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赤い閲覧票-『侯爵家次女は書誌魔法で知の帝国を運用する』  作者: アイリス独孤求敗(ビンちゃん特殊司書)


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第148話 クララが先に守るもの

 人は、守るものが一つだけなら、もっとましに振る舞える。


 一つだけなら、選ばなくていい。

 一つだけなら、誰かを後回しにしなくていい。

 一つだけなら、夜中に目を覚まして、自分が何を切り捨てたか数え直さなくて済む。


 けれど現実には、守るものはたいてい複数ある。

 しかも、きれいに並んではくれない。


 子ども。

 教える女たち。

 帳簿。

 場所。

 祈祷書。

 教区の顔。

 外へ漏れた時の責任。

 いま夜灯の下に残っている学び。


 その全部が一つの場所へ詰め込まれると、人は「善人」や「悪人」ではいられなくなる。

 ただ、順番を決める人になる。


 そして、その順番は、時にひどく残酷だ。


 その朝、修理室の空気は、前日よりさらに静かだった。


 理由ははっきりしている。

 前話までで、「白の子」という呼び名の層が少し剥がれたからだ。


 外から着せられた名。

 内側でも使わざるを得なくなった名。

 守りでもあり、削りでもある名。


 呼び名の由来が分かると、逆に次の問いが鋭くなる。


 では、クララは実際に何を守っているのか。


 名前か。

 子どもか。

 白の子たちか。

 教区の秩序か。

 それとも、もう壊れかけた運用そのものか。


 アイリスは、その問いを口に出す前から、部屋の全員が同じ場所へ視線を寄せているのを感じていた。


 ヴァーレンはすでに紙を出している。

 ミナは昨日の報告を写し直しながら、何度も同じ箇所でペンを止めていた。

 ネアは椅子を前脚だけ浮かせるような危なっかしい姿勢で座り、危なっかしいくせに一番落ち着いて見える。

 マルタは革片を切っているが、耳は完全にこちらへ向いている。

 リルは窓辺で、朝の白い光の具合を見ているふりをして、実際には皆の反応を見ていた。

 ロイドは壁際。

 ハルとノアは、机の端の紙を見たり見なかったりしている。


「今日は、嫌な問いよ」


 アイリスがそう言った時、ネアがすぐ返した。


「最近いつもそれ言ってない?」


 修理室に、少しだけ笑いが起きる。


「言ってる」


 とアイリス。


「でも今日は、とくに」


「どんなふうに?」


 とミナ。


「答えがきれいじゃない種類の問い」


「それはまあ、だいたいそうですけど」


「最近、言うようになったわね」


 とリルが少し笑った。


 ミナは少しだけ赤くなる。


「影響です」


「誰の?」


 とネア。


「……悪い方から言うと、たぶん皆さんの」


「悪い方限定なんだ」


「良い方もです」


「よし」


 ネアは満足そうに頷く。


「育ってる」


「その言い方、たまに腹立ちます」


「たまに?」


「かなり」


「それも育ってる」


 また少し笑いが起きる。


 重い問いに入る前の、この小さな笑いは大事だ。

 修理室の人間たちは、最近ようやくそれを自然にできるようになってきた。

 重みを薄めるためではない。

 重みに潰されないためだ。


「じゃあ、嫌な問い」


 とロイド。


「何だ」


 アイリスは、昨日の紙を一枚引き寄せた。


 白の子は、誰の名か。


 その下へ、今日の問いを書き足す。


 クララは、何を先に守るのか。


 ハルが、すぐに顔をしかめた。


「“先に”って何」


「順番があるってこと」


 とアイリス。


「守るものに?」


「ええ」


「そんなの、全部守ればいいじゃん」


 それは子どもらしく、そして正しい願いだった。


 だが正しい願いは、現実ではたいてい、最初に欠ける。


「全部守れたらいい」


 とアイリス。


「でも、白い倉庫は全部を守れるだけの場所じゃない」


 ノアが、小さく言う。


「足りないから」


「ええ」


 とアイリス。


「何もかも足りない」


 ネアが腕を組む。


「紙も、椅子も、時間も、灯りも、名前もね」


「名前も?」


 とハル。


「そう」


 ネアは言う。


「本名で立てる場所じゃない時点で、もう名前も足りてない」


 その一言は、ひどく重かった。


 白い倉庫は、物資不足の場所であるだけではない。

 名づけの不足した場所でもある。

 だからこそ、クララが何を先に守るかという問いは、単なる性格診断にはならない。

 不足の中で、何を先に切らずに残すかという問いになる。


 ヴァーレンが、さらさらと見出しを書く。


 優先保護対象仮説整理クララ


「早い」


 とミナ。


「準備していました」


「もう最近それ隠さなくなりましたね」


「隠す必要が薄いので」


 ネアが吹き出した。


「ほんと、便利な人だね」


「有用と言ってください」


「そこまでいくとちょっと可愛くない」


「承知しています」


 それには、マルタまで少し笑った。


 アイリスは、指を折るようにして言い始めた。


「候補は五つある」


 ミナがすぐに書く。


「一つ目。子どもたち」


「二つ目。白の子たち――教える側の若い女たち」


「三つ目。白い倉庫の運用そのもの」


「四つ目。教区の顔と帳簿上の均衡」


「五つ目。白い倉以前から続く、失われかけた連続性」


 ハルが眉を寄せる。


「最後のやつ、難しい」


「そうね」


 とリル。


「でも、一番大きいかもしれない」


「どうして」


 リルは少し考えてから言う。


「クララがただ“今日”だけを守る人なら、もっと切り方が雑なはずだから」


 その言葉に、修理室の空気が少し変わる。


 たしかにそうだ。

 クララがその場しのぎの門番なら、もっと乱暴に追い返し、もっと早く閉め、もっと帳簿の理屈だけで切るだろう。

 けれど彼女はそうしない。

 沈黙はする。

 止めもする。

 でも、完全には閉じない。


 それは“今日だけ”を守る人間の振る舞いではない。


「じゃあ、一番上は何だと思う」


 とロイド。


「子ども」


 とノアが、ためらわずに言った。


 皆がそちらを見る。

 ノアは少しだけ身をすくめる。

 でも、引っ込めない。


「どうして」


 とハル。


「だって、咳したら、先にそっち」


 ノアは言う。


「“一人ずつ”も、子どものため」


「うん」


「椅子も、紙も、夜の灯りも」


 彼女は少しだけ考えながら続ける。


「たぶん、まず、そこ」


 その観察は鋭かった。


 ノアは理屈からではなく、運用の実感から答えている。

 誰が先に座らされるか。

 誰に声が向くか。

 咳のある子をどう扱うか。

 そういう順番を、彼女はずっと“される側”の感覚で見てきたのだ。


「一理あるわね」


 とアイリス。


「一理どころか、かなりある」


 とネア。


「でも」


 とロイド。


「子どもだけなら、帳簿は抱えないだろ」


 その反論もまたもっともだった。


 クララは帳簿を持つ。

 数える。

 出入りを管理する。

 つまり、彼女は単なる子ども担当ではない。

 何か別のものも同時に守っている。


「私は、白の子たちだと思う」


 とミナが言った。


 皆が彼女を見る。

 ミナは少しだけ息を整えてから続ける。


「子どもも守ってる。

 でも、子どもは外からも見えます。

 荷口の外にノアやハルが立てば、気配が取れる。

 でも、白の子たちは違う」


「どう違う」


 とハル。


「名前がない」


 ミナは言った。


「子どもは“子ども”として見える。

 でも、教える側の若い女たちは、“白の子”“雑役”“手伝い”のどこへでも落とせる」


 ネアが、ゆっくり頷く。


「だから、そこに名前を出すと、一番危ない」


「ええ」


 とミナ。


「クララさんが、“先生”って書くと消されやすいって言ったのも、そこに近いと思う」


 アイリスは、その分析に強く頷いた。


「つまり」


 とヴァーレン。


「クララ修道女は、子どもの学習環境保持だけでなく、教示者側の匿名性維持を優先課題としている可能性」


「もうちょっと柔らかく言えない?」


 とネア。


 ヴァーレンは少し考える。


「……教える女たちの名前が表へ出ないよう、先に守っている」


「それ」


 とネア。


「最初からそれでいい」


「次からそうします」


「次から?」


「今後の同種状況で」


「ほんとに止まらないね」


 そのやり取りに、少しだけ笑いが漏れる。


 マルタが、そこで思いがけず口を開いた。


「私はね」


 皆がそちらを見る。


「場所そのものだと思うよ」


「白い倉?」


 とリル。


「そう」


 マルタは祈祷書の背を指でなぞりながら言う。


「子どもも、女たちも、帳簿も、もちろん大事だ。

 でも、全部を一度に失うのは、場所が潰れた時だ」


 修理室が、また少し静かになる。


「潰れたら」


 とマルタ。


「白の子も散る。

 子どもも来られない。

 紙も夜灯も置けない。

 だから、あの手の人間は、時々、まず場所を守る」


 ロイドが低く言う。


「拠点だな」


「ええ」


 とマルタ。


「気に食わないけど、そういう順番になることはある」


 ハルが、少し苦しそうな顔をした。


「でも、それって、子どもより場所ってこと?」


 マルタはすぐには答えなかった。

 その代わり、少しだけ目を細めて言う。


「違うよ」


「え?」


「子どもを守るために、場所を先に守るんだ」


 ハルは、その言い方を胸の中で何度か転がしている顔だった。

 納得しきれない。

 でも完全には否定できない。

 そういう顔。


 ノアが、小さく言う。


「雨の日、場所ないと、だめ」


 それだけで、話が少し前へ進んだ。


 そうだ。

 大人は理念で考える。

 でも子どもは、まず雨に濡れるか濡れないかで世界を見る。

 場所があるかないか。

 夜灯がつくかつかないか。

 椅子があるかないか。

 その具体が、結局いちばん本質だったりする。


 リルが、窓の外の光を見ながら言った。


「私は、四つ目もあると思う」


「教区の顔?」


 とミナ。


「ええ」


 リルは苦く笑う。


「嫌だけど」


「どうして」


「クララが完全に現場だけの人なら、あそこまで帳簿を抱えて均衡を取らない」


「均衡」


 とハル。


「そう。

 “これ以上見せると危ない”

 “でもここで完全に閉じると維持できない”

 そういう綱渡りをしてる」


 リルは、指先で窓枠を軽く叩いた。


「そういう人は、だいたい上の顔も気にしてる」


 ロイドが頷く。


「現場だけじゃ回らない」


「ええ」


「でも、上だけならあんな顔はしない」


 リルのその整理は冷静だった。

 王宮の中で、人がどうやって“顔”を持たされるかを知っている人間の言い方だった。


 アイリスは、全員の意見を聞きながら思った。


 たぶん正解は一つではない。

 クララは、子どもも、白の子も、場所も、帳簿上の均衡も、古い連続性も、全部守ろうとしている。

 ただし、同じ強さではない。

 優先順位がある。

 そしてその順位は、日ごとに、時刻ごとに、相手ごとに変わる。


 だからこそ、問いは

 「誰を守るのか」

 ではなく、

 「先に何を守るのか」

 でなければならないのだ。


「聞くしかないわね」


 とアイリス。


「ええ」


 とミナ。


「でも、どう聞くんですか」


「正面から」


 とネア。


「またですか」


「まただよ」


 ネアは肩をすくめる。


「でも、今日は一つ工夫する」


「何を」


「“誰を守ってるんですか”だと、刺しすぎる」


「はい」


「だから、“先に何を失いたくないんですか”って聞く」


 ミナがはっとした顔になる。


「……それなら、答えやすい」


「そう」


 ネアは言う。


「“守る”って言葉は、時々、相手に善人の顔を要求する。

 でも“失いたくない”なら、もっと本音に近い」


 アイリスは、その言い方に心から頷いた。


「それでいきましょう」


 リルが小さく笑う。


「今日はずいぶん職人の採用率が高いわね」


「現場だから」


 とアイリス。


「そうね」


 リルのその返答には、少しだけ嬉しさが混じっていた。

 王女である自分の言葉だけがいつも中心に来るわけではない場。

 それを彼女もまた、少しずつ好きになっているのだろう。


 ヴァーレンが、新しい紙へ見出しを書く。


 優先喪失忌避対象照会文(案)

 “あなたが先に失いたくないのは、何ですか。”


「長い」


 とハル。


「でも、前よりわかる」


 とミナ。


「それは良い傾向です」


「最近、それしか褒め方ないんですか」


「他にもあります」


「言ってみてください」


 ヴァーレンは一瞬だけ考えた。


「……適切に成長しています」


 一拍遅れて、修理室が笑いに包まれた。


 ミナは顔を赤くした。


「やっぱり腹立ちます」


 ネアが机を軽く叩く。


「いいねえ」


 ロイドまで肩を揺らしている。

 リルは笑いながら目を伏せた。


「ほんと、前より面白いわ」


 ヴァーレンは不本意そうだったが、否定しなかった。

 それだけで十分だった。


 笑いの余韻が引いたあと、ハルがぽつりと言った。


「ぼくは、子どもだと思う」


 皆がそちらを見る。


「クララが?」


「うん」


 ハルは、少し考えながら言う。


「でも、場所も、白の子も、あるのは分かる。

 分かるけど、もし、最後に一つしか残せないなら、子どもだと思いたい」


 その言い方は、少し前の彼よりずっと大人だった。

 願いとして言っている。

 断定ではなく、願いとして。


 ノアが、静かに頷く。


「わたしも」


 その二人の言葉を、アイリスは大事に受け取った。


 事実の分析と、願いとしての倫理。

 その両方がいる。

 どちらか一方では、この先の社会は作れない。

 制度を組む者は分析が要る。

 でも、最後に何を恥とし、何を守るべきだと思うかは、願いの方が決める。


「じゃあ」


 とアイリス。


「今日は、その願いも持って行きましょう」


「紙に?」


 とミナ。


「いいえ」


「じゃあ、どうやって」


 アイリスは少しだけ笑った。


「顔に出るわ」


 ネアが吹き出す。


「たしかに」


「それ、止められませんもん」


 とミナ。


「今日は止めなくていい」


 アイリスは言った。


「整えすぎた顔より、少しだけ本気が見える方が、クララには届く気がする」


 それは、最近の修理室で何度も確認されてきたことだった。

 完璧な理屈より、少し震える手。

 正しすぎる言葉より、本当に怖がっている顔。

 そういうものの方が、クララのような境界の人間には届く。


 外へ出る前、ノアがミナの袖を引いた。


「なに?」


 とミナ。


 ノアは小さく言う。


「“何を守るか”より、“何を失うと痛いか”の方、いい」


 ミナは少し驚く。


「どうして」


「守るって、つよい人のことば」


 ノアは言う。


「でも、いたい、は、そうじゃない」


 その一言に、ミナはしばらく返事ができなかった。


 ノアは、本当に時々、誰より深いところを一番短く言う。


「……ありがとう」


 とミナ。


 ノアは少し照れたように視線をそらした。


「へん?」


「ううん。

 すごく大事」


 ハルが横から言う。


「最近ノア、ずるいよな」


「なんで」


「一言で全部言う」


 ノアは少しだけむっとした。


「ハル、ながい」


「それは今言わなくてもいいだろ」


 それに、また小さな笑いが起きた。


 そして、ミナとネアは、紙を持って立ち上がる。


 今日は、白の子という布の話ではなく、その布を被ったまま、クララが何を先に失いたくないと思っているのかを問う日だ。

 つまり、彼女の“守り”の中心へ触る日だ。


 それはたぶん、今までで一番、彼女自身の痛みへ近い。


 アイリスは、二人を見送りながら思った。


 クララを動かすのは、正しさだけではない。

 分析だけでもない。

 たぶん、“何を先に失いたくないか”という問いだけが、彼女の順番を言葉へ変えられる。


 そしてその順番を聞くことは、白い倉庫編が、ついに“運用の仕組み”から“運用する人の倫理”へ踏み込むことでもあった。


 白い壁の向こうで、誰が何を先に切らずに残そうとしてきたのか。

 そこまで行けば、ミラ先生かもしれない人と、白の子たちと、クララのあいだに流れるものが、もっとはっきり見えてくるはずだった。

お読みいただき、ありがとうございます。


『赤い閲覧票――侯爵家次女は書誌魔法で知の帝国を運用する』は、図書館、目録、禁書、教育、貴族社会、そして知識をめぐる権力を題材にした物語です。


侯爵家の次女アイリスは、ただ本を読む少女ではありません。

本を分類し、記録し、つなぎ直すことで、人びとの運命と国のかたちそのものに触れていきます。


赤い閲覧票に記された小さな一枚の記録が、やがて王国の制度を揺らし、隠された声を可視化し、誰かの未来を守るための手がかりになっていく――。


本作では、華やかな貴族社会だけでなく、図書館の裏側、修道院、学校、孤児、使用人、教師、学生たちなど、知識から遠ざけられてきた人びとの姿も描いていきます。


もし少しでも続きが気になりましたら、ブックマーク、評価、感想で応援いただけますと大変励みになります。


一枚の閲覧票が、次の物語の扉を開きます。

どうぞ引き続き、アイリスたちの歩みを見守っていただければ幸いです。


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