第三話 白い蜘蛛の正体
「白い蜘蛛の正体」
「フーッ……おい、灰入れは」
「は、灰……?」
「だーかーらー、ヤニの灰だよ。何処に落とすかって聞いてんだ」
結は、はっと目を見開いた。何かとんでもない使命を授かったような顔で周囲を見回し——何も見つからず——意を決したように、両手で自分の着物の袖を広げて差し出した。
「そ、それでは! 私の着物に、灰をお入れ下さいませ!」
「……おう」
とん、と。煙管の雁首が打たれ、白い袖に灰が落ちる。
「あ——熱っ」
「だろうな」
「熱っ……ありがとう、ございますぅ……!」
「礼を言うんじゃねえよ。怖えな」
柱の陰で和勇牛が「姫様の御召し物が灰皿に……地獄の終わりだ……」と頭を抱えている。
世一は新しい葉を詰めながら、改めて牢の中から問うた。
「で——結。ここは何処だ」
「は、はい。ここは『裁きの間』。裁きを待つ魂を、留め置くための牢にございます」
「裁き、ねえ」
世一は天を仰いだ。天のない、星の渦巻く宵闇を。
「……そうか。てことは、俺は死んだのか」
声に、震えはなかった。 未練も、恐怖も、何ひとつ。今日の天気の話でもするように、男は自分の死を確認した。
結は、その横顔に、また見惚れた。 ——ああ、この御方は、死んでなお、自由だ。
そして、見惚れたぶんだけ、胸の奥が軋んだ。
「……あ、あの。世一、様」
「あ?」
「も……申し訳、ありません……っ」
結は、石の床に、両手をついた。 白い額が、床に触れるほど深く。
「私の——私のせいで、貴方様を、死なせてしまいました」
「……あ? 何言ってんだ、お前」
「わ、私……現世に降りる時は、その、蜘蛛の、姿になるのです。それで、あの、あの夜も……っ」
ぽた、ぽた、と。石の床に、雫が落ちて染みを作る。
「おい。泣いてんじゃねえよ。顔を上げて、ちゃんと話せ」
「……は、い」
結は顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの、けれど逃げない目だった。
「聞いて、いただけますか。私の……千年の、話を」
※ ※ ※
——私は、願いを叶える神でした。
日の御子。天津神の長姉。高天原の祭壇には、朝も夜もなく祈りが届きます。
『金を。商売敵より、一枚でも多くの金を』 『力を。隣村を従わせる力を』 『あの男を殺してください。方法は問いません』
私は、叶えました。それが神の務めだから。 祈る者は皆、深々と頭を垂れます。地に額を擦りつけ、供物を山と積み、私を讃える歌をうたいます。
けれど——誰も、私を見ていないのです。
彼らが拝んでいるのは、私の「力」。 頭を下げる先にあるのは、願いを叶える「仕組み」。 私が今日、何を思ったか。何が悲しかったか。問うた者は、千年で、ただの一人もいませんでした。
名を呼ばれたことすら、ないのです。 天照大神。それは名ではありません。役職です。札に書かれた、力の呼び出し口です。
いつからか、祈りの声は、砂嵐のような音にしか聞こえなくなりました。 叶えて、叶えて、叶えて——心が、すり減って、薄くなって。
ある日、ふと、外界を映す池を覗きました。 務めの合間の、ほんの気まぐれでした。
——そこに、貴方がいたのです。
燃える屋敷。たった一人で、何十人もの男たちを薙ぎ倒していく男。 誰にも祈らない。誰にも頭を下げない。欲しいものは、神に願わず、自分の手で奪い取る。
雷に、打たれたようでした。
なんて——なんて、自由なひと。
それから私は、務めの合間を盗んでは、池を覗くようになりました。貴方が悪いことをするたび、本当はいけないのに、胸が高鳴りました。だって貴方は、世界の誰よりも、生きていたから。
そして、あの夜。 どうしても、ひと目、近くで見たくなって。 私は蜘蛛の姿で、現世に降りたのです。
※ ※ ※
「……燃え落ちる木の下で、動けなくなって。ああ、私はなんて愚かなのだろうと思いました。神のくせに、虫の姿では、火の一つも払えない」
結は、ぐ、と袖を握りしめた。
「そうしたら——貴方様が、来てくださった」
世一は、ゆっくりと煙を吐いた。 紫煙の向こうで、記憶が像を結ぶ。紅蓮の中の、場違いな白。こちらを見ていた、八つの瞳。
「……あー」
なるほどな、と男は呟いた。
「ってことは——お前、あの時の蜘蛛か」
「……はい」
結の声が、ひしゃげた。
「私を助けて、貴方様は、死にました。私が見たいなどと願わなければ、貴方様は今も現世で……っ、私が——私が、貴方様を、殺したのです……!」
だから、と結は床に額を打ちつける。
「だから、裁きから救いたいなどと、虫のいいことは申しません……! ただ、ただ、ひと目、謝りたくて……それで、私……っ」
「——ばーか」
「……ふえ?」
結は、間の抜けた声と共に顔を上げた。
世一が、笑っていた。 凄みでも、嘲りでもない。死んだ庭で初めて見せる、ただの、笑顔だった。
「俺はな、結。生まれてこのかた、他人の指図で動いたことは一度もねえ」
煙管を、とん、と打つ。
「盗るときは、盗りたいから盗った。斬るときは、斬りたいから斬った。——なら、助けたときも、決まってんだろ」
「……あ」
「俺は、俺が助けたいから助けた。それだけだ。お前のせいなわけ、ねーだろ」
「…………っ」
千年。
すり減って、薄くなって、もう涸れたと思っていたものが——決壊した。
「……ぅ、あ……ああ……っ、うあああああん……!!」
結は、泣いた。 神の威厳も、姫の作法もかなぐり捨てて、子供のように、声を上げて泣いた。千年ぶん、まとめて泣いた。
世一は、止めなかった。 ただ煙を吐きながら、泣きじゃくる女神を、気が済むまで眺めていた。
「……うっ、ひっく……も、申し訳、ありませ……」
「謝んな。……ちっ、ほら、いつまで床に這ってんだ。袖が灰だらけだぞ」
「は、はい……えへ、えへへ……世一様がつけてくださった、灰です……」
「やっぱりお前、気持ち悪いな」
「ふぇえ!?」
——その時だった。
ゴオオオオン……
銅鑼の音が、裁きの間を震わせた。 一度。二度。三度。腹の底に響く、低い音。
結の顔から、すうっと血の気が引いた。
「ひ、姫様……!」
和勇牛が駆け込んでくる。その鬼の顔が、紙のように白い。
「さ、裁定が……裁定が、下りました」
巨躯の手にあるのは、一枚の黒い札。 結が、ひったくるように奪い、目を走らせる。
『罪人・世一。殺めし命、三百と十六。 裁定——地獄の業火にて、魂の消滅。 執行は、明朝』
「……魂の、消滅……」
札が、結の手から滑り落ちた。
地獄行きではない。責め苦でもない。 消滅——輪廻の輪からも外され、二度と、何にも生まれ変われない。世一という存在そのものが、この世から永遠に消える。
「い、嫌……そんなの、嫌……っ、せっかく、せっかく会えたのに……!」
結が崩れ落ちる。和勇牛が目を伏せる。
牢の中で、ただひとり。
「——ふーっ」
世一だけが、旨そうに、煙を吐いた。
「ちょうどいい」
「……え?」
「——退屈してたとこだ」
極悪人は、嗤っていた。




