第二話 裁きの間の極悪人
「裁きの間の極悪人」
「……お願い、お願いします……ひと目だけ、ひと目だけでいいんです……」
「な、なりません姫様! 罪人との接触は固く禁じられております! 私が大神様に怒られてしまいます……!」
(……うるせえな……)
世一は、目を開けた。
最初に見えたのは、天井——ではなかった。 天が、ない。見上げた先は底のない宵闇で、そこに無数の星のような光が、ゆっくりと渦を巻いている。
身を起こす。固い石の床。両の手首に、墨のように黒い鎖。 周囲をぐるりと囲うのは、青白く燃える炎の格子だった。牢、らしい。
「……気づいたか、極悪の者よ」
地鳴りのような声がした。
炎の格子の向こうに、山が立っていた——いや、男だ。身の丈は優に八尺。肩には岩のような筋肉が盛り上がり、額からは二本の角。手にした大太刀は、人間ならば三人がかりでも持ち上がるまい。
鬼だ。絵草紙で見るそのままの。
「ここは裁きの間。貴様の罪を数え、裁きを下す場である。罪人・世一よ、貴様の悪行は——」
「あ? 誰だお前」
「……これより地獄の業火に焼かれる者に、名乗る名など無い」
「あー、お前じゃねえよ」
世一は、鬼を素通りして、その後ろへ顎をしゃくった。
「——そこの柱に隠れてる、可愛いねーちゃんに聞いてんだよ」
「……っ!?」
太い柱の陰。白い着物の裾と、覗いていた片目が、びくりと跳ねて引っ込んだ。
鬼の顔が、見る間に朱に染まる。
「き、貴様ァ……! 誰に向かって口を利いている! あの御方を、その薄汚れた目で見ることすら万死に値する!」
「へえ。じゃあどうする」
「ええい、裁きを言い渡すまでもない! 我がこの場で、首を刎ねてくれよう!!」
大太刀が抜かれた。青白い炎の格子が、鬼の一喝でかき消える。 牢に踏み込み、振りかぶり——
——鬼の足が、止まった。
世一は、座ったままだった。鎖に繋がれ、丸腰で、あぐらをかいたまま。 ただ、目だけを上げて、鬼を見ていた。
「…………」
なんだ、この目は。 鬼——和勇牛は、千年、地獄の門を守ってきた。亡者の怨嗟も、大悪人の凄みも、見飽きるほど見てきた。
だが、これは違う。 怒りでも、殺気でもない。この男は——値踏みをしている。振り下ろされる刃の速さを、こちらの腕を、まるで飯屋の品書きでも眺めるように。
顎を、冷たい汗が伝った。
「首を刎ねる、だったか?」
世一は、口の端を吊り上げた。
「——やってみろよ」
「や、やめて下さい!!」
声が、割って入った。
柱の陰から、白い着物の姫が転がり出てくる。長い黒髪。月光を織ったような白い肌。慌てすぎて裾を踏み、すっ転びかけながら、両腕を広げて鬼の前に立ちはだかった。
「ひ、姫様!? なりません、お下がりを——」
「和勇牛よ、貴方こそ下がっていなさい。……わ、私は、この御方と、は、話がしたいのです」
「い、いや、しかし、そういうわけには」
「下がりなさい!!」
悲鳴のような一喝だった。和勇牛は雷に打たれたように硬直し、
「……ハ、ハハッ!」
大太刀を収めて、三歩下がった。三歩だけ。それ以上は一寸たりとも下がらん、という顔で。
姫が、向き直る。 世一と、目が合う。
「あ……あの、わ、私は、その……あ、あの」
「…………」
「あの、ですね、わ、私……あ、貴方様に、その……っ」
顔は茹で蛸。目は泳ぎ、指は意味もなく絡まり合っている。千年の門番を一喝した威厳は、もうどこにもない。
世一は、はーっと息を吐いた。
「……おい」
「は、はいっ!!」
「ヤニ持ってねえか?」
「……………………や、に?」
姫は、こてんと首を傾げた。
「ヤニ、とは……なんなのでしょう……?」
「は? ヤニも知らねえのかよ。……ちっ、使えねえな」
「~~~っ、ううっ……」
姫の大きな目に、見る間に涙が盛り上がった。和勇牛が「貴様ァ!」と再び柄に手をかける。
「あーもう泣くな、面倒くせえな。……そこのデカブツに言って持ってこさせろ。煙草だ。葉っぱを火で炙って、煙を吸う」
「は……はいっ! ——これ、和勇牛! 今すぐ、ヤニ? を、ここに持ってきなさい!!」
「は? ヤニ……葉を炙る……は! それは『忘れ草』のことですな。外界の者からの貢物で、確か蔵に……し、しかし姫様、罪人にそのような」
「持って、き、な、さ、い!!」
「ハ、ハハーッ!!」
地獄が、揺れた。
——それからの裁きの間は、開闢以来の大騒ぎとなった。
蔵という蔵が引っ繰り返され、埃を被った煙管と刻み煙草が発掘され、姫が両手で捧げ持って運んでくる。
「こ、これで、よろしかったですか……?」
「あー……ま、これでいいか」
世一は慣れた手つきで煙管に葉を詰め、咥え——動きを止めた。
「……ん」
「? ?」
「何やってんだ。早く火を付けろよ」
「ひ、火!? 火などは持っていなくて、あの、あの……っ! ——和勇牛! 罪人を焼く地獄の釜から、火を持ってきなさい!!」
「あの大釜の火を、煙草のために!? 開闢以来そのような使われ方は……ハ、ハハーッ!!」
かくして。 亡者を焼くために燃え続けてきた地獄の劫火は、その歴史上はじめて、極悪人の一服のために火種を分けた。
「……ん。——ふーっ」
紫煙が、ゆるりと立ちのぼる。天のない宵闇へ、溶けて消えていく。
「ちょっとシケってるが——旨いな」
「……っ!」
その瞬間の姫の顔を、なんと言えばいいのだろう。
蕾が綻ぶように、月が雲間から出るように——姫は、笑ったのだ。 千年の作法も神威も忘れ果てた、年相応の娘のような、不器用で、無防備な笑顔だった。
「ご、ご満足……してくれましたか?」
「まーな」
「~~~っ」
姫は胸の前で両手を握りしめ、声にならない声で悶えている。柱の陰では和勇牛が「姫様のあのような御顔……」と打ち震えていた。
世一は煙を吐き、その娘を改めて眺めた。
「ねーちゃん、名前は」
「な!? わ、わわ私の、名を……!? は、はいっ! 私は、天の神の子、天津神の長姉、高天原を統べる日の御子、天照大神——」
「なげーよ」
「ふぇ」
世一は、煙管の先を姫に向けた。
「……そうだな」
目の前の娘。白い着物。白い肌。 ——燃える庭で見た、あの白さと、どこか似ている気がした。
「——結だ。結にしとけ」
「…………ゆ、い」
姫の時間が、止まった。
ゆい。ゆい。ゆい。 口の中で三度転がして——その大きな瞳から、ぼろりと、涙が零れた。
「ど、どうした、おい」
「は……はいっ! はいっ……! わたしは——結、です……!」
天照大神。日の神。願いを叶える神。千年、そう呼ばれてきた。 名ではなく、役職を。神威を。力を。
——名前を、もらった。 この世でただひとり、私だけの、名前を。
泣き笑いの結を前に、世一は煙を吐いて、心底面倒くさそうに呟いた。
「……泣くか笑うか、どっちかにしろ」
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