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赤い閲覧票-『侯爵家次女は書誌魔法で知の帝国を運用する』  作者: アイリス独孤求敗(ビンちゃん特殊司書)


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第149話 失いたくないもの

 人は、守っているものを訊かれると、少し身構える。


 守る、という言葉には、どこか立派さがあるからだ。

 何かを選び、何かの前へ立ち、風よけになり、矢を受ける者の言葉に聞こえる。

 だから、守っているものを問われると、人はつい、自分を少しだけよく見せる答えを探してしまう。


 けれど、失いたくないものを問われた時、人はもう少し裸になる。


 格好はつかない。

 みっともない。

 それでも、眠れない夜に本当に胸の中へ残るものだけが、その問いには浮かぶ。


 壊れた椅子。

 消えそうな灯り。

 名前のない女の肩書。

 余白に書かれた子どもの名。

 帳簿の端でどうにかつないでいる明日。


 そういうものだ。


 だから、その問いは優しいようで、実は逃げにくい。

 守っているものではなく、失いたくないもの。

 それは、その人の痛みの順番を問うからだ。


 その日、白い倉庫へ向かう道は、妙に明るかった。


 空は高く、風は昨日より乾き、白い壁の石灰は陽を返して少し痛いほどだった。

 墓地の白石まで同じように光っているから、目を細めずに歩くと、遠近感の方がぼやけてしまう。

 こんなに明るいのに、行こうとしている先の話は暗い。

 そういう日の朝は、現実の方が少し皮肉に見える。


 ミナは、胸の前に紙を抱えたまま歩いていた。


 紙は一枚。

 問いも一つ。


 あなたが先に失いたくないのは、何ですか。


 これまで持って行った紙の中で、一番短く、一番柔らかく見えて、たぶん一番深く入る問いだった。


「今日は、怖い顔じゃないね」


 ネアが横から言った。


「本当ですか」


「うん」


「じゃあ大丈夫ですか」


「いや」


 ネアは即答した。


「怖い顔じゃないだけで、かなり怖い」


 ミナは少しだけむっとする。


「どういう意味です」


「決めた顔してる」


「それは悪いことですか」


「悪くない」


 ネアは肩をすくめた。


「でも、決めた顔の人間が持ってる紙って、だいたい重い」


 ミナは、その言い方に少しだけ笑ってしまった。


「紙がかわいそう」


「紙はだいたい人間の都合で重くされるもんだよ」


「それ、マルタさんみたい」


「うつったんだろうね」


 ネアのその返しに、ミナはまた少しだけ笑う。


 最近、こういう短い笑いが役に立つのを知った。

 笑ったからといって緊張が消えるわけではない。

 でも、緊張の形が少し変わる。

 息が入る。

 目の焦点が少し戻る。

 その程度で充分なのだ。


「でも」


 とネア。


「今日は、答えを急がせるなよ」


「はい」


「沈黙が長くても、先に埋めるな」


「はい」


「それから」


「まだあります?」


「ある」


 ネアは真顔だった。


「クララが“分からない”って言ったら、それも答えだからね」


 ミナは、その言葉を胸の中で反復した。


 分からない。

 それも答え。


 境界の人間は、時に本当に分からなくなるのだ。

 何を守っているのか。

 誰を先に切らないようにしているのか。

 日ごとに順番が変わり続ける場所では、それを言葉にした瞬間に何かが嘘になる。

 だから、分からないという答えもありうる。


 白い倉庫の荷口に着くと、クララはもう立っていた。


 今日は帳簿を持っていない。

 それだけで、ミナの胸が少し鳴る。


 帳簿は盾でもあり、役目の印でもある。

 それを持たずに荷口へ立つということは、少なくとも今日は「数と規則の側」より、「言葉の側」へ少しだけ寄っているということかもしれない。


 ただ、その分だけ無防備にも見えた。


「今日も紙ですか」


 クララの声は、穏やかだった。

 だが昨日より少しだけ疲れている。

 あるいは、昨日の問いがまだ解けきっていないのかもしれない。


「はい」


 とミナ。


「今日は一枚です」


「一枚」


 クララはその紙を見る。


「短いです」


「ええ」


「短い紙ほど、怖いことが多い」


 ネアが思わず口元を緩める。


「分かるじゃないか」


 クララは少しだけ目を細めた。


「分からなければ、ここには立っていません」


 その返しに、ミナはこの人が思っていたよりずっと冗談の気配を持っているのだと気づく。

 ただ、その冗談が表へ出るまでに、かなり深い水を潜らなければならないだけなのだ。


「中で」


 とクララ。


 それはもう、半ば習慣になりつつあった。

 この荷口の外では重すぎる問いは、中へ入れる。

 でも、内扉の向こうまでは入れない。

 その境界の上に、三人は今日も立つ。


 荷口の内側は、昨日までと少しだけ違った。


 低い机の位置が半歩分だけ動いている。

 椅子は二脚ではなく、一脚だけ見える。

 もう一脚は、たぶん内扉の向こうへ寄せたのだろう。

 布の垂れは少しだけ引かれ、光の入り方が変わっている。


 こういうわずかな変化を見てしまうようになった自分に、ミナは時々少し驚く。

 以前なら、ただ薄暗いとしか思わなかったはずだ。


「これです」


 ミナは紙を差し出した。


 クララは受け取る。

 見る。

 読む。


 あなたが先に失いたくないのは、何ですか。


 そこで、指が止まる。


 昨日までと同じようで、少し違う止まり方だった。

 紙の端を押さえていた指が、“先に”のところでわずかに力を増し、そのあと“失いたくない”のところで、すうっと抜ける。

 まるで、言葉の順番に沿って、彼女の中でも何かの順番が動いたみたいだった。


 長い沈黙が落ちる。


 ミナは待つ。

 ネアも待つ。

 今日は、誰もその沈黙を助けようとしない。

 助けるふりをして、実は相手から答えを奪ってしまうこともある。

 そのことを、二人とももう知り始めている。


 布の向こうで、かすかな紙の擦れる音。

 子どもの低い咳。

 誰かが「ゆっくり」と言う声。

 白い倉庫の呼吸のような音が、沈黙の輪郭を支えていた。


 やがてクララが、紙から目を上げずに言う。


「……毎日、違います」


 その答えに、ミナは少しだけ息をついた。

 分からない、ではない。

 毎日違う。

 それは、答えを拒んでいるのではなく、正直に答えようとした結果の複雑さだ。


「違うんですね」


 とミナ。


「ええ」


「でも、今日は?」


 クララは、そこで初めて少し苦い顔をした。


「容赦がないですね」


 ネアが横で言う。


「今日の紙はそういう紙だよ」


 クララは小さくため息をついた。

 そのため息には、責める色はなかった。

 むしろ、「分かっていて来たのね」という諦めに近い。


「今日は……」


 と彼女は言う。


 そこで言葉が切れる。

 その切れ方は、本当に今そこへ手を伸ばしている人の切れ方だった。


「今日は?」


 とミナは、なるべく押しすぎない声で促す。


 クララは、ようやく目を上げた。


「……灯りです」


 その一言は、思っていたよりずっと静かで、思っていたよりずっと痛かった。


 ミナはすぐには意味を取れなかった。

 だがネアは、すぐに分かった顔をした。


「夜灯」


 クララは頷く。


「はい」


「どうして」


 とミナ。


 クララは、紙を見たまま言った。


「灯りが消えると、その日は終わるからです」


 その言葉は、ミナの脳裏に、ハルが言った

 “消えたら、おしまいみたいだった”

 という声をまっすぐ呼び戻した。


「油が足りない日がある」


 とクララ。


「芯が足りない日もある。

 祈祷の灯りを早く落として、こちらへ回す日もある。

 雨で湿って、つきにくい日もある。

 そういう日に、私はまず灯りを失いたくないと思います」


 その言い方は、あまりに具体で、あまりに現場だった。


 理念ではない。

 子どもか制度か、という大きな二択でもない。

 まず、灯り。

 灯りがなければ、文字が見えない。

 余白も追えない。

 順番も取れない。

 内扉の向こうの場そのものが、その夜は成立しない。


「……でも」


 とミナ。


「灯りは、子どもを守るためのものですよね」


「ええ」


 クララは頷く。


「でも、子どもそのものじゃない」


「ええ」


「それでも、先に?」


 クララは、そこで少しだけ笑った。

 笑ったというより、自分の答えの惨めさを先に引き受けるような笑いだった。


「そういう日があるんです」


 と彼女。


「子どもを守りたいと思う気持ちより先に、灯りを消すな、と思ってしまう日が」


 ミナは、その正直さに胸が詰まる。


 それは高潔ではない。

 けれど、だからこそ本当なのだと思った。

 守る対象をいつも抽象的な「人」として言えるほど、現場はきれいではない。

 まず灯り。

 まず椅子。

 まず紙。

 まず咳のない子を静かに座らせる順番。

 その具体の積み重ねでしか、人は守られない。


「じゃあ次は?」


 とネアが低く言う。


 クララは少しだけ目を閉じた。


「次?」


「灯りの次に、失いたくないもの」


 クララは、長く息を吐いた。


「……椅子」


 その答えに、ミナはまた少し驚く。


「二番の?」


 とネア。


「ええ」


「どうして」


 クララは、今度はすぐに答えた。


「床に座らせると、読めないから」


 それは、あまりに単純で、あまりに残酷な現実だった。


 床では近すぎる。

 姿勢が崩れる。

 紙が置けない。

 筆の角度が取れない。

 咳のある子は余計につらい。

 だから椅子。

 たかが椅子。

 でも、椅子がないと、その夜の学びの質がすぐ落ちる。


「二番、直したいですか」


 とミナ。


 クララの指が、衣の脇で少しだけ動く。


「直したいです」


「じゃあ、どうして出さないんです」


 その問いは、静かだった。

 でも深く刺さったはずだ。


 クララは、少しのあいだ黙る。

 やがて言う。


「出すと、向こうに響くから」


「向こう」


「内扉の向こう」


 ネアが小さく頷く。


「やっぱりね」


「椅子を出して直す間、そこを止めなければいけない。

 止めると、その日の分がなくなる」


 クララは言った。


「だから、後回しにしてきました」


 その声には、自分への怒りが混じっていた。

 直したい。

 でも今日もできなかった。

 そういう積み重ねの疲れ。


 ミナは、その疲れを見ながら、問いの重さが少し変わるのを感じた。


 クララは、まず灯りを失いたくない。

 次に椅子を失いたくない。

 それは物への執着ではない。

 その向こうにいる子どもたちの学びの最低条件だからだ。


「じゃあ、白の子たちは?」


 とネア。


「その次ですか」


 クララは、少しだけ顔を上げた。

 その目の奥に、初めてはっきりとした痛みが見えた。


「……その日によります」


「今日は?」


 ネアは容赦しない。

 だが、それは冷たさではなく、職人の精度だ。

 ここで曖昧にしてしまえば、また全部が霧になる。


 クララは、ゆっくり言った。


「今日は、ミナです」


 ミナが息を止める。


「え?」


「あなたのような子が、紙を持って外へ立てること」


 クララは言う。


「それを失いたくない」


 荷口の空気が静まる。


 それは予想外だった。

 ミナは、答えを受け取る側でいるつもりだった。

 まさか自分の名が、ここで返ってくるとは思っていない。


「どういう意味ですか」


 と彼女。


 声が少しだけ掠れた。


 クララは、紙を見たまま答える。


「白の子たちは、いま、名前を与えられにくい。

 先生とも書かれにくい。

 修道女でもない。

 帳簿にも端でしか入らない」


「……」


「でも、あなたはまだ、外で本名を持って立てる」


 ミナは、喉の奥が熱くなるのを感じた。


「それが、失われる方へ寄ってほしくない」


 その一言は、ミナの胸へまっすぐ入った。


 そうか。


 クララは、いまここにいる若い補助司書の中に、

 まだ名前と仕事が分離しきらずに立てる人

 を見ているのだ。

 それは希望でもあり、痛みでもある。

 自分たちにはもう与えられにくいものを、この子はまだ持っている。

 だから、それを失うなと言っている。


 ネアが、静かに言う。


「優しいね」


 クララは首を振る。


「違います」


「どう違う」


「たぶん、羨ましいんです」


 その率直さに、ミナは返す言葉を失う。


 羨ましい。


 クララがそんな言葉を口にするとは思っていなかった。

 帳簿を持つ修道女。

 荷口に立つ人。

 境界を管理する人。

 その人の口から出る“羨ましい”は、思っていたよりずっと生身だった。


「……ずるいですね」


 とミナは、思わず言っていた。


 クララが目を上げる。


「何が」


「そういうこと、今さら言うの」


 一瞬、静寂。

 次に、ネアが吹き出す。


「言ったねえ」


 ミナは、自分でも顔が熱くなるのを感じた。


「す、すみません」


「いや」


 とネア。


「いい」


 クララは、少しだけ驚いた顔をしていた。

 それから、ほんの少しだけ笑った。


「そうですね」


 と彼女。


「ずるいかもしれません」


 その笑いは短かった。

 でも、その短さで充分だった。


 ミナは胸の奥がぎゅっとしたまま、少しだけ息を吐く。


 クララを責めたいわけではない。

 でも、いまの言葉は、確かに少しずるかった。

 自分たちが名前を持てなかった痛みを、まだ持てている若い子へ、守ってほしい希望として手渡す。

 それはきれいな継承ではない。

 でも、たぶん現実の継承というのは、だいたいこういう歪さを含むのだろう。


「……じゃあ」


 とミナ。


「灯り、椅子、その次に、私みたいな子」


 クララは小さく首を振る。


「順番はきれいじゃありません」


「え?」


「灯りを守るのは、子どものためです。

 椅子を直したいのも、同じです。

 あなたの名前を羨ましいと思うのは、白の子たちのためでもある」


 クララは言う。


「全部、混ざっています」


 その言い方に、ネアが小さく息を吐く。


「だろうね」


「だから、順番を訊かれると困るんです」


 クララは、少し疲れたように笑った。


「でも、失いたくないものを訊かれると、もっと困る」


「どうして」


 とミナ。


「本当のことが出るから」


 その答えは、痛いほど正しかった。


 守るものなら、立派に並べられる。

 子どもたち。

 学び。

 救済。

 信仰。

 でも、失いたくないものと問われれば、

 灯り。

 椅子。

 名前を持って立てる若い子。

 そういう、生々しく、少しみっともなく、でも本当のものが出る。


「……ありがとう」


 とミナは言った。


「何が」


「本当の方を言ってくれて」


 クララは、しばらく彼女を見ていた。

 やがて、ほんの僅かに頷く。


 布の向こうで、小さな声がする。


「できた」


 その声に、クララの顔が、驚くほど柔らかく動いた。


 ほんの一瞬だけ。

 だが、そこには荷口番でも帳簿持ちでもない、別の顔があった。

 安心。

 ほっとした軽さ。

 その小さな声が、彼女の中で何より大きく響くものなのだと分かる顔。


 ネアが、それを見て静かに言った。


「やっぱり、一番はそこだね」


 クララは、反論しなかった。


 外へ出る時、ミナは今日の答えを胸の中で整理していた。


 灯り。

 椅子。

 子どもの「できた」。

 白の子たち。

 名前を持って立てる若い子。

 そして、全部をきれいに分けられない現場。


 クララは、誰か一人だけを守っているわけではない。

 守ろうとしているものが多すぎて、そのせいで時々、何を先に失いたくないのか、自分でも言葉が遅れる。

 でも、それでも、灯りと椅子と「できた」を先に出した。

 それは、彼女が本当に毎晩見ている順番なのだろう。


 角を二つ曲がり、ロイドたちの待つ場所へ戻ると、ハルがすぐ聞いた。


「どうだった」


 ミナは、少しだけ笑った。


「きれいじゃなかった」


「え?」


「順番」


 ハルは首をかしげる。


「子どもじゃなかったの?」


「子どもも、だった」


「じゃあ何」


「灯り」


 ハルの顔が、はっと変わる。


「……やっぱり」


 ノアが小さく言う。


「夜の」


「うん」


 ミナは頷く。


「灯りが消えると、その日は終わるから」


 ノアは、静かに目を伏せた。

 その言葉は、彼女にはたぶん、誰より深く分かるのだろう。


 修理室へ戻って報告すると、アイリスは長く黙っていた。


 灯りを先に失いたくない。

 椅子を直したい。

 名前を持って立てる若い子を羨ましく思う。

 その全部が、クララの守りの現実だった。


「……みっともなくて、だから本当ね」


 とリルが、静かに言う。


「ええ」


 とアイリス。


「本当にそう」


 ネアが椅子へどさりと座る。


「結局、きれいな順番なんかないってことだ」


「ええ」


 とアイリス。


「でも、それでいい」


「いいの?」


 とハル。


「いい」


 アイリスは言う。


「最初からきれいな答えが出たら、たぶん嘘よ」


 ハルは少し考えてから、ゆっくり頷いた。


 ヴァーレンは、すでに新しい見出しを書いている。


 優先喪失忌避対象実地聴取結果

 灯り/椅子/“できた”の声/名を持って立てる若年書字者


「長いですね」


 とミナ。


「必要です」


「もう言うと思ってました」


「期待に応えました」


 それには、修理室の皆が少し笑った。


 アイリスは、その紙を見ながら思う。


 白い倉庫編は、ここでまた少し、人間の方へ寄った。

 制度や運用だけではない。

 帳簿の辻褄だけでもない。

 毎晩、何を先に失いたくないと思いながら、灯りを守り、椅子を後回しにし、子どもの「できた」の一声に顔をほどく人間の話になってきた。


 そして、その話はたぶん、最終的にこの国がどんな制度を持つべきかという問いへ、もうかなり近づいているのだった。

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