9話 執愛のガスパール
夏前、わたくしはノワイエ侯爵夫人となった。
引っ越しても、暮らしは王宮にいた時と大して変わらない。
むしろ、お母様もお姉様もいないぶん気楽なくらいだ。
「王宮では我慢なさっていたことも、ここでは好きになさって良いのですよ」
そうルシアンは言うけれど、何をする気にもなれなかった。
豪華な部屋も美しい宝石も、すべてを知った今では灰色に見える。
結婚して一月ほど経った頃、わたくしは式典で歌を披露するため、王宮を訪れた。
ルシアンは、勉強は取り上げても、音楽や踊りは取り上げなかった。
むしろ奨励していたおかげで、今では本職に勝るほどの腕前だ。式典や音楽会には、よく呼ばれる。
催しが終わった後、わたくしは王宮を散策した。
侍女のことは途中で撒いてやった。
あの者たちが皆、ルシアンの手先だと思うと、癪に障ったのだ。
一人になって、かつての自室を訪れる。
あの日の惨劇を思い起こさせるものは、きれいさっぱり消えていた。
壁も、床も、何もかも元通り。
当然、マルグリッドの死体もない。何もない。
存在そのものが消されたようで、胸がきゅう、と痛んだ。
侍女が一人死んだところで、わたくし一人いなくなったところで、王宮の日常は平然と過ぎていく。
逃げるように部屋を出て、庭を歩き回った。
奥まった場所にある池のほとりへ座りこむ。
「……」
このまま、ずっとここにいたかった。
屋敷に戻りたくない。
ルシアンと距離を取らなければならない。
そうしないと、わたくしはまた駄目になる。
何も考えず、何も知らず、彼の与える籠の中で飼われて終わる。
――でも、どこに?
かさ、と下草を踏む音がした。
振り向くと、見知った顔があった。
肌が青白く、黒っぽい服を着た、線の細い青年。
お姉様の婚約者のガスパールだ。
嫌いな男の一人だ。
こいつはロラン同様、骨の髄までお姉様の味方だ。
お姉様が式典で小さな失敗をした時も「あの性悪な妹のすることに比べたら、君の失敗なんてかわいいものだよ」などと慰めていた。
見たくないものを見つけてしまって、わたくしはぷいと顔を背けた。
そのまま立ち去るものと思ったのに、意外なことにガスパールはこちらへ寄ってきた。
「どうしたんだ、こんなところで」
青灰色の目が、心配そうにのぞき込んでくる。
あら。意外と優しいじゃない。
黒い前髪は目にかかるほど長くて陰気だけれど、よく見ると整った顔立ちをしているわね。
「誰かに何か言われたのか? アレクシア」
上がりかけた評価が、一瞬で地に落ちた。
こいつ……わたくしをお姉様と間違えているのね。
まあ、仕方ないのかもしれない。
今はルシアンも侍女も連れていないし、服装も地味だ。
こんなふうに弱っている顔は、お姉様に似て見えるのだろう。
「言ってみろ。相手が誰でも、僕が黙らせてやる。君を泣かせるものは、全部」
真剣そのものの顔で、そんなことを言う。
いたずら心がむくりと首をもたげた。
わたくしはお姉様のように、しおらしくまぶたを伏せる。
「別になんでもないのよ、ガスパール」
「何でもないわけがないだろう。そんな顔をして」
肩を抱かれる。
わたくしはそっと、相手を上目遣いで見上げた。
「……一つ、お願いがあるの」
「珍しいな。君がお願いなんて」
しまった、と思った。
お姉様は、わたくしのように人へ甘えたりしない。
けれど、心配はいらなかった。
ガスパールはむしろ嬉しそうに顔を輝かせた。
「なんでも言ってくれ。君のためなら、僕は何だってできる」
ふふ、よかった。疑っていないわね。
むしろ、たまのことだから歓迎している。
「あなたの家に行っても……いい?」
ちょい、と袖を引く。
「今日はもう、何もしたくなくて……」
うなだれると、ガスパールの喉がごくりと鳴った気がした。
「こんなこと……本当はいけないと分かっているのだけど……辛くて。少し、ここから離れたいの」
「分かるよ、アレクシア。君は頑張りすぎなんだ。今日は何もしなくていい」
ガスパールは嬉々として、わたくしの手を取った。
自分の馬車にのせ、自分の屋敷へと連れて行ってくれる。
よしよし。ちょうどよく家出できたわ。
「君が来てくれるなんて、嬉しいよ」
さすがは公爵だった。
ノワイエ侯爵邸に劣らない立派な屋敷だ。
都の一等地にあるにもかかわらず庭は広々として、内部にはどこもかしこも凝った装飾が施されていた。
「入って。いつ君が来てもいいように、準備してあったんだ」
案内された部屋を見て、目を丸くした。
青を基調にした、堅苦しく整った部屋。
一瞬、お姉様の部屋かと思った。
「君が気楽に過ごせるようにと思って」
「え……ええ、ありがとう。ガスパール」
わたくしはチェストの飾りをなぞった。
装飾までも、お姉様の部屋にあったものとそっくり。
何かしら。ちょっと怖いわ。
「さあ、お茶をどうぞ。これ、君が好きなものだったよね」
「ありがとう。覚えていてくれたのね」
優雅にお茶を飲みながらも、頭の中は忙しい。
この嘘は、いずれ露見する。そしたら追い出される。
それまでに、どうにかこの男の弱みをつかまないと。
「――ね。あなたの部屋にも、行ってみていい?」
「ぼ、僕の部屋?」
ガスパールは紅茶をこぼすほど動揺した。
「だめ……?」
「い、いや、いいよ。全然いいよ。君が僕に興味を持ってくれて、嬉しい」
顔を真っ赤にしてハンカチを取り出す。
単純で助かるわ。
こいつの部屋に行って、うまいこと何か弱みがつかめるといいんだけど。
「何か落ちたわよ?」
ガスパールがハンカチを出した拍子に、薄い紙が一枚、床に落ちた。
「あっ、それは!」
慌てて拾おうとするガスパール。
その前に、わたくしが拾い上げた。
「なあに、これ」
紙を見て、眉根が寄った。
女が化粧に使う、余分な紅を押さえるための薄紙だ。
そこに、唇の痕が淡い紅色で残されている。
「これ――」
なんで男がこんなものを?
「誤解だ!」
ガスパールが血相を変えた。
「それは君の使ったものだ。断じて、君以外の女のものじゃない!」
「……は?」
「前に君が茶会で使って捨てたものを、たまたま拾って……。
いや、捨てられていたから保管していただけで、決して怪しい意味では――
いや、怪しいくはあるけど、やましいことではなくて……!」
頬が引きつる。
「僕が愛しているのは、君一人だ、アレクシア!」
「気持ち悪っっっ」
思わず叫んだ。
「婚約者のゴミを持ち歩く男がどこにいるのよ! しかもそれを肌身離さず!? やましすぎるでしょ!」
ガスパールはぽかんとしていた。
けれど、すぐにはっと目を見開く。
「おまえ……エリザだな!?」
しまった。
あまりの気持ち悪さに、つい素が出てしまったわ。
「騙しやがって、この性悪女!」
腕をつかまれた。
「出て行け! アレクシアのための空間を汚すな!」
「ちょ――っ、乱暴はやめてよ!」
部屋の外へ引きずり出されそうになり、必死に抵抗する。
ここで追い出されては困るわ。
「この疫病神! おまえのせいで僕は悲しませたくもないのに、アレクシアを悲しませることになったんだぞ!」
「はあ!?」
なんのこと、といいかけて、思い出した。
そういえば、昔。小さい頃に、こいつと一緒に遊んだことがあった。
イタズラをしようって誘って、その途中で、思わぬ失敗をした。
「――思い出したわ」
にい、と口角が上がる。
何て運がいいの、わたくし。
すでに切り札を持っていたなんて。
「そうよねえ。わたくしたち、共犯だったわよねえ。お姉様の大事なオルゴールを壊した」
「そうだぞ。おまえがアレクシアの部屋を、内緒で飾り付けようなんて言わなければ――」
「追い出したら、そのことバラすわよ」
目に見えて、ガスパールが怯んだ。
腕をつかむ力が弱まる。
「お姉様、とーっても悲しんでいたわ。
毎晩、寝る前には必ず聞くほど大事にしていたオルゴールだもの。当然よね。
対だったわたくしのオルゴールを差し上げたくらい」
「う……」
「お姉様に嫌われたくないわよねえ?」
「……っ」
ぎり、と奥歯を噛む音がした。
ガスパールが悔しげに手を離す。
わたくしはにっこり微笑んだ。
「しばらくお世話になりますわ、未来のお義兄様」
「クソ女!」
よし。居候先が手に入った。
わるいことは、しておくものね。




