第147話 クララは誰を守るのか
守る、という言葉は、たいてい美しく聞こえる。
だが、本当の守りは、そう綺麗なものではない。
誰かを守ろうとすれば、別の誰かから隠すことになる。
秘密を持つことになる。
言うべきことを言えなくなる。
正しい名を与えたくても与えられなくなる。
時には、守るために相手を少し傷つける。
待たせる。
黙らせる。
誤解させる。
そのみっともなさごと引き受けるのが、守るという行為の実際だ。
だから、クララは誰を守るのかという問いは、
善人か悪人かを測る問いとは、まるで違っていた。
彼女が、ただ教区の命令に従っているだけなら話は簡単だ。
帳簿持ちの修道女。
荷口の門番。
内扉の管理者。
白い倉庫の沈黙を維持する人。
そう整理してしまえば済む。
だが、クララの指は止まった。
紙を見て、止まった。
「先生と書くと、簡単に消されることがある」と言った。
「今は言えません」とも言った。
拒絶より先に、疲れたまばたきがあった。
そういう人間は、たいてい、単純な命令だけではそこに立っていない。
その日、白い倉庫へ向かう道すがら、風は少し乾いていた。
前日より雲が高い。
墓地の白石はよく光り、白い倉庫の壁は、その光を返しすぎて、かえって何も語らない顔をしている。
白い壁というのは不思議なもので、晴れているときほど、よそよそしく見えることがある。
今日はまさに、そういう白だった。
ミナは、胸の前に紙を抱えながら歩いていた。
問いは一枚だけ。
白の子は、誰の名か。
短い。
けれど、紙というものは、短い問いほど逃げにくい。
長い説明は、角を曲がれる。
短い問いは、正面からしか来ない。
だから、今日の紙は、やさしいけれど、甘くはなかった。
「顔、また硬いよ」
横を歩くネアが言った。
「今日は仕方ないでしょう」
とミナ。
「仕方なくても硬い」
「いつもそう言いますね」
「いつも硬いから」
「慰めてください」
「えらい」
「雑」
「本当にえらいと思ってるよ」
ネアは少し笑った。
「でも、そういう時に“大丈夫”って軽く言われると腹立つだろ」
ミナは一瞬、言葉に詰まってから、少しだけ笑った。
「……はい」
「だから言わない」
その言い方が、ありがたかった。
修理室の外では、ネアはますます職人らしい。
雑に聞こえる言葉で、実はかなり丁寧に相手の緊張を扱う。
ミナは、そのことに最近ようやく気づき始めていた。
「でも」
とネア。
「今日はたぶん、答えそのものより、答える前の顔を見る日だよ」
「クララさんの?」
「そう」
「怖いです」
「知ってる」
「そんなに顔に出ます?」
「かなり」
ミナはため息をついた。
「もう嫌です」
「嫌でも、その顔で行きな」
「え?」
「今日は、賢そうな顔より、ちゃんと怖がってる顔の方がいい」
ミナはその意味をすぐには取れなかった。
だが、白い倉庫が見えてくる頃には、少しだけ分かった気がした。
クララの前で必要なのは、完璧な理屈ではない。
怖いものを怖いと知ったまま、それでも問いを持ってくる手だ。
たぶん今日は、その方が届く。
荷口には、クララが一人で立っていた。
灰色の修道衣。
帳簿。
整った襟。
静かな目。
だが、昨日より少しだけ頬がこけて見える。
寝ていないのか。
それとも、ずっと考えていたのか。
あるいは、その両方か。
「今日は問いを持ってきました」
ミナは、前置きせずに言った。
回り道をしても、今日はたぶん長くは持たない。
クララももう、そのくらいの直線を覚悟している顔だった。
「そうでしょうね」
とクララ。
その声は穏やかだ。
だが、穏やかであること自体に疲れが見え始めている。
ネアが軽く頭を下げる。
「表で立たせるほど軽い問いじゃない」
クララは、その言葉にほんの少しだけ眉を動かした。
「自覚はあるんですね」
「あるよ」
とネア。
「だから来た」
その返しに、クララは一瞬だけ口元を動かした。
笑った、というほどではない。
でも、皮肉が届いたことは分かる。
「中で」
と彼女は言った。
荷口の内側へ入る。
湿り気。
紙。
古木。
遠い薬草。
白い倉庫の中は相変わらず、倉庫の顔をしている。
だが、ミナの中ではもう、この空間はただの物置ではない。
荷口は荷口でありながら、同時に選別の前室でもある。
誰をここまで入れ、誰をここで止めるか。
どの本はここで見せ、どの椅子は奥へ隠すか。
そういう判断の匂いが、もうこの空間には染みついて見える。
クララは帳簿を脇の小箱へ置いた。
それが少し意外だった。
つまり今日は、帳簿を盾にするより、手を空けた方がいいと彼女自身が判断したのだ。
ミナは、その小さな変化を見逃さなかった。
「これです」
と彼女は紙を差し出す。
クララは受け取る。
すぐ読む。
その反応の速さは、もう昨日までとは違っていた。
問いを避ける人の手ではなく、問いの重さを先に量ろうとする人の手だ。
白の子は、誰の名ですか。
紙の上の短い一行。
クララの指が、そこで止まる。
完全に止まるわけではない。
爪の先だけが、紙の縁を少し押して、そのまま動かなくなる。
これがいまの彼女の動揺だ、とミナにはもう分かった。
長い沈黙があった。
布の向こうで、小さな頁をめくる音が一度。
誰かの咳が短く一つ。
荷口の外で風が壁をこする音。
その全部が、沈黙の輪郭をはっきりさせる。
「……難しい問いですね」
とクララは言った。
逃げた、とはミナは思わなかった。
むしろ、最初に“難しい”と言ったことで、この人はこの問いをちゃんと受け取ったのだと分かった。
「ええ」
とミナ。
「難しいです」
「どうして、それを聞くんです」
クララは紙から目を上げないまま問う。
「“白の子”って呼ばれている人たちが、
本当にそれで守られていたのか、
それとも、それで削られていたのかを知りたいからです」
ミナは答えた。
「どっちでもあるなら、その混ざり方を」
ネアが横で小さく息を吐く。
言えている。
今日はちゃんと言えている、と、そんな息だった。
クララは、まだ紙を見ている。
「……あなたたちは」
と彼女。
「そういうことを、どうしてそこまで」
そこまで気にするのか、と続けたかったのだろう。
だが最後までは言わなかった。
ミナは少し迷った。
理屈ならいくらでも言える。
記録のため。
前例のため。
失われつつある連続性の保全のため。
どれも本当だ。
でも今日のクララに必要なのは、たぶんそれだけではない。
「子どもたちが、名前を必要としているからです」
と彼女は言った。
クララが、ゆっくり顔を上げる。
「名前」
「ええ。
先生って呼んでいたかもしれない人たちの名前も。
白の子って呼ばれてきた人たちの名前も」
「……」
「それが全部、本名でなくても」
ミナは続ける。
「その人たちが、どう呼ばれて、何を守られて、何を削られてきたかは、知りたい」
クララの目が、ほんの少しだけ揺れた。
その揺れは、怒りではない。
もっと疲れたものだ。
ずっと自分の中だけで抱えていた疑問を、若い他人の口から言い直された時の揺れに近い。
ネアが、そこで静かに付け加える。
「それにね」
クララがそちらを見る。
「“白の子”って、便利すぎるんだよ」
「便利?」
「うん」
ネアは肩をすくめる。
「外の人間にとっても、内側の人間にとっても。
白い壁の向こうから来る女を、ひとまとめにしておける」
クララは何も言わない。
「でも、便利な呼び方ってのは、たいてい誰かを薄くする」
その一言が、クララへまっすぐ届いたようだった。
彼女は、また紙を見下ろす。
今度は読むというより、言葉の上へ身を置くような見方だった。
「……最初は」
とクララが言った。
ミナの胸が強く打つ。
答えが来る。
少なくとも、その入口が。
「最初は、外の人の言葉だったと思います」
「外の?」
とミナ。
「洗い場。
施療院の使い走り。
墓地まわりの女たち。
そういう人たちが、白い壁の向こうから来る若い女を、まとめてそう呼んでいた」
クララの声は低く、淡々としていた。
だが、その淡々の奥に、どこか諦めたような静けさが混じっている。
「じゃあ、最初から当人の名じゃなかった」
とネア。
「ええ」
とクララ。
「少なくとも最初は」
「じゃあ、嫌だった?」
とミナ。
クララは、その問いに少しだけ目を細めた。
そして、ほんの微かに口元を歪める。
「最初は」
と彼女は言う。
「嫌でした」
その一言の率直さに、ミナはむしろ少し驚いた。
「どうして」
「子どもじゃないからです」
クララの返答は短く、少し乾いていた。
「それに、白くもなかった」
ネアが思わず吹き出しそうになるのを、ぎりぎりで飲み込む。
だが口元が緩むのは抑えきれない。
クララがその顔を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「おかしいですか」
「いや」
ネアは喉を整える。
「ちょっと人間っぽくて、ほっとした」
クララは、それにすぐには返さなかった。
だが、怒らなかった。
「白くもなかった」
とミナが繰り返す。
「どういう意味です」
クララは、少しだけ肩を落とす。
「洗い場にも行く。
施療にも回る。
紙も持つ。
油も持つ。
時々、子どもの吐いたものまで拭く。
そんな手や裾が、いつまでも白いはずがないでしょう」
その言い方に、ミナの胸がきゅっと縮む。
そうだ。
白の子という呼び方は、白く塗られた側の名であって、実際に働いている女たちの手や裾の色ではない。
そこには最初から、外から見た表面の白だけが採用されている。
「じゃあ、やっぱり、外がつけた名なんですね」
とミナ。
「ええ」
とクララ。
「でも」
そこで彼女は少し黙った。
布の向こうで、小さな椅子が鳴る。
誰かが体重をかけ直したのだろう。
その小さな音が、なぜかひどく近く聞こえる。
「でも?」
とネアが促す。
クララは紙を持つ手を少しだけ見た。
それから言う。
「……後から、こちらでも使うようになりました」
「どうして」
とミナ。
その問いへの答えは、すぐには来なかった。
だが、彼女の沈黙はもう閉じたものではない。
言葉を選んでいる沈黙だった。
「本名を、そのまま外へ出したくない時があったから」
「守るため」
とミナ。
「ええ」
「じゃあ、やっぱり保護語でもあった」
「そうです」
クララは言う。
「少なくとも、ある時期からは」
ネアが低く言う。
「最初は外がつけた。
でも、途中から内側でも、そのまま使った」
「ええ」
「便利だった?」
クララは少しだけ、苦い顔をした。
「はい」
その“はい”には、ほとんど嫌悪に近いものが混じっていた。
便利であったことを認めなければならない人の、嫌な肯定だ。
「便利って、どういうふうに」
ミナは慎重に聞く。
クララは答える。
「誰のことか、ある程度分かる。
でも、全部は渡さない。
外で呼ばれても、すぐ本名にはつながらない」
「じゃあ」
とネア。
「向こうで勝手につけた布を、こっちでも被るようになったわけだ」
クララは、その比喩に少しだけ目を上げた。
「……ええ」
「嫌だったろうね」
「はい」
今度の“はい”は、少し小さかった。
ミナは、その返事を聞きながら、白の子という呼称の哀しさが、いまようやく形を持った気がした。
勝手につけられた名。
でも、危ない時期にはその名を使うしかない。
使ううちに、それが共同体の中でも通じるようになる。
通じるから便利になる。
便利になるから、ますます本名は遠ざかる。
そうして、守りの布が、だんだん皮膚みたいに扱われ始める。
「……じゃあ」
とミナ。
「その名前で呼ばれるの、いつから平気になったんですか」
クララは、少しだけ目を閉じた。
「平気にはなっていません」
その答えは、ミナにとって予想よりずっと重かった。
「今も?」
「今もです」
「でも使う」
「使います」
「どうして」
クララの視線が、布の向こうへ一瞬だけ流れる。
「そこにいる子たちが」
彼女は、とても静かに言った。
「“先生”より先に、そういう名前で覚える時があるから」
荷口の空気が、また深く静まる。
そうか。
子どもたちは、最初から本名で世界を覚えない。
白い倉。
白い壁。
白の子。
そういう、場所や色や生活の手触りに近い言葉で、人を覚える。
それは未熟さではない。
生活に密着した名づけ方だ。
ならば、白の子という名は、外の縮減語であると同時に、一部では、子どもが世界を掴むための入口の言葉にもなってしまったのだ。
「じゃあ……」
ミナは、自分の声が少し掠れるのを感じた。
「それはもう、完全には捨てられない」
クララは、ほんの僅かに頷いた。
「ええ」
「でも、好きじゃない」
「ええ」
「でも、必要」
「ええ」
短い応答。
でも、その三つの“ええ”のあいだに、何年分か分からないくらいの疲れと諦めと、それでも残すしかない現実が折り重なっているのが分かる。
ネアが、そこで初めて少し柔らかい声を出した。
「クララ」
呼び捨てだった。
でも無礼ではなかった。
職人が、相手を一人の働く女として呼ぶ時の声だった。
クララがそちらを見る。
「その呼び名、誰かが先に着せた布だとしても、
あんたたちが使い続けたなら、もう半分はあんたたちのものだよ」
クララは、すぐには答えなかった。
ネアは続ける。
「ただし、半分だけだ」
「半分」
「うん。
全部はだめだ。
全部になったら、本名も仕事の重さも消える」
クララの口元が、少しだけ揺れた。
笑うのではない。
でも、その言葉があまりに正確で、否定のしようがない時の揺れだった。
「……あなた、時々、嫌なくらい正確ですね」
とクララ。
ネアはすぐ返す。
「時々?」
それには、ついにクララが笑った。
本当に小さな笑いだった。
けれど、その小ささで充分だった。
白い倉庫の荷口の内側で、その笑いはほとんど扉一枚分の開きに等しい。
ミナは、その隙間へ、もう一つだけ問いを差し入れる。
「じゃあ」
クララの目が戻る。
「いま、白の子って呼ばれている人たちは、自分でその呼び名を受け入れてますか」
それは、今日の中心だった。
外がつけた呼び名。
内が使うようになった呼び名。
でも、当人はそれをどう思っているのか。
クララは、その問いに長く黙った。
帳簿は、今日は持っていない。
だから、指の逃げ場がない。
彼女の手は、紙の上にも、荷口の縁にもなく、ただ衣の脇に静かに下りている。
そのせいで、沈黙が余計に生身に見えた。
「……人によります」
やがて彼女は言った。
「嫌がる人もいる。
それで助かったと思う人もいる。
どちらとも言えなくなった人もいる」
「あなたは」
とミナは聞いた。
クララは、一瞬だけ苦く笑った。
「私は、たぶん、三つ目」
どちらとも言えなくなった人。
その答えに、ミナの胸は静かに痛んだ。
名前とは、本来もっと嬉しいものであってほしい。
自分が呼ばれ、自分が返事をし、自分がそこにいると確かめられるもの。
でも白い倉庫のまわりでは、呼び名がいつも少し防具に近い。
守るけれど、重い。
要るけれど、ずっと着ていたくはない。
「……ありがとう」
とミナは言った。
クララが少し驚いた顔をする。
「何が」
「答えてくれて」
クララは、少しだけ目を伏せた。
「全部じゃありません」
「ええ」
とミナ。
「でも、今日の分は十分です」
その言い方を、自分でも少しだけ大人びていると思った。
けれど、たぶん必要な言い方だった。
布の向こうで、今度は子どもの笑い声が一瞬だけした。
短い。
すぐに止む。
でもたしかに、笑いだった。
クララは、その方を見ずに言う。
「……子どもは、残酷です」
「え?」
とミナ。
「呼びやすい名前をすぐ採用する」
その言い方に、ネアが吹き出す。
「それ、残酷かな」
「残酷です」
クララは少しだけむっとした顔をする。
「こちらが悩んでいることを、あっさり越えていく」
「それはまあ、そうだね」
とネア。
「でも、救いでもあるだろ」
クララは、返事の代わりに小さくため息をついた。
それは否定ではなかった。
外へ出る時、ミナは振り返らなかった。
今日はもう十分だと分かっていた。
問いは届いた。
答えも一部は来た。
それ以上を欲張れば、また内扉が閉じる。
そういう日だ。
角を二つ曲がり、ロイドたちと合流すると、ハルが真っ先に聞いた。
「どうだった」
ミナは、少しだけ笑った。
「半分」
「また半分」
とハル。
「最近そればっかじゃん」
ネアが横で言う。
「世の中、たいていそうだよ」
ハルは不満そうな顔をしたが、前ほどは噛みつかない。
「で、何が半分」
ミナは答える。
「“白の子”は、最初は外の人がつけた名前」
「うん」
「でも、あとで内側でも使うようになった」
ハルの顔が少し曇る。
「じゃあ、やっぱり消されたってこと?」
「半分は」
とネア。
「半分は守った」
ハルは黙る。
簡単には納得できない顔だ。
だが、完全に拒む顔でもない。
ノアが、ぽつりと言う。
「布」
皆がそちらを見る。
「白の子、布みたい」
「うん」
とミナ。
「ほんとにそう」
「でも、ぬぐいたい時もある」
ノアは言う。
「ええ」
とミナ。
「そう」
ロイドが、低く息を吐いた。
「ややこしいな」
ミナは、少し笑った。
「ややこしいです」
ヴァーレンがここにいたら、たぶん「適切な表現です」とでも言っただろう。
そう思ったのか、皆が少しだけ同時に笑った。
修理室へ戻ると、アイリスたちはもう待っていた。
ミナは報告を一つずつ置いていく。
最初は外の人の呼称。
後から内でも採用。
最初は嫌だった。
今も平気ではない。
でも、子どもがその名で先に覚えることがある。
人によって受け止め方が違う。
クララ自身は、どちらとも言えなくなった側。
報告が終わる頃には、修理室の空気はまた少し変わっていた。
「……なるほどね」
とリルが言う。
「“白の子”は、誰か一人の名じゃなく、
誰か一人にだけ押しつけられた名でもなく、
外と内のあいだで擦れてできた布だったのね」
アイリスは静かに頷く。
「ええ」
「そして、着せられた布を、やがて自分でも使わざるを得なくなる」
「ええ」
「つらいわね」
その言葉には、王族としての感覚も混じっていた。
与えられた名を着ることの重さ。
それが守りであり、同時に枷でもあること。
リルにもきっと、別の形で身に覚えがあるのだろう。
ヴァーレンは、報告を聞くやいなや、新しい見出しを書いた。
“白の子”呼称成立過程仮説
外部便宜的命名 → 内部保護的採用 → 半固定化 → 当事者受容・非受容分岐
ネアが覗き込む。
「ほんとに止まらないね」
「必要です」
「最近はもう、それを聞くと安心するようになってきた」
「適切な傾向です」
「ほら、やっぱり面白い」
それには、今度はアイリスまで少し笑った。
笑いながら、ハルはまだ考えていた。
母の先生。
白の子。
先生と書けない理由。
自分で受け入れたかもしれない呼び名。
全部が簡単ではない。
でも、一つだけ前よりはっきりしたことがある。
「ねえ」
と彼。
「何?」
とアイリス。
「白の子って、雑に呼んでるだけじゃなかったんだね」
アイリスは、少しだけ目を細めた。
「ええ」
「でも、雑でもあった」
「ええ」
「……ほんとにややこしい」
その結論があまりにも真っ当で、修理室の大人たちは少しだけ笑った。
ノアが、その横で小さく言う。
「ややこしいけど、名前」
「うん」
とハル。
「名前」
二人のその確認は、子どもらしいようでいて、とても大事だった。
白の子は、たしかに削る名でもある。
でも、だからといって完全に捨てれば、その時代を生き延びた呼び名そのものが消えてしまう。
ならば必要なのは、切り捨てではなく、由来と痛みごと記録することだ。
アイリスは、自分の紙へ一行を書き足した。
注:“白の子”は、単なる蔑称でも単なる愛称でもなく、外部命名と内部採用が絡み合った危険環境下の複合呼称である。
書き終えると、彼女は少しだけペンを止めた。
ここまで来てようやく、白い倉庫編は“物”だけでなく“名”の層にも足場を作り始めている。
椅子。
余白。
帳簿。
夜灯。
そして呼び名。
それら全部が、誰かの生き方の周囲へ重なっていく。
「次は」
とロイドが言う。
「次は、誰を守ってるかだな」
その一言に、修理室の空気がまた引き締まる。
そうだ。
白の子という名の由来が少し見えた今、次に問うべきは、クララが実際に守っている相手だ。
教区の秩序か。
白の子たちか。
子どもたちか。
ミラ先生の残り火か。
あるいは、その全部か。
アイリスは静かに頷いた。
「ええ」
そして、白い倉庫編は次に、
クララは誰を守るのか
という問いへ、さらに深く降りていくのだった。




