第六話 地獄門
「地獄門」
地獄と天界の境には、門がある。
高さは雲を突き、扉の厚みだけで小山ほど。亡者は誰もが下から潜り、神々だけが上を渡る——開闢以来、ただの一度も破られたことのない、世界の関所。
その名を、地獄門という。
「……ん? あれは……姫様? それに、和勇牛殿……?」
門の前に立つ衛兵たちが、ざわめいた。 星明かりの道を、三つの影が歩いてくる。白い着物の姫。大太刀を担いだ巨躯の鬼。そして——煙管を咥えた、見たこともない男。
「と……人間……?」
衛兵の長が、槍を手に進み出た。
「和勇牛殿、いかがなされた。罪人の刻限は明朝のはず。それに、ここから先は大神様の神域。人間風情が、足を踏み入れてよい場所では——」
「——黙れい」
地の底が、唸った。
和勇牛が、一歩、前へ出る。 千年、この門を守ってきた鬼。衛兵たちにとっては上役であり、師であり、地獄門そのものだった男が——今、門を背にせず、門へ向かって立っていた。
「我が主への侮辱、二度は許さぬ」
「あ、主……? 和勇牛殿、何を仰って……まさか、その人間のことを……?」
「一言だけ言う」
大太刀が、鞘から滑り出た。星明かりを呑んで、刃が嗤う。
「——今すぐこの場を去れ。で無くば……斬る」
しん、と。 門前が、静まり返った。
衛兵の長は、和勇牛の目を見た。冗談でも、乱心でもない。千年見上げてきた鬼の目が、本気で、自分たちを獲物として見ている。
「ひ……ヒィィィッ!! わ、和勇牛殿、御乱心!! 御乱心であるぞ!!」
「鐘を!! 非常の鐘を鳴らせ!! 兵を、天界中の兵をかき集めろぉぉ!!」
ゴオオオン、ゴオオオン——
地獄門の大鐘が、開闢以来初めて、内側の敵のために打ち鳴らされた。
みるみるうちに、門前へ兵が湧く。槍の穂先が星明かりに連なり、百、二百、五百——瞬く間に、千を超えた。
「……おいおい」
世一が、煙を吐いた。
「随分な歓迎じゃねえか」
「ふ……ふふ」
隣で、和勇牛が嗤った。 肩が揺れている。堪えきれぬ、というように。
「ふふふ……これで我も、後戻りはできませぬなあ。名実ともに、我は主側。天界千年の忠義も、今宵限りで反逆者よ」
「後悔してんのか?」
「まさか」
鬼は、大太刀を肩に担ぎ直した。その横顔は——晴れ晴れと、笑っていた。
「千年、門を守って参りました。来る日も来る日も、同じ門を、同じ作法で。……正直、退屈で死ぬかと思っておりましたわ」
「はっ。いい性格してんな、お前」
「主ほどでは。——ふふ、ふふふ、ああ、胸が高鳴って参りました……!」
和勇牛は、ずん、と一歩踏み出し、千の軍勢へ向けて吼えた。
「我が旧友、我が部下たちよ!! 武人の情けだ、まとめて掛かって来るがよい!! この和勇牛——本日より、鬼神となって主の道をこじ開ける!!」
「か、かかれぇぇぇ!!」
千の槍が、雪崩を打った。
「結! 主を連れて先へ!! ここは我が舞台ぞ!!」
「は、はいっ! 世一様、こちらへ!!」
結が走り出す。世一が続く。 二人の背後で——嵐が、巻き起こった。
大太刀の一閃が、槍を十本まとめて薙ぎ、衝撃波だけで兵の壁が吹き飛ぶ。千年、地獄の門前で立ち続けた鬼は、誰よりも知っていた。この門を、どう守るかを。——つまり、どう破られたら終わりなのかを。
「ぬはははは!! どうした、我が教えた槍はその程度か!! 楽しい、楽しいぞぉ!!」
鬼神の哄笑が、地獄に轟いた。
※ ※ ※
——同刻。天界、最奥。
白亜の神殿に、鐘の音は届いていた。
「……騒がしい」
玉座の老神が、目を開けた。
大神。 天地開闢より座すもの。願いの仕組みを統べ、神々の頂に君臨する、世界の主。
その御前に、伝令の神が転がり込み、平伏した。
「も、申し上げます!! 地獄門にて謀反!! 門番・和勇牛が刃を返し、さらに、その……あ、天照様が……罪人の人間を、神域へと手引きしておられます……!!」
「…………天照が?」
大神の眉が、わずかに動いた。
「あの、願いを叶えるだけの人形が……人間と? ……くく、くははは」
玉座から、乾いた笑いが漏れた。
「面白い。千年飼った犬が、初めて吠えおったわ。——よい、捨て置け。神殿の最奥には『あれら』がおる。人間風情、骨も残らぬ」
老神は、玉座の傍らへ目をやった。 台座の上——淡く脈打つ、ひとつの珠。
世界で、ただひとつ。理を束ねる、宝玉へ。
「すべての願いは、我が掌の上。……そうであろう?」
※ ※ ※
「世一様、こちらです! この回廊を抜ければ、神殿は目の前——」
駆けながら、結がちらちらと振り返る。何か言いたげに、もじもじと。
「……なんだ」
「あ、あの、その……は、はぐれると、いけませんので……そ、その……て、手を、お繋ぎに、なられた方が、よろしいかと……!」
「いらねえよ。いいから案内しろ」
「……はい……うっ、うぅ……ぐすっ……」
「泣くな!! 歩きながら泣くな!!」
「だっで、ぜっがぐ、ぞの、でをぉ……」
「あーもう、わーったよ!! ほら!!」
世一は、舌打ちと共に、結の手首をむんずと掴んだ。
「——ふぁ」
「はぐれたら面倒だからだ。勘違いすんじゃねえぞ」
「は……はい……はいぃ……えへ、えへへ……世一様の、手ぇ……あったかい……えへへへ……」
「気持ち悪い笑い方すんな」
「で、ではでは、まずは私の寝所へご案内を——」
「どこ行く気だ」
「だ、大神の神殿はこちらです!!」
回廊を抜ける。 視界が開け——白亜の神殿が、星空を背に聳えていた。
その大階段の前。
「…………おい、結」
「……はい」
二つの影が、待っていた。
左右対称。同じ背丈、同じ構え。一体は口を開き、一体は口を結び——巨大な金剛杵を手に、微動だにしない。
「阿吽、負吽……神殿最奥の守護神。二体で、一つの神……」
結の声が、強張った。
「開闢以来——あの二体の間を抜けた者は、誰も、いません」
阿吽が、口を開いたまま、言った。
「——天界を汚す、塵芥が」
負吽が、口を結んだまま、構えた。
「「——我等が、成敗いたす」」
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