第七話 阿吽
「阿吽」
「「——我等が、成敗いたす」」
二つの声が、重なった。 否——重なった、のではない。
(……今の、声)
世一の首筋が、ちり、と粟立った。 二体の口から出た言葉は、寸分の狂いなく同じ拍、同じ息継ぎ、同じ温度。二人の声ではなかった。一つの声を、二つの喉が分けて出していた。
来る。
大階段の上から、阿吽が、消えた。
「——っ!!」
世一は真横へ跳んだ。 一拍前まで立っていた石畳が、金剛杵の一撃で爆ぜ、礫が頬を裂く。
着地——する前に、影。 頭上。いつの間に回り込んだのか、負吽の金剛杵が、天から落ちてくる。
「ちぃ……っ!」
空中で身を捻る。かわし切れない。左肩を、衝撃が掠めた。 掠めただけで、体が独楽のように吹き飛び、神殿の柱に叩きつけられる。
「世一様っ!!」
結の悲鳴。
「が……っ、は……」
世一は膝をつき——口の中の血を、ペッと吐いた。
(……重い。速い。それに——)
目を上げる。 二体は、もう次の構えに入っていた。阿吽が前、負吽が後ろ。寸分の隙なく。
(——「継ぎ目」が、ねえ)
化け物どもなら、斬ってきた。鬼の和勇牛とも、やった。 だが、こいつらは違う。質が違う。
一体が攻めれば、一体が守る。一体が右なら、一体は左。打ち合わせも、目配せもない。考えるまでもなく、二体は最初から「そう」なのだ。
攻めの呼吸が終わる前に、守りの呼吸が始まっている。 人で言えば——息を吐きながら、同時に吸っている、ようなもの。
(隙ってのは、呼吸と呼吸の間に生まれる。……その「間」を、二体で埋めてやがるのか)
「——阿」
「——吽」
再び、二体が消えた。
そこからは、嵐だった。
右から阿吽、躱せば左に負吽。打ち下ろしを潜れば、足元を薙ぎ払いが来る。世一は躱し、いなし、柱を盾にし、礫を蹴り返し——それでも、一方的に、削られていった。
額が割れた。脇腹が軋んだ。左腕が、上がらなくなってきた。
「あ、ああ……」
結は、柱の陰で、両手を握りしめて見ていた。
血だ。世一様が、血を流している。 あの夜、池の下で何十人を薙ぎ倒した男が。地獄で鬼を投げ飛ばした男が——押されている。
(私の、せいで。私が、壊してほしいなんて、願ったから——)
気づけば、結の指先に、白い光が灯っていた。 神力。千年、人の願いを叶え続けた力。これを束ねて世一様に注げば。あの二体ごと、神殿を消し飛ばすことも——
「——結」
声が、飛んできた。
戦いの嵐の真ん中から。金剛杵を搔い潜り、血を散らしながら——世一は、こちらを見もせずに、言った。
「手ェ出すなよ」
「で、でもっ!! 血が、こんなっ……わ、私の力なら、私の力さえ使えばっ……!!」
「だまれ」
金剛杵が空を裂く。世一は仰け反ってかわし、返す踏み込みで距離を取った。
「俺を信じろ」
「……っ」
「いいか、結。逸らすんじゃねえぞ。——俺だけを、見てろ」
「——っっ」
結の指先で、白い光が、ほどけて消えた。
見てろ。 力を貸せ、でも、祈れ、でもなく。 ——見てろ、と。この男は言った。千年、誰にも言われなかったことを。
「……っ、はい!! 見ています!! 結は、世一様だけを、見ていますっ!!」
「おう」
世一は、嗤った。血まみれの顔で、心底楽しそうに。
「なら——ここからが見せ場ってやつだ」
二体が、嵐になる。 世一は今度は、躱さなかった。最小限だけ捌きながら、半眼で、ただ「視た」。
(——焦るな。視ろ。三百の修羅場で、てめえは何を視てきた)
剣の速さじゃねえ。腕の太さでもねえ。 殺し合いってのは、最後は——呼吸だ。
(阿吽が「吐く」。負吽が「吸う」。攻めの呼気、守りの吸気。二体で一つの肺、二体で一つの呼吸……完璧だ。完璧、だが——)
金剛杵が右肩を掠め、血が散る。構わず、視る。
(——一つの呼吸ってことは、だ)
吐き終わる、その刹那。 吸い始める、その刹那。
(——「切り返し」も、一つしかねえんだよ)
別々の生き物なら、呼吸はずれる。隙もずれる。だから埋め合える。 だが、こいつらは一つだ。完璧に、一つだ。 ならば——二体の呼吸が同時に切り返る瞬間が、ある。攻めから守りへ、吐くから吸うへ。世界で最も短い、たった一拍の——全き、静止が。
「——阿」
阿吽が踏み込む。金剛杵が唸る。世一はかわさず、半歩、懐へ。
「——吽」
負吽が割り込む。守りの構え。阿吽は引き、息を吸う——
——今。
吐き終わりと、吸い始め。 二体の巨躯が、同時に、止まった。 神々の時間にして、瞬きの千分の一。
その静止の中を——三百の修羅場が、駆け抜けた。
「——遅えんだよ」
拾い上げた礫が、阿吽の開いた口へ、銃弾の速さで撃ち込まれた。
「ガ——!?」
開闢以来、開きっぱなしだった口が、初めて、噎せた。 呼吸が——一つしかない呼吸が、乱れた。
吐けない阿吽。釣られて、吸えない負吽。 二体で一つの完璧な神が、二体まとめて、溺れた。
「終いだ」
世一の右拳が負吽の顎を撃ち抜き、返す肘が阿吽の鳩尾に沈んだ。 二つの巨躯が、糸の切れた人形のように——同時に、崩れ落ちた。
ズウン……と、神殿に二つの音が重なる。
「…………」
静寂。
世一は、肩で息をしながら、転がる二体を見下ろした。
「……ペッ。強えよ、お前ら。正直、地獄で一番ヒヤッとしたぜ」
血の混じった唾を吐き、煙管を拾い上げる。
「——だが、惜しいな。二人で一つ、完璧な連携。……ってこたぁ、よ」
咥えて、火のないまま、噛む。
「てめえらは生まれてこの方——自分一人の判断で動いたことが、一度もねえんだろ」
倒れた二体は、答えない。
「完璧な仕組みは、仕組みの外から崩される。……覚えとけ」
「世一様っ!!」
結が駆け寄ってきた。泣きながら、しかし、笑っていた。
「見て、見ていました!! 全部、全部見ていましたっ!! 世一様、世一様ぁ……!!」
「おう。……いてて、おい、抱きつくな、響く」
「は、はいっ!! ……あの、で、では、お手当てを!! 私の神力で傷を塞ぐくらいなら、その、力を貸すのとは違いますよね……!? ね!?」
「……ちっ。……それくらいなら、まあ」
「~~~っ、はいっ!!」
白い光が、世一の傷をなぞっていく。 結は、生まれて初めて、自分の力を「好きだ」と思った。
——手当てを終え、二人は神殿の奥へと歩く。
最奥。 黄金の扉が、静かに、待っていた。
扉の隙間から、淡い光が脈打っている。鼓動のように。世界の、心臓のように。
「……この先に」
結の声が、震えた。
「——大神が、います」
世一は、煙管を懐に仕舞い、扉に手をかけた。
「よし。——壊しに行くか」
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