最終話 完結
「月が綺麗ですね」
世界は、消えた。
——けれど。
願いは、消えなかった。
神々の作った理は砕け、天界は崩れ、祈れば何でも叶う世界は終わった。 白い無の中に、しかし、小さな声たちが残っていた。咲きたい、と花が。飛びたい、と雀が。生きたい、と——名もなき無数の、小さきものたちが。
誰も叶えてはくれない。 だから、自分で叶えるしかない。
そうして——新しい世界が、芽を吹いた。
神のいない世界。 人々は最初、暗闇に怯えた。祈っても、もう誰も応えない。飢えても、誰も飯を降らせない。夜は暗く、明日は見えず、人々は途方に暮れて空を仰いだ。
——だが。
誰かが、火を起こした。 誰かが、種を蒔いた。 誰かが、隣の誰かに、手を貸した。
怯えながら、迷いながら、一歩ずつ。生まれて初めて、自分の足で。
大丈夫。 きっとそのうち、誰もが当たり前に飯を炊いて、笑って、夜には——のんびり月でも眺める。そういう世界が、来る。
……それを、約束した男が、いたのだから。
※ ※ ※
最初の生を、彼女は覚えている。
白い花だった。 名もない野の道端に咲いて、雨を飲んで、風に揺れて、枯れた。 探しには、行けなかった。根があったから。 ——見つからなかった。
二度目は、雀だった。 空から探せる、と思った。来る日も来る日も、町を、村を、山を、飛んだ。煙管を咥えた男を見つけるたび、胸を高鳴らせて舞い降りて——違った。何百回も、違った。 ——見つからなかった。
三度目は、蜘蛛だった。 白い、蜘蛛だった。 糸の上で、彼女は少しだけ笑った。ふふ。これでは、おあいこですね。 ——見つからなかった。
人に生まれた生もあった。 戦の世だった。煙と血の匂いの中を、彼女は探して歩いた。「ばーか」と笑う男はいないか。ぶっきらぼうで、自由で、小さきものを踏まない男は、いないか。 髪が白くなるまで、探した。 見つからないまま、縁側で月を見上げて、皺だらけの手を膝に置いて、彼女は目を閉じた。 最期に、ひとこと。
「……『またな』って、言ったくせに……」
——次の生で、また探した。
百度目を、数えるのをやめた。 千度目は、とうに過ぎた。
ある生では、街角で老人を見た。襤褸を纏い、目だけが爛々と光る老人だった。「我は神だぞ」「我を拝め」「我に祈れば何でも叶うのだ」——道ゆく人は、誰も足を止めなかった。老人の輪郭は、陽炎のように薄れかけていた。 彼女は、足を止めなかった。 憐れみも、もう、湧かなかった。
生まれて、探して、死んで。 生まれて、探して、死んで。
記憶は、生まれ変わるたびに薄れていく。男の顔も、声も、もう霞の向こうだ。 それでも、消えないものが、一つだけあった。
願い。
顔を忘れても、声を忘れても、胸の真ん中で、それだけが灯り続けた。神だった頃の力の、最後のひと欠片——自分のために叶えると決めた、最初で最後の願いが、魂の芯で燃え続けた。
——見つける。 ——必ず、見つける。
何千回でも。 何万回でも。
※ ※ ※
そして——現代。
「はー……今日もついてねえな」
終電一本前。駅前のベンチ。 月神世一は、ぬるくなった缶コーヒーを呷った。
取れなかった契約。上司の小言。財布の中の千円札一枚。 駅前交番の、やたら身体の大きい巡査に「お疲れ様です!」と威勢よく敬礼されたのが、今日いちばんの収穫という有様だ。なぜだか、あの巡査に挨拶されると、妙に懐かしい気持ちになる。
三十年そこそこ生きてきて、自分の手で掴んだものなんて、何ひとつ思い浮かばない。
それでも、夜空を見上げて、思う。
「……ま、月は綺麗だけどよ」
ひとりごとの、つもりだった。
「——月が綺麗ですね」
声は、すぐ後ろから降ってきた。
鈴を転がすような、それでいて、どこか泣き出す寸前のような声。
「は、はい……こんばんは」
振り返る。
今度は——顔が、見えた。
街灯の白い光の下に、女がひとり、立っていた。 長い黒髪。白いコート。年の頃は、二十をいくつか出たくらいか。月光を織ったような白い肌に、大きな瞳——その瞳に、いっぱいの涙を溜めて、女は、笑っていた。
泣きながら笑う、不器用で、無防備な——どこかで見たような、笑顔だった。
「やっと——」
女の声が、震えた。
「やっと、見つけました」
「……え、っと……すみません、どこかで、お会いしました……?」
世一は、記憶を浚った。取引先か。学生時代か。違う。こんな綺麗な人、会っていたら忘れるはずがない。
女は、首を横に振った。
「いいえ。——はじめまして、です」
それから、囁くように、付け足した。
「……そして、おかえりなさい」
「……?」
意味が、分からなかった。 分からなかったのに——
——目から、涙が、零れた。
「……え、あれ……? おかしいな、なんで……」
世一は、慌てて目元を拭った。拭っても、拭っても、零れた。 悲しくなんか、ない。むしろ、その逆だ。胸の奥の、ずっと昔に閉めたきりの戸が、軋んで開いたような——百年ぶりに、家に帰ってきたような。
「す、すみません、変ですよね、俺、なんで泣いて……」
「ふふ」
女は、笑った。自分も、ぼろぼろ泣きながら。
「いいえ。——ちっとも、変じゃありません」
女は、コートのポケットから、何かを取り出した。 差し出された白い掌の上——煙草が、一箱。それから、小さなマッチ。
「——ヤニ、お持ちしました」
「……や、に?」
「今度は、湿気っていません。……千年、いえ——一万年ぶんの、お礼です」
「あの、俺、煙草は吸ったことが……」
ない、はずだった。 なのに、手が、勝手に伸びた。 一本咥える。女がマッチを擦る。小さな火が、夜風に揺れて——慣れた仕草で、世一はその火を、掌で囲った。
ふーっ、と。
吐いた煙が、夜空へ、ゆるりと立ちのぼっていく。
「……うまい」
「……っ、ふふ……ふふふ……」
「あはは、なんだこれ……初めてなのに、うまいや……」
二人で、泣きながら、笑った。 駅前のベンチで、月の下で、世界でいちばん変な二人連れだった。
「……あの。お名前、聞いても、いいですか」
世一が訊くと、女は、居住まいを正した。 千年と一万年を待った人が、その一瞬だけは、初々しい娘の顔になって。
「——結、と申します」
「ゆい、さん。……いい名前ですね」
「はい」
結は、世界中の幸福を集めたような顔で、頷いた。
「——大好きな人に、いただいた名前です」
世一は、煙草を咥えたまま、空を見上げた。
満月だった。
思い出せない。何ひとつ、思い出せない。燃える屋敷も、白い蜘蛛も、地獄の牢も、笑う鬼も、砕いた珠も——何ひとつ。
それでも。
隣にこの人がいて、月が出ていて、煙草がうまい。 なぜだか、それが、何万年も待ち侘びた夜だということだけは——分かった。
だから、男は言った。 世界でいちばん、ぶっきらぼうな告白を。
「——月が、綺麗ですね」
〈完〉
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