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『月が綺麗ですね』——世界を壊した極悪人と、何万回生まれ変わっても俺を探すと言った女神の話   作者: 月神世一


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外伝 皿を割った日

外伝「皿を割った日」

 その朝も、天照は願いを叶えていた。

『——商売敵の店が、燃えますように』 『——隣村の井戸が、涸れますように』 『——金を。誰のものでもいい、金を』

 祭壇に届く祈りを、受け、束ね、(ことわり)に流す。受け、束ね、流す。受け、束ね、流す。  いつからだろう。人の祈りが、言葉に聞こえなくなったのは。  今ではもう、すべてが同じ音に聞こえる。ざあざあと、際限なく降り続く——砂嵐のような音に。

 千年。  彼女は、一日も休んだことがなかった。

 その日の務めの最後は、月に一度の「奉りの儀」だった。

 大神の宝物殿から、開闢の皿を捧げ持ち、祭壇へ運ぶ。  開闢の皿——世界で最初の祈りを受けた、白磁の大皿。願いの仕組みの、はじまりの器。大神が天地のなにより重んじる、神宝中の神宝である。

 天照は、千年、この儀を続けてきた。一度のしくじりもなく。  目を瞑ってもできる。実際、心はいつも、目を瞑っていた。

 白い廊下を、白い皿を捧げて、歩く。  しずしずと。音もなく。人形のように正確に。

 ——その時。

 廊下の高窓から、風が入った。

 外界の風だった。理の(くだ)を通って天に届く、下界の夜気。微かに、煙の匂いがした。何かが燃えるような、それでいて、どこか香ばしいような——嗅いだことのない、匂い。

 天照の手が。

 ——ひらいた。

 がしゃああん、と。

 千年ぶんの静寂を、白磁の砕ける音が、引き裂いた。

「…………え」

 彼女は、自分の両手を見た。  空っぽの、白い両手を。

 足元には、開闢の皿だったもの。世界最初の祈りの器が、数百の欠片になって、白い床に散っていた。

「……え、……え……?」

 落とした、のではない。  手が滑った、のでもない。

 手が——ひらいたのだ。彼女の意思とは、まったく無関係に。まるで手のほうが、千年早く、何かを決めてしまったかのように。

 回廊の奥から、衣擦れの音もなく、影が伸びた。

「————天照」

 大神が、立っていた。

※ ※ ※

 裁きは、玉座の間で行われた。

 居並ぶ神々が、息を呑んで床に目を伏せる中、天照はひとり、砕けた皿の前に座らされていた。

「——何故、皿を割ったのだ」

 大神の声に、怒りはなかった。  怒りよりも、もっと冷たいもの——理解できないものを見る目が、そこにあった。

 天照は、答えた。  正直に。それしか、答えがなかったから。

「……分かりません。——私にも」

「……なに?」

「手が……手が、勝手に。……本当に、分からないのです。私にも、私が……」

 ざわ、と神々がどよめいた。

 大神は、長いこと、黙っていた。  砕けた皿を見て、それから、皿を割った娘を見て。井戸の底のような目で、じっと——まるで、軋み始めた歯車を検分する、職人のように。

 そして、誰にも聞こえぬ声で、呟いた。

「(……人形が、壊れたか)」

 修理が要るな、と仕組みの主は考えた。

「——天照。沙汰を申し付ける」

「……はい」

「百日の謹慎。離宮にて謹み、心を鎮めよ。務めは、その間、止める」

 神々が、再びどよめいた。願いの「口」を百日も止めるなど、開闢以来、例がない。  だが大神は意に介さなかった。歯車は、外して、休ませて、嵌め直せばいい。それだけのことだ。

 天照は、深く、頭を垂れた。

「……謹んで、お受けいたします」

 俯いた顔を、誰も見ていなかった。  ——見ていたら、気づいたかもしれない。

 罰を言い渡されたその顔が、ほんの少しだけ。  本当に、ほんの少しだけ——ほっとしていたことに。

※ ※ ※

 離宮は、静かだった。

 祈りの音が、届かない。  千年、頭の中に降り続いた砂嵐が——ない。

 最初の三日、天照は何もできなかった。  することが、ないのだ。願いが来ない。叶えなくていい。誰も、何も、求めてこない。

 静寂が、怖かった。  祈りを抜いた自分の中に、何が残っているのか、分からなかったから。

 ……何も、残っていなかったら、どうしよう。

 七日目。  彼女は、離宮の奥に、古い泉があるのを見つけた。

 外界を映す泉——遥か昔、神々が下界を見守るために使い、今は誰にも忘れられた、小さな水鏡。

 天照は、水面を覗いた。  深い意味はなかった。退屈で、怖くて、他にすることがなかった。ただ、それだけだった。

 ——後年。  彼女はこの経緯を、好きな男に「務めの合間の、ほんの気まぐれでした」と語ることになる。  それは、少しだけ、嘘だ。

※ ※ ※

 水面に映ったのは、下界の、とある城下町だった。

 夜。番屋の前。御用提灯が揺れ、捕方が十数人がかりで、縄を打った男をひとり、引っ立てていく。

『——おらおら歩け! 性懲りもねえ、これで何度目だ!』

 男は、笑っていた。  縄を打たれ、小突かれながら、月でも見上げるような顔で、にやにやと。

『うるせえなあ。賭場のイカサマを軽く揉んでやっただけだろうが』

『軽く!? 十七人だぞ! 十七人、医者送りだ!!』

『先に絡んできたのは向こうだ。——あー、腹減った。牢屋の飯、今日は何だ?』

『常連か貴様は!!』

 天照は、目を丸くした。

 ……なんて、ガラの悪い。なんて、品のない。  明日も覗くまい、と思った。

 ——翌朝、覗いた。

 牢が、破られていた。  太い格子が二本、飴のようにねじ曲げられ、男は朝市で団子を食っていた。役人たちが血相を変えて捜し回る、その鼻先で。

「……え、ええ……?」

 夕方、男はまた捕まった。  今度は、両替屋の蔵を破ったらしい。

 翌朝、また牢が破られていた。

 捕まる。破る。捕まる。破る。  覗くたび、それが繰り返された。十日も経つ頃には、牢番が『また来たのか』と男に茶を出すようになっており、男のほうも『おう、邪魔するぜ』と勝手知った顔で牢に入っていた。もはやどちらが囚人か分からなかった。

 天照は、いつしか、朝と夜、泉の前に座るのが日課になっていた。

 ……だって、気になるではないか。  今日は捕まるのか。今日はどう破るのか。あの男に、檻というものは、いったい——

 ある夜。  男は牢の中で、懐から細い筒を取り出した。先に火を点け、口に咥え、ふうっと白い煙を吐く。

 格子の窓から月を見上げ、煙を吐く男の横顔は、悪相のくせに、妙に——静かだった。

「……あの筒は、なんなのでしょう……」

 名前は、知らない。 (後に彼女は、その名を知らぬばかりに「ヤニも知らねーのかよ」と舌打ちされ、涙ぐむことになるのだが——それは、また別の話である)

 またある日。  男は盗んだ饅頭の包みを抱えて、橋の下に座っていた。痩せた野良犬が一匹と、煤だらけの子供が二人、男を遠巻きに見ている。

『……ああ?』

 男が睨むと、犬と子供はびくりと跳ねた。

『……ちっ』

 男は饅頭をひとつだけ咥えると、包みごと、ぽいと放った。

『うるせえ、見てんじゃねえ。——とっとと持ってけ』

 子供らが包みに飛びつき、犬が尻尾を千切れんばかりに振る。男はもう見てもいなかった。月を見て、煙を吐いていた。

 ——その時だった。

「……ふ、ふふ」

 離宮の泉のほとりで、声がした。

「ふふ、ふふふ……あはは……!」

 天照は、はっと、自分の口を押さえた。

 今のは——誰の声?

 ……私だ。  私が、笑ったのだ。

 千年。祈りを受け、束ね、流すだけだった「口」が——誰に命じられたのでもなく、誰の願いでもなく、ただ、おかしくて、笑った。

 水面の男は、もちろん気づかない。下界の橋の下で、不機嫌そうに煙を吐いている。

 天照は、濡れた頬に触れた。  笑いすぎて、涙が出ていた。涙など、流れ方も忘れたと思っていたのに。

「……ああ」

 ようやく、分かった。

 あの日。皿を割った、あの日。  高窓から入った外界の風。あの、煙の匂い。

 ——あれは、この男の煙だったのだ。

 理の管を遡って、たまたま天に届いた、たった一筋の紫煙。千年止まっていた彼女の中の何かが、あの匂いを嗅いだ瞬間、心より先に、動いたのだ。

 手が、ひらいた。  皿が、割れた。

 大神は言った。人形が壊れたか、と。

「……いいえ」

 天照は、水面の男を見つめて、囁いた。

「——壊れたのでは、ありません」

 目覚めたのです。

※ ※ ※

 百日の謹慎は、瞬く間に終わった。

 天照は務めに戻り、また祈りを受け、束ね、流す日々が始まった。砂嵐は、相変わらず降り続いた。

 けれど、何かが、決定的に違っていた。

 彼女には、秘密ができたのだ。  務めの合間、誰にも言わず、あの泉に通うこと。水面の向こうの、ガラの悪い、品のない、自由な男の——名前も知らない男の、今日を見守ること。

 千年で初めて、明日が来るのが、待ち遠しかった。

 ——そして、幾月かが過ぎた、ある夜のこと。

水面の中の男が、燃える屋敷にいた。

 仲間とともに押し込んだ先で、その仲間たちが白い花々を踏み荒らし、花の中の子供に刃を向けるのを——男が、斬り捨てるのを、彼女は見た。

胸が、震えた。

ひと目。どうしても、ひと目だけ、近くで見たい。あの煙の匂いを、水鏡越しではなく、本当に——

 気づけば。

 手が、勝手に、泉の水面へと伸びていた。

 あの日、皿を割った時と、同じだった。心より先に、手が決めてしまっていた。  ただひとつ、違うことがあるとすれば。

 ——今度は、理由が分かっていた。

 白い指先が、水面に触れる。  波紋の中へ、女神の姿が解けていく。小さな、白い蜘蛛のかたちへ——

 それは、世界でいちばん小さな「破壊」から始まった、恋の話。

 彼女が割ったのは、皿が一枚。  このあと彼女が恋をする男は——世界を、まるごと一枚、割ることになる。


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