第四話 嘆願書と、たったひとつの願い
「嘆願書と、たったひとつの願い」
執行は、明朝。
裁きの間に降る星明かりが、ゆっくりと巡っていく。地獄に夜はないが、終わりへ向かう時間だけは、確かに流れていた。
「お、大神様に、嘆願して参ります! 私が直々に頼めば、裁定も……!」
駆け出そうとした結の袖を、声が止めた。
「無駄ですぞ、姫様」
和勇牛だった。鬼は、苦いものを噛んだ顔で首を振る。
「魂の消滅は、大神様御自らの裁定。それに——殺めた命、三百十六。覆る道理が、ありませぬ」
「で、でも……っ!」
「……ただ」
和勇牛は、背負っていた葛籠を、どさりと床に下ろした。 蓋を開ける。中には——紙、紙、紙。何百枚もの、文が詰まっていた。
「妙なことが、起きております」
「これは……?」
「嘆願書に、ございます。——罪人・世一の、助命を求める」
「……は?」
世一が、煙管を咥えたまま眉を寄せた。
「誰がそんなもん書くんだよ」
「それが……人ではないのです」
和勇牛は一枚を手に取り、読み上げた。文字は歪んで、たどたどしい。
『——あのおとこのひとは、わたしたちを、ふまれるまえに、たすけてくれました。やいてはいけません。はなより』
「……花?」
『——おらの巣のある木を、盗人どもが燃やそうとしたとき、あのお人が止めた。すずめより』 『——おさないわたしを、にがしてくれました。きると、いわれたけれど、めは、わらっていました。ほうこうにんの、こより』
一枚、また一枚。 雀。野鼠。蜘蛛。蛇。名もなき草。あの夜、生かされた子供。 人の世では誰も知らない、誰の帳面にも載らない——小さきものたちの声が、葛籠から溢れていた。
「現世から天へ、祈りでもない、供物でもない『声』がこれほど届くなど……開闢以来、初めてのことに、ございます」
牢の中で、世一は黙って煙を吐いた。
結が、そっと、口を開いた。
「……世一様。私、知って、います」
「あ?」
「あの夜。お仲間を斬ったのは——あの方たちが、白い花々を踏み荒らして、花の中の子供を、斬ろうとしたから」
「…………」
「池から、ずっと見ていましたから。世一様はいつも、そう。お金より、宝より、踏み躙られる小さきものを見ると、お顔が変わる。私が好きになった蜘蛛の夜だけじゃない。ずっと、ずっと前から——」
「——あー、あれか」
世一は、心底つまらなそうに、灰を落とした。
「気に入らねえから殺しただけだ。深い意味なんざねえよ」
「……ふふ」
結は、笑った。泣き腫らした目のまま、咲くように。
「はい。世一様は、そういう御方です」
「……ちっ。おい、ヤニのお代わりだ」
「はいっ! ——これ和勇牛、ヤニをお持ちなさい!」
「執行前夜にまで……ハ、ハハーッ」
新しい煙が、ゆるりと立ちのぼる。 世一はひと口ふかして——ふ、と目を細めた。
「で? ——結」
「は、はい?」
「そろそろ、正直に話せ」
「……え?」
「千年、神サマやってきた女が、男ひと目見たくらいで、蜘蛛になって火事場まで降りてくるか? ——お前、本当は、何がしたい」
星明かりが、巡る。 結の白い喉が、こく、と動いた。
「……私、は」
俯いた前髪の奥から、声が、絞り出される。
「私は……下々の願いを叶える、神、で……だ、誰も……」
握った拳が、震えた。
「——誰もっ……誰も、誰も!! 力ばかり求めて!! 誰も、私のことを見てくれない!! 力は!! 力は、私じゃない!!」
千年の堰が、切れた。
「『誰か』じゃ、嫌なんです……! 私は、私を見てくれる人に……好きな人のためだけに、この力を使いたい……!! それの、何が、いけないのですか……!!」
涙声のまま、結は顔を上げた。 その目に灯っていたのは、悲しみではなかった。 ——もっと暗く、もっと熱い、何かだった。
「世一様の、自由に生きるお姿が、羨ましかった。眩しかった。そして思ったのです。……世一様なら。世一様なら、こんな——こんな世界を、壊してくださるんじゃないかって」
「…………」
「私の力を、お使いください」
結は、両手を世一へ差し伸べた。白く、細い、神の手を。
「私の神力があれば、世一様は明朝の業火を退け、天の軍勢すら退けられます。そして大神の持つ『宝玉』——世界の理を束ねる珠を奪えば、世一様は大神をも超える、絶対の神になられる」
「結」
「裁定など、覆す必要もありません! 世一様が、裁く側になればいい!! 私の身命のすべてを賭けて、世一様を絶対神の座へ——」
「結」
「さあ、私の手を! 私の手をお取りください!! 世一様の道は、この結が——」
「——だまれ」
「ひっ」
地の底のような声に、結の肩が跳ねた。 差し伸べた手が、宙で固まる。
世一は、煙管を、ゆっくりと置いた。 立ち上がる。鎖が、じゃらりと鳴る。
「結。——お前の力は、いらねえ」
「な……」
結の顔が、紙のように白くなった。
「な、何故……!? 私の力があれば、全知全能、すべてを統べる王に……死すら、消滅すら、超えられるのですよ!? どうして——」
「お前の力で勝って、お前の力で神になる」
世一は、結を真っ直ぐに見下ろした。
「——それじゃあ、何も変わらねえだろ」
「……え……?」
「金が欲しい、力が欲しい、敵を殺せ。——『結の力をくれ』。……千年、お前が聞いてきた声と、どこが違う」
「……あ」
「俺がお前の手を取ったら、俺はお前に願った連中と同じになる。お前はまた、好きな男にすら『力』しか見られなかった女になる。——なあ、結」
男は、嗤った。 地獄の星明かりの下で、極悪人が、嗤った。
「それじゃあ——お前は、救えねえだろ」
「——っ!!」
結の差し伸べた手が、力なく、落ちた。 代わりに、その瞳から、ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちていく。
「な……んで……どうして、貴方は、そういう、ことを……っ」
「うるせえ。泣くな」
世一は首をごきりと鳴らし、牢の格子の向こう——巨躯の鬼へと、目を向けた。
「——おい。そこのデカブツ」
「む? 我か?」
「お前、最初に言ったよな。——俺の首を、刎ねてくれる、と」
和勇牛の眉が、ぴくりと動いた。
「デカい図体しといて、言ったことを引っ込めるのか? ……随分と、小せえカスだな」
「……貴様」
「執行は明朝なんだろ? なら稽古をつけてやるよ。——俺の首を刎ねられるかどうか、今ここで、試してみろ」
地獄の空気が、凍った。
和勇牛の手が、大太刀の柄にかかる。みしり、と柄が軋む音だけが、裁きの間に響いた。
「よ、世一様……!? 和勇牛、なりません、その御方に手を出しては——」
「図に乗るのも——大概にしろよ、人間がァ……!!」
青白い炎の格子が、鬼の咆哮で吹き散った。
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