第八話 神は死なない
「神は死なない」
黄金の扉が、開いた。
最奥の間は、静かだった。 戦の喧騒も、鐘の音も、ここには届かない。白亜の柱が立ち並び、床は鏡のように磨かれ、天井には——天井はなく、満天の星が渦を巻いていた。
その中央。 千段はあろうかという階の上に、玉座があった。
「——よくぞ参った、人間」
老神が、座っていた。
白髪、白髭。深い皺に埋もれた双眸は、しかし淀んでいない。底の見えない井戸のような目が、階の下の二人を、静かに見下ろしている。
「大神……」
結の声が、固くなった。
「天照よ。……いや、今は『結』と名乗っておるのだったか」
「!?」
「我が天で起きることに、我の知らぬことなど無い。——して、罪人・世一とやら」
大神は、肘掛けに頬杖をついた。 慌てる様子も、怒る様子もない。庭に迷い込んだ野良犬でも見るような、退屈な目だった。
「和勇牛を従え、阿吽を破り、ここまで来た。見事である。人間にしておくには、惜しい」
しわがれた声が、朗々と響く。
「褒美を取らせよう。——望みを申せ。財宝か? 力か? 女か? 永遠の命か? 神の座でもよいぞ。貴様の罪も裁きも、我の一存で帳消しにしてやろう。……我は、願いを叶える神。望むものは、すべてやろう」
「——だまれ」
世一は、煙管に葉を詰めながら、言った。
「……ほう?」
「結。火」
「は、はいっ!」
結の指先に灯った小さな神火が、煙管の先に移る。 ふーっ、と。世界の主の御前で、極悪人は紫煙を吐いた。
「てめえに用は一つだけだ、ジジイ。——その玉座の横の、珠。あれを壊しに来た」
大神の頬杖が、ぴくりと止まった。
玉座の傍らの台座で、珠が脈打っている。 淡い光が、満ちては引く。潮のように。鼓動のように。
「……宝玉を、壊す? くく、くははは。面白いことを言う」
「何がおかしい」
「貴様、あれが何か、分かって言うておるのか」
大神は、立ち上がった。 階の上から、声が、神殿全体を震わせる。
「あれは『理の宝玉』——この世のすべての『願い』が流れ込む、世界の心臓よ。人が祈る。獣が望む。草木が雨を乞う。そのすべてが、あの珠に集まり、我ら神の力となる。そして我らはその力で、願いを、叶える」
「…………」
「分かるか、人間。世界は、回っておるのだ。願う者と、叶える者。祈る者と、応える者。完璧な仕組み。完璧な円環。開闢より一度も止まらず、誰一人として零れぬ、慈悲の仕組みよ」
大神は、両腕を広げた。
「飢えれば食を与えた。争えば敵を挫いてやった。怯えれば守ってやった。——外界に、不満なき世界を作ってやったのは、我らぞ。神に祈れば、すべて叶う。これほど幸福な世界が、どこにある?」
「…………ふーっ」
世一は、煙を吐き切ってから、口を開いた。
「——ばーか」
「……なんと?」
「そんなもんは、生きてるとは言わねえんだよ」
星の渦の下で、極悪人と大神の目が、合った。
「祈れば飯が降ってくる? 上等じゃねえか。——で、その飯は、旨いのか?」
「……何が言いたい」
「俺はな、ジジイ。ガキの頃から、誰にも何も貰えなかった。飯は盗んだ。寝床は奪った。生きるのに要るもんは、全部、この手で取ってきた」
煙管の先が、大神に向く。
「だから知ってる。——飯ってのはな、自分で探して食う方が、旨いんだよ」
「………………理解、できぬな」
大神は、本当に分からない、という顔をした。
「苦労なく与えられる方が、よいに決まっておろう。願いが叶う方が、幸福に決まっておろう。なぜ人間とは、こうも——」
「決まってる、ねえ」
世一は、嗤った。
「じゃあ聞くがよ。——お前の作った『完璧な仕組み』とやらの中で」
煙管の先が、すい、と動いた。 玉座から——その下に立つ、白い着物の娘へ。
「こいつが千年泣いてたのは、どういうわけだ」
「——っ」
結の肩が、震えた。
「…………天照が?」
大神は、結を見た。 本当に、初めて気づいた、という目だった。
「……願いを叶える側の話など、しておらぬ。あれは仕組みの一部。願いの『口』よ。人形が泣こうが笑おうが、仕組みは——」
「——それだよ」
世一の声が、一段、低くなった。
「願う側は幸せ、叶える側は人形。完璧な円環? ——笑わせんな。てめえの仕組みは、最初っから、こいつ一人を磨り潰して回ってんだよ」
「…………」
「誰も零れねえ慈悲の仕組み、だったか? ——一人、零れてるぜ。千年もな」
大神は、沈黙した。 長い、長い沈黙だった。やがて——心底、不思議そうに、老神は言った。
「……それが、どうした?」
「……っ!?」
結が、息を呑んだ。
「神とは、そういうものだ。仕組みとは、そういうものだ。一人の人形の涙と、外界億万の幸福。秤にかけるまでもない。——天照もそれを分かって、千年、務めてきた。なあ、天照よ」
大神の目が、結を射た。
「戻って参れ。此度の謀反、貴様だけは赦してやろう。元の務めに戻り、永遠に願いを叶え続けよ。それが貴様の生まれた意味、貴様の存在のすべて——」
「——私の名前は」
結は、顔を上げた。 涙はなかった。千年分、もう泣き終えていた。
「私の名前は、結です。世一様が、くださった名前です」
白い指が、隣に立つ男の袖を、きゅ、と掴む。
「私の意味は、私が決めます。——人形は、もう、やめました」
「…………愚かな」
大神が、嘆息した、その時。
世一が、歩き出した。
階を、一段、また一段。玉座へ——否、その傍らの、宝玉へ向かって。
「……止まれ、人間」
世一は、止まらない。
「止まれと言うておる。……よかろう、ならば力ずくで——む、ぬ……!?」
大神が翳した腕が、震えた。 神力が、出ない。否——出てはいる。だが、目の前の男に向けた瞬間、霧のように、形にならない。
(な、何だ……この男、何故、神威が効かぬ……!? まさか——願いか? 外界から届く、億千の「声」が、この男を……!?)
宝玉の脈動が、速くなっていた。 珠の中に、無数の光が流れ込んでくる。花の声。雀の声。草の、虫の、子供の——あの夜から途切れぬ、小さきものたちの願いが。
『——あのひとを、たすけて』
「ば、馬鹿な……塵芥どもの願いごときが、我が神威を上回るなど……!!」
世一は、最後の一段を上がった。 脈打つ宝玉が、目の前にあった。
「よ、よせ……! それを壊せば、どうなるか分かっておるのか!! 理が消える!! 神が消える!! 我も、貴様も——天照も!! 世界そのものが、消え失せるのだぞ!!」
「——!?」
階の下で、結が、凍りついた。
世界が、消える。 神が消える。それは、いい。私も消える。それも、いい。けれど——
(世一様、も……?)
「世一様っ……!!」
世一は、振り返らなかった。 ただ、宝玉を見据えたまま、静かに言った。
「……なるほどな。やっと分かったぜ、ジジイ」
「な、何……?」
「神は、死なねえ。斬っても、焼いても、死にゃしねえ。——願いが集まる限り、何度でも湧いてくる。そういう『仕組み』だ」
煙管を、懐に仕舞う。
「なら——壊すしかねえだろ」
世一の手が、宝玉へと、伸びた。
「仕組みごと。世界ごと。——全部、な」
「や、やめろ……やめろぉぉ!!」
「駄目ですっっ!!」
結の悲鳴が、星の渦に、谺した。
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