分からないのよ」


私は、杯の脚を指でなぞった。

震えていないことを、もう一度確かめる。確かめるたびに、震えは指ではなく、杯の表面のほうへ逃げる。冷たいガラスが、掌の熱で曇った。


コリーヌが、桃のドレスで輪の中にいた。

踊ってはいない。踊らないまま、中心にいる。母の隣に戻るたびに、何か一言を置いて、また離れる。置いた一言で、夫人たちの扇の角度が変わる。


(あなたが、運んでいるのね)


まだ、インクとは結びついていなかった。

結びついていたのは、気配だけだった。甘い茶の匂い。砂糖を一つ多く入れられた舌が、今夜の空気の甘さを、ちゃんと毒として覚えている。


曲が、一つ終わって、すぐに次が始まった。


裾が床を滑る。滑ったあとが、光の筋になる。中央だけは、筋がつかない。つかない床を、人は目で避けて、足でも避ける。避けられた円の大きさは、令嬢が一人立つぶんと、王子が半歩引くぶんと、その周囲の沈黙だけだった。


私は、その円の縁を、壁から数えた。


十二歩。

十二歩を自分の足で行くと、さっき決めた。決めたまま、花の横にいる。いるあいだに、背中の汗が紐の下で冷えて、また熱くなった。


(まだ、呼んでいない)


呼ぶ声は、王子のほうにある。

王子は兄上の輪の外側で、杯を持ったまま、エステル嬢の手元を見ている。見ているあいだ、広間の時間は私だけが厚くて、ほかの人は薄い。薄い人たちは笑い、杯を替え、誰かの羽根飾りを褒めた。褒め言葉が私の耳を通って、壁に吸いこまれる。残るのは、自分の呼吸の数だけだった。


足の指が、靴の中で冷たいまま動かなかった。


動かないほうが、楽だった。動けば、十二歩を本当に踏みそうになる。踏みそうになるたびに、床の円が近くなる。近くなっては、また壁へ戻る。戻る自分を、誰も見ていないようで、見ている。見ている目は、扇の縁や、杯の光や、隣の人の肩の上に隠れていた。


給仕の少年が、私の前を通った。

盆の上の杯が、同じ高さで並んでいる。少年は私の杯が空いていないことに気づいて、足を止めかけ、止めないことにした。止めない判断が、今夜は正しかった。私の指には、もう何も受け取る余裕がなかった。


隣の柱の陰で、知らない令嬢が手袋を直していた。

直している指が、インクの話を聞いたあとの指に見えた。見えただけで、私は目を伏せた。伏せた目の前に、自分の手袋がある。汚れてもいない。汚れていないことが、今夜は証拠にならない。


蝋が、頭の上で小さく弾けた。


熱が、その音のぶんだけ濃くなる。濃い熱の下で、唇の内側が甘かった。馬車の茶の砂糖が、まだ舌の奥にいる。甘いまま、私は何も言わなかった。言わない横顔のとなりで、壁の花が少しだけ頭を垂れている。


楽隊が、曲の頭へ戻ったように聞こえた。

本当は次の曲だったのかもしれない。境が、蝋燭の熱で溶けている。溶けたまま、私は扇の要を指で押さえた。押さえていれば、開かない。開かない手で、私はまだ壁の花の横にいられた。


楽隊が、曲の最後の音を延ばした。

延ばしきる前に、アルベール王子が中央の空いた床へ出た。


正義の人は、音楽が終わるのを待たない。

終わらせに、来る。


◇


「皆、少し、聞きたまえ」


王子の声は、よく通った。

歌を習った声だ。私への手紙には、一度もこの声を使わなかった。手紙は短い事務で、季節の挨拶さえ、書記の文面だった。


広間が、こちらを向いた。


中央の空いた床が、急に遠くなる。

私は歩いた。歩かなければ、誰かに腕を取られる。それだけは、自分の足で行きたかった。


止まった場所で、蝋燭の熱が真上から落ちてきた。


アルベール王子は、私の目を見なかった。

皆の顔を見て、それから、エステル嬢のいるほうを一度だけ見て、口を開いた。


「サントメール侯爵令嬢カトリーヌは、僕の婚約者だった」


だった、が、先に来た。


「しかし彼女は、第一王子妃となるべきエステル嬢に、陰で悪口を言い、社交の場を妨げた。エステル嬢の手袋にインクを仕掛け、使いの者には自分の名を出させた、と、複数の口が一致している」


ざわめきが、床を這った。


インク。


私は、その言葉を、今この場で初めて聞いた。


(手袋?)


知らない。

知らないことが、この熱の中では、言い訳にしかならない。知っているのは、襟のことだけだ。派手ですわ、と、言わされた一言。


「僕は、それを見過ごせない」


王子の横顔が、正義で光っていた。

見過ごせないのは、エステル嬢が困った顔をしたことだ。私のしたことと、誰かのしたことが、この人の中ではもう一枚の紙になっている。分ける気がない。分けたら、婚約を切る理由が薄くなるから。


「よって、婚約は破棄する」


床が、一度だけ傾いた気がした。

傾いていない。蝋燭も、顔も、全部まだそこにある。傾いたのは、七つの年から私を入れていた箱のほうだ。


蓋が開いた。

中にいたのは、花嫁ではなく、悪い令嬢だった。


「カトリーヌ嬢。何か、言うことはあるか」


聞かれた。


扇が、掌の中で骨を鳴らした。

投げれば、前に立った自分がやったように、広間は私を悪役で確定できる。泣けば、インクを知らないことが、知っていて隠したように見える。


私は、エステル嬢を見た。


向こうも、こちらを見ていた。

怒ってはいない。悲しんでもいる。ただ、この場の熱を、自分の肌で受けている顔だった。


「……一つだけ」


声は、思ったより小さかった。

それでも、近い列には届いた。


「襟の色のことを申し上げたのは、本当です。わたくしの口が、そう言いました。インクのことは、存じません」


王子の眉が、寄った。


「知らぬ、で済むと思っているのか」


「済ませるつもりは、ございません。ただ、知らないことを知っているとは、申し上げられません」


広間のどこかで、短い笑いが起きた。

侯爵令嬢が、こんな弱い否定をするのがおかしかったのだろう。悪役は、もっと上手に怒るものだ。


父の席を、見なかった。

見れば、父は義母のほうを向いている。分かっているから、見なかった。


アルベール王子は、私の答えを、皆の前で一度噛んでから、捨てた。


「僕には、十分だ」


そして、手を上げた。


端の柱のほうへ。


「新しい婚約者を、紹介する。フォルジュ伯爵家の、リネット嬢だ」


◇


リネット嬢は、連れてこられるように歩いた。


礼服の大きい肩が、歩くたびに少し遅れる。

足は、この床の歩き方を知っているのに、心が足を許していない。それが、私には見えた。同じ箱に入れられそうな人の歩き方を、私は知っている。


中央で、彼女は止まった。

私の半歩横。香水ではなく、石鹸の匂いがした。


「リネット嬢は、清らかで、家格も足りる。誰の阴谋にも染まっていない。僕は、そのような方を妻にしたい」


清らか。

家格も足りる。

誰の陰謀にも染まっていない。


愛している、とは言わなかった。

エステル嬢のほうを、また一度見た。見てから、リネット嬢の手を取るようなことはしなかった。紹介は、言葉だけだった。


リネット嬢の唇が、動いた。


「……私」


小さい。

王子の声に負けて、広間の床に落ちた。


「私、こんな……」


首が、横に動いた。

一度。もう一度。礼服の襟が、その動きについてこない。


誰も、その首を見ていなかった。

見ていたのは、私だけだった。王子は皆の拍手を受け、義母は義妹の手を握り、父は床の一点を見ている。


拍手が来た。


乾いている。

私の破滅と、誰かの婚約を、同じ手で祝う音。


リネット嬢は、まだ首を横に振っていた。

私は、扇を開いた。


投げない。

顔を隠すためでもない。ただ、礼をするための手が、何かにつかまっていないと、床につきそうだった。


スカートを摘んで、私は礼をした。


「謹んで、お受けいたします」


婚約の破棄を。

悪い令嬢であることを。

この子の首が、誰にも届かなかったことを。


全部、一度に。


立ち上がったとき、リネット嬢と目が合った。

目が、濡れていた。私に謝る目だった。


(あなたが、謝ることではないのに)


言えなかった。

拍手の中で、そんなことを言えば、二人で筋書きを狂わせた女たちになる。義母が、それを待っている。


私は、空いた床を歩いて戻った。


背中に、熱が張りついていた。


◇


柱の陰で、コリーヌが待っていた。


桃のドレスが、蝋燭の下で子供の頬のように見える。

笑って、私の袖を指で摘んだ。摘むのは、義母と同じ場所だった。


「姉様、よく我慢なさいましたわ。わたくしなら、泣いてしまいましたもの」


「泣きたいときに、泣きなさい」


「あら。まだ、そんな口が利けるのね」


コリーヌは、周囲を一度見てから、声を落とした。

落としても、優しさにはならない。秘密を渡すときの、猫の喉のような声だった。


「手袋のこと、姉様は本当に知らなかったの。少し、可愛いわ」


「……あなたが」


「わたくし、何も言っていませんことよ。姉様が、今、自分でそう思っただけ」


指が、袖から離れた。

残ったのは、布の小さい皺だけだった。


父が、人の肩越しにこちらを見た。

目が合った、と思った次の瞬間、父は義母の耳へ口を寄せていた。娘の袖の皺は、父の用事ではなかった。


私は、もう一度だけ広間を見た。


アルベール王子は、エステル嬢の前で杯を受けていた。

ルイ王子の隣で、エステル嬢が困った顔をする。王子は、その困り方を、自分への褒美のように見ている。新しい婚約者のリネット嬢は、端へ戻されて、大きい肩のまま柱を掴んでいた。


誰も、あの子の指を見ていない。

柱を掴む指が、白い。


私は、庭のほうへ歩いた。

コリーヌの笑いが、背中についてきた。三歩で、楽隊に消えた。


◇


夜会は、私がいなくても続く。


それが、少し救いになった。

曲が戻り、杯が戻り、悪い令嬢はもう中央にいない。人は、すぐに次の話をする。手袋のインク。清らかな新しい令嬢。第二王子の決断は、兄上の妃への礼にかなっている、という褒め方。


広間を出た。


廊下は、一つ寒かった。

蝋燭が、壁に三つ。三つでは、天井まで光が届かない。届かない暗がりで、香水が遅れて、石の匂いが袖の内側へ入ってくる。絨毯が途切れた。途切れた先の石に、かかとが当たる。当たった音が、うしろの楽隊より大きく聞こえた。


誰も、名を呼ばなかった。


呼ばれないことは、今夜に限って救いだった。救いのまま歩く。歩くあいだ、左手の壁が近くなる。指を触れそうになって、やめた。触れた跡まで、読まれる夜だった。


途中に、窓があった。


硝子の向こうは、庭の暗がりが一枚になっている。風が、枠を細く鳴らした。鳴らした音のほうが、うしろの楽隊より正直だった。正直な音を聞きながら、私は歩幅を一つだけ狭めた。狭い歩幅は、急がないためのものだった。急げば、逃げた令嬢に見える。見えない廊下でも、見え方だけは広間のルールのままだった。


椅子が、端に一つ置いてあった。

誰も座っていない。座れば、背中を預けられる。預けた背中は、もう広間の背中ではなくなる。ならなくていいと知りながら、私は座らなかった。座る場所は、扉の向こうでよかった。


細い鏡があった。


上げた髪が、少しだけ崩れている。

直さない。

耳の下のほくろは、鏡のなかでも同じ場所にあった。唇だけが、礼のあとの形で固い。


背筋は、七つの年から覚えている形のまま、私を運んだ。


扉の隙間から、夜の湿りが細く漏れている。

漏れた湿りが、頬に先に触れた。触れたぶんだけ、息が深くなった。深くなった息を、私は扉の前で一度だけ止めた。


私は、庭への扉を押した。


空気が、入れ替わった。

蝋燭の熱が背中から剥がれて、噴水の水音が、代わりに耳へ入ってくる。


石の縁は、冷えていた。

座ると、礼服の背中が余って、肩のラインが崩れた。もう、直さなくてよかった。


扇を、膝に置いた。


指が、やっと震えた。

広間では我慢できたものが、水の音の前だと、隠す理由を失う。


(七つから、十八まで)


十一年。

箱の中にいて、蓋が開いたら、中身は悪役だった。インクのことは知らない。それでも、襟の一言は本当だ。本当が一つあるだけで、人は残りの嘘を信じられる。


水面が、揺れていた。

底のほうに、古い紋がある。学院が建つより前の、何かの印。授業で習ったが、名前は覚えていない。丸と、その中の細い十字。水の向こうで、ずっと揺れている。


「……カトリーヌさん」


振り返らなくても、分かった。

石鹸の匂い。大きい礼服の、遅れてくる肩。


リネット嬢が、噴水の反対側に立っていた。

来てはいけない場所に来た人の顔をしていた。


「ここは、冷えますわ」


「うん。でも、中にいられなかった」


言葉が、令嬢の言葉ではなかった。

うん、と先に来る。私は、そのことに驚いて、それから少しだけ肩の力を抜いた。


「広間では、首を振っていらっしゃいましたわね」


「見えてたんだ」


「わたくしだけが、見ていたと思います」


リネット嬢は、石の縁に手をついて、私の斜め前に座った。

距離は、他人の距離だった。それでも、広間より近い。


「私のせいだ、って思ってほしくて来たんじゃない。思われるのは、当たり前なんだけど」


「思っておりません」


「本当に?」


「あなたが望んだのですか」


水面の紋が、揺れを大きくした。

夜風だった。


リネット嬢は、膝の上で手を握った。

爪が短い。広間の令嬢の爪ではなかった。


「望んでない。朝、伯爵様に言われたの。今夜、名前が呼ばれるかもしれない、拒むな、って。拒んだら、村に母を返せなくなるかもしれない、とも」


村。

母。


知らない言葉が、この子の口から普通に出てきた。

伯爵令嬢が、村の母の話を、夜の噴水でする。箱の中の私は、そんな人を見たことがなかった。


「……母上は、村にいらっしゃるの」


「うん。パンを焼いてる。私がいなくても、焼いてると思う。でも、私の席は、まだ残してある」


言いかけて、リネット嬢は口を結んだ。


「ごめん。こんな話、今のカトリーヌさんに聞かせることじゃない」


「聞かせてくださいませ」


自分でも、意外な言葉だった。

広間で失った夜に、私は他人の母の話を聞いていた。それが、蝋燭の下にいるより、ましだった。


リネット嬢は、困ったように笑った。

エステル嬢の笑いとは違う。謝る笑いではなく、一緒にこの石にいるための笑いだった。


「私、この国の人じゃない、って言ったら、信じる?」


「信じませんわ。あなたは、そこにいらっしゃる」


「そうだよね。体は、ここのもの。前の私は、高校生だった。日本の。電車に乗って、制服を着て、母の弁当を食べてた」


高校生。

日本。

電車。


単語が、水に石を落としたように、意味より先に音で来た。

私は分からなかった。ただ、この子が嘘をつくためにそんな言葉を選ぶ理由も、分からなかった。嘘なら、もっと広間に似た嘘をつく。清らかです、家格が足ります、というような。


「それで、村にいらしたの」


「小さく生まれて、モレールで育った。母はマルグリット。爵位なんて、最初からなかった。本家の息子さんが二人、続けて亡くなって、私だけが残って、王都に連れてこられた」


風が、もう一度来た。


「だから私、王子の妻になる人じゃない。村の、パンの家の子だよ。それを今夜、清らかだなんて言われて、あなたの隣に立たされた」


リネット嬢の声が、少し割れた。


「私のせいだ、って、やっぱり思ってる。あなたが立たされた床を、私がもらったみたいで」


「もらっていないでしょう」


私は、扇を膝から石の上に置いた。


「王子は、あなたを見ていない。わたくしを見なかったのと同じように。視線の先は、エステル嬢です。あなたは、清らかで、家格が足りて、誰の味方でもないから、選ばれた」


「ひどい言い方」


「本当のことですもの」


リネット嬢は、水面を見た。

古い紋が、まだ揺れている。


「カトリーヌさんは、インクのこと、本当に知らなかったんだね」


「存じません。襟のことは、存じております。義母様に、三度言わされて、四度目に、自分の言葉になりました」


「それ、あなたの言葉じゃない」


「口から出たのです。広間では、それで十分でしたわ」


リネット嬢は、膝の上の短い爪を見た。


「十一年間、何が欲しかったんですか。王子のことが、好きだったの?」


「好きであったためしが、ありません」


自分の答えの速さに、私は少し遅れて驚いた。

驚いても、訂正はできなかった。訂正するほどの好意が、十一年のどこにも残っていない。


「では、何を守っていたの」


「箱を。蓋が開かないことを。開けば、中身が悪役だと、皆が決めてしまうことを、どこかで知っていたのだと思います」


「知ってて、入ってたの」


「出る扉が、父の机の上にしかなかった。机は、私を見ません」


水面が、私たちの沈黙を代わりに揺らした。

古い紋が、月に負けて細くなる。


「モレールでは、朝、何をしていますの」


話を逸らしたつもりは、なかった。

この子の朝を、広間の熱の代わりに置きたかった。


「母が炉を起こして、子どもに自分の名を板へ書かせて、書けた子から瓶の蓋を閉めます。閉め方を間違えると、冬にカビが来る。それだけ」


「それだけ、ですの」


「カトリーヌさんから見たら、小さいでしょう」


「小さくは、ありません。わたくしの十一年で、自分の名を自分で書いた紙は、婚約の署名の一度だけです。あれは、怖がっている字でした」


リネット嬢が、こちらを見た。

謝る目では、もうなかった。同じ石にいる人の目だった。


「戻れたら、その字の続きを、別の紙に書けばいい。婚約じゃない紙に」


「戻れたら、ですわ」


「うん。まだ、戻ってない」


沈黙が、水音で埋まった。


リネット嬢が、杯を持っていたことに、私はそこで気づいた。

広間から、そのまま持ち出したのだろう。中身はもうない。縁だけが、蝋燭の借り物の光で細い線になっている。


「これ、置いていこうと思って。手に残ってると、まだ夜会の中にいるみたいで」


立ち上がりかけて、リネット嬢の靴が、濡れた石で滑った。


杯が、落ちた。


割れる音はしなかった。

縁が石に当たって、鋭い欠片になって、二人のあいだに転がった。


「大丈夫」


リネット嬢が、先に手を伸ばした。

私も、同じ瞬間に伸ばしていた。令嬢は、割れた杯を自分で拾わない。今夜の私は、もうその令嬢ではなかった。


指が、同じ欠片に触れた。


痛かった。

リネット嬢も、息を呑んだ。


血が、二本の指から、ほとんど同時に落ちた。

石の縁を伝って、水面ではなく、水面の下の、あの古い紋の上に落ちた。丸と、十字。


音が、消えた。


水音が。

遠くの楽隊が。

自分の呼吸さえ。


熱が、指からではなく、石のほうから上がってきた。

冷たいはずの縁が、掌と同じ温度になって、それから掌より熱くなって、目の前の夜が白くなった。


(あ)


名前を、呼ぼうとした。

カトリーヌ、でも、リネット、でもなかった。ただ、返して、というような意味のない音だった。


白が、閉じた。


◇


最初に戻ったのは、匂いだった。


石鹸ではなく、自分の香水。

首のうしろに、今夜の初めに自分で置いた匂い。それが、目の前にある。


次に、息。

自分の息ではない。少し荒い。泣いたあとの息。


私は、目を開けた。


自分の顔が、あった。


切れ長の目。夜会のために上げた髪。左の耳の下の、小さなほくろ。唇が、知らない形に開いている。


「……私、カトリーヌさん?」


声は、私の声だった。

言い方だけが、私ではなかった。


目の前の私が、私を見ていた。

怖がって、確かめるように。


私は、自分の手を見た。


知らない手だった。


爪が短い。石鹸の匂いがする。礼服の袖が、腕より大きい。


噴水の水音が、遅れて戻ってきた。

楽隊も、遠くで戻った。


石の上の、古い紋は、もう見えなかった。

水が、普通に揺れている。


目の前の私の顔が、もう一度、私の声で言った。


「戻して。ね。今すぐには、無理かもしれないけど」


私は、知らない手で、石の縁を掴んだ。


冷たい。

自分の熱が、この手にはまだなかった。

お読みいただきまして、ありがとうございました。

続きが気になった方は、評価やブックマークをしていただけると励みになります。

次回は「第2話 伯爵家の朝」です。

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