第九話 最初で最後の願い
「最初で最後の願い」
——それが、私の願いだから。
※ ※ ※
「駄目ですっっ!!」
結は、階を駆け上がった。 千段の階を、転びながら、裾を破りながら——宝玉へ伸ばされた世一の腕に、縋りついた。
「駄目、駄目です、駄目ですっ……!! 聞いたでしょう!? それを壊せば、世界が消える!! 神が消える!! ——世一様も、消えてしまうんですよ!!」
「……おう。聞いてたぜ」
「『おう』じゃ、ありませんっ!!」
結は、叫んだ。千年の作法も、姫の体裁も、何もかも捨てて。
「私はっ……私は、世界なんてどうでもいい!! 神なんてどうでもいい!! 私が消えるのも、どうでもいい!! でも、貴方はっ……貴方だけは、駄目ですっ……!!」
白い指が、世一の袖に食い込む。
「私の、私なんかの願いのために、貴方が消えるなんて……そんなの、そんなのって……!! お願いします、やめてください、何でもしますから、私の命でも力でも全部あげますから、だからぁ……!!」
「——ばーか」
ぽん、と。 大きな掌が、結の頭に、乗った。
「……ふえ……?」
「お前の願いのため? ——勘違いすんな」
世一は、嗤っていた。 いつもの、あの、心底楽しそうな顔で。
「俺はな、結。この世界を見て、心底むかついてんだよ。祈りゃ飯が降ってくる。媚びりゃ何でも手に入る。てめえの足で立ったことのねえ連中と、それを玉座から眺めてるクソジジイ。——気に入らねえ」
「…………あ」
「だから、壊す。俺が、壊したいから、壊すんだ。——お前のせいなわけ、ねーだろ」
——俺は、俺が助けたいから助けた。
あの夜と、同じ言葉だった。 寸分違わず、同じ構文だった。
ああ——と、結は思った。 この人は、ずっと、そうなのだ。盗むのも、斬るのも、助けるのも、壊すのも。全部、自分で選んで、自分の足で。 そして、その「俺がやりたいからやった」の中に、いつも——誰かが、入っている。あの夜の蜘蛛が。白い花が。子供が。 今は、私が。
「……っ、ふ……あは……」
結は、泣きながら、笑った。
「ずるい、です……それを言われたら、私……止められなく、なるじゃないですか……」
「おう。だから言った」
「——小癪なああああぁぁ!!」
神殿が、震えた。
大神が、玉座の前で両腕を掲げていた。皺だらけの総身から、白い神威が、嵐となって噴き上がる。
「塵芥どもの願いに護られておるだけの蛆虫がぁぁ!! ならば外界ごと、貴様に願う愚物どもごと、薙ぎ払ってくれるわぁぁ!!」
膨れ上がる神威が、咆哮となって放たれ——
——黒い影が、割り込んだ。
ギイイィィンッ!!
「ぬ、ぐ、おおおおお……!!」
大太刀が、神威の奔流を、正面から受け止めていた。
「わ……和勇牛、様……!?」
「——遅参、いたした!!」
満身創痍の鬼が、そこにいた。鎧は砕け、角は片方折れ、全身は返り血と己の血で赤黒い。それでも——その背中は、山のように、揺るがなかった。
「門前の千人、漏れなく寝かせて参りましたぞ!! 千年の倦怠、おかげさまで、綺麗さっぱり吹き飛び申した!!」
「で、デカブツ……てめえ、ボロボロじゃねえか」
「ぬはは!! 武人の正装にございます!! ——主よ!!」
神威に押されながら、鬼は吼えた。
「ここは、我が!! 我が受け持つ!! 主は主の為すべきことを!! ——それが、我が最初で最後の、主への忠義にござるッッ!!」
「……おう。——任せた」
「ハ、ハハァァッッ!! 生涯一番の誉れェェ!!」
世一は、宝玉へ向き直った。
脈打つ珠。世界の心臓。 その表面に、手が、かかる。
「お、おのれ、おのれおのれ……!!」
大神の神威が、和勇牛に堰き止められ、届かない。 老神は、歯を剥き、髪を振り乱し——そして。
誰も、見たことのないものを、見た。
大神が——玉座から、転げ落ちたのだ。
自ら。無様に。階を半ば滑り落ち、白髭を床に擦りつけ、皺だらけの手で、縋るものを探して。
「て、天照……天照よ!!」
その手が、向いた先は——結だった。
「我を……我を助けぬか!! 貴様は願いを叶える神であろう!! 我が願いじゃ!! あの男を止めよ!! 宝玉を守れ!! それが貴様の務め、貴様の存在意義であろうが!!」
額に、玉の汗が浮いていた。 天地開闢より座すもの。願いの仕組みを統べる世界の主が——汗を、だらだらと流しながら、自分が「人形」と呼んだ娘に、命乞いをしていた。
「た、頼む……このとおりじゃ……我が消えれば誰が世界を……の、望みは何だ!? 神の座か!? 我が隣に座らせてやる!! だから、だからぁ……!!」
結は。
その姿を、静かに、見下ろした。 千年、見上げ続けた相手を、生まれて初めて——見下ろした。
「…………大神」
「お、おお!! 聞き届けてくれるか、天照……!!」
「——私の名前は、結です」
ぴしり、と。 神殿の空気に、罅が入った気がした。
「貴方は千年、一度も、私の顔を見なかった。私の名を呼ばなかった。泣いていることにすら、気づかなかった。——気づく必要が、なかったんですものね。私は『仕組み』だから」
「な、なにを、今さら、そのようなこと……」
「私は、願いを叶える神です。それは、辞めません。これからも、ずっと、そうです。——でも」
結は、すう、と息を吸った。 千年ぶんの息を、吸った。
「私はもう、私を見てくれる人の願いだけを、叶えます!!」
「——な」
「貴方の願いは——お断りします!!」
大神の伸ばした手が、宙で、凍りついた。
願いを叶える神に、願いを、断られた。 完璧な円環。誰一人零れぬ仕組み。開闢より一度も止まったことのない世界の歯車が——たった一人の「お断りします」で、止まった。
「あ……あ、あ……」
老神は、床に、崩れ落ちた。
結は、もう見ていなかった。 身を翻す。白い裾が舞う。階の上の、たった一人へ向かって——千年の想いの、すべてを乗せて。
「世一様っっ!!」
世一が、振り向いた。
「私、決めましたっ!! 私の最後のお勤め!! 願いを叶える神の、最後の仕事はっ——私自身の願いを、叶えることです!!」
宝玉の光が、烈しさを増す。世界の終わりを察したように、明滅する。
「私、必ず、貴方に会いに行きますっ!! 世界が消えても!! 何に生まれ変わっても!! 花でも、雀でも、蜘蛛でもっ!! 何百年かかっても、何千年かかってもっ!! 何千回、何万回生まれ変わっても——必ず、必ず世一様を見つけますっっ!!」
涙が、零れて、光になって散った。
「それが私の願い!! 誰の命令でもない、誰の祈りでもない——私が、私のために叶える、最初で最後の願いだからっっ!!」
「……ふ」
極悪人は、嗤った。 最後まで、極悪人の顔で。
「——ヤニ、美味かったぜ」
それから、世界で一番ぶっきらぼうな声で、こう言った。
「——またな」
——またな。
また、な。 また会う。この男は、そう言ったのだ。 世界が消えるという、その瀬戸際で。輪廻の外へ消えるはずだった男が——会える、と。待ってる、と。 それが、この人の精一杯の——……ああ、もう。最後まで、本当に。
「……っ、はいっ!! はいっ……!!」
世一の腕に、力が籠った。
「やめろ……やめろ、やめろぉぉぉ——!!」
大神の絶叫。 和勇牛の哄笑。 結の、泣き笑い。
宝玉が——砕けた。
白。 音もなく、光が、すべてを呑んだ。神殿を。天界を。地獄を。外界を。星々を。
——世界は、消えた。
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