第一話 業火と白い蜘蛛
「業火と白い蜘蛛」
月が、綺麗だった。
「……はー。今日もついてねえな」
終電一本前。月神世一は駅前のベンチに腰を下ろし、ぬるくなった缶コーヒーを呷った。 取れなかった契約。上司の小言。財布の中の千円札一枚。 三十年そこそこ生きてきて、自分の手で掴んだものなんて、何ひとつ思い浮かばない。
それでも、夜空を見上げて思う。
「……ま、月は綺麗だけどよ」
ひとりごとのつもりだった。
「——月が綺麗ですね」
声は、すぐ後ろから降ってきた。 鈴を転がすような、それでいて、どこか泣き出す寸前のような声。
振り返る。 街灯を背にして、女がひとり立っていた。逆光で顔は見えない。ただ、白い着物のような服の裾が、夜風に揺れている。
女は、笑った気配がした。
「やっと——やっと、見つけました」
……誰だ、と問うより先に。 世一の頭の奥で、何かが軋んだ。知らないはずの炎の匂いが、鼻の奥に蘇る。
——燃えている。 ——どこかで、何かが、燃えている。
※ ※ ※
時は、江戸。
屋敷が燃えていた。 火柱は夜空を焦がし、瓦は爆ぜ、人の悲鳴はとうに聞こえなくなった。阿鼻叫喚すら焼き尽くした業火の中を、千両箱を肩に担いだ男がひとり、悠然と歩いていく。
名は、世一。 押し込み、辻斬り、騙し討ち。その名は関八州の裏に轟き、首にかかった賞金は積み上げれば人の背丈を越えるという。
今宵の獲物は、悪徳両替商の隠し蔵。 そして今、燃え盛る庭には——世一が率いてきた盗賊団十六人が、全員、骸となって転がっていた。
斬ったのは、世一である。
理由は、単純だった。
——四半刻前。
「お頭ァ! 大金星だ、千両箱が唸ってやがる!」
蔵を破った手下どもが、雪崩を打って庭を駆けた。その足が、躊躇なく踏み荒らしていく。 庭の隅、月明かりの下に群れ咲いていた——白い花々を。
世一の足が、止まった。
「……おい」
誰も聞いていない。手下のひとりが花群れを蹴散らし、その奥で何かを見つけて刀を抜いた。
「お頭! 餓鬼が隠れてやしたぜ。見られた以上、生かしちゃ——」
花の中に、奉公人の子供だろう、小さな影が震えていた。
次の瞬間、刀を抜いた男の首が、夜空を舞った。
「……え?」
誰かが間の抜けた声を出した。それが、その男の最期の声になった。
一閃。二閃。悲鳴は三つ目で途切れた。 燃える庭で、世一はただ淡々と、十六人を斬った。命乞いも、裏切り者という罵声も、等しく断った。
最後のひとりが、血の海に膝をついて喚いた。
「な、なんでだ……! 俺たちが、何をしたってんだよぉ……!」
「あ?」
世一は、煙管の灰を落とすような顔で言った。
「——気に入らねえ。それだけだ」
白い花を、踏んだ。 世一が斬った理由は、本当に、ただそれだけだった。
震える子供に、世一は顎をしゃくる。
「行け。次に俺の前に出てきたら斬る」
子供は転がるように消えた。 世一は千両箱を担ぎ直す。仲間は要らない。山分けも要らない。欲しいものは、自分の手で取る。生まれてこのかた、ずっとそうやって生きてきた。
「……さて、ずらかるか」
火の手は屋敷を呑み、庭まで迫っていた。 燃え崩れる門へ向かう——その時だった。
視界の端で、白いものが、動いた。
「……あ?」
炎に炙られた大木が、メキメキと音を立てて傾いでいる。 その根元。逃げ遅れたのか、一匹の蜘蛛がいた。
白い、蜘蛛だった。
雪を固めたような、月の光を糸にしたような——燃え盛る紅蓮の中で、そこだけが場違いに、静かに、白かった。
蜘蛛は逃げない。逃げられないのか、八つの目が、じっと世一を見ている気がした。
「…………」
知らぬ顔で通り過ぎればいい。虫一匹だ。 頭上で大木が断末魔を上げ、火の粉が滝のように降る。
「……ちっ」
世一は——千両箱を、投げ捨てた。
地を蹴る。炎を割って腕を伸ばす。指先が白い蜘蛛を掬い上げ、火のない茂みへと放り投げた、その刹那。
世界が、落ちてきた。
轟音。衝撃。視界が赤と黒に潰れる。 燃える大木の下敷きになったのだと理解するまで、数拍かかった。
「……は、……ははっ」
笑いが漏れた。 人を三百斬った男の最期が、虫一匹を助けて圧死。閻魔も帳面を二度見するだろう。
霞む視界の先——茂みの陰で、白い蜘蛛がこちらを見ていた。 炎の照り返しの中、八つの瞳が、まるで泣いているように揺れて見えた。
「……なんだよ、その目は」
世一は、口の端だけで嗤った。
「……悪く、ねえ。最期だ——」
視界が、墜ちる。 自分で放った業火に抱かれて、極悪人・世一は、絶命した。
※ ※ ※
——どれほどの時が、流れたのか。
暗闇の底で、声がした。
「……お願い、お願いします……ひと目だけ、ひと目だけでいいんです……」
「な、なりません姫様! 私が大神様に怒られてしまいます……!」
ひどく必死な女の声と、困り果てた野太い声。
(……うるせえな……)
世一は、目を開けた。
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