8話 あなたのために/貴女のために
誕生日以来、わたくしの生活は変わった。
城内でお姉様に会えば、礼節を保って接する。横暴な振る舞いはしない。
簡単ではないけれど、そばにマルグリッドがいてくれるのはありがたかった。行き過ぎれば、きちんとたしなめてくれるからだ。
「エリザ、これ」
ある日、お姉様がおずおずと籠を差し出してきた。
「お土産でいただいて……おいしかったから、あなたにもと思って」
中身は菓子だった。
わたくしは黙って受け取る。
バカ犬は、今日は静かだ。余計な口を挟むこともなく、お姉様の後ろに控えている。
「……ありがとう」
つぶやくように言うと、お姉様はぱっと顔を明るくした。
それから、嬉しそうに声を弾ませる。
「もう結婚式ね。いつ引っ越してしまうの?」
「……さあ」
「さあ、って。あと三日でしょう?」
「……」
答えずにいると、わたくしと同じ色の瞳が、心配そうにこちらをのぞき込んできた。
「……ねえ、エリザ。何かあったの?」
「何かって、何よ」
「ノワイエ侯と……。赤いドレスを渡しに来た時、彼のこと、乱暴な呼び方をしていたでしょう?」
そういえば「あいつ」呼ばわりした気がする。
よく覚えているわね。
「喧嘩でもしたの?」
「……別に。何もないわよ」
わたくしは踵を返した。
言いたくない。
おまえのせいで、こんな目に遭っているなんて。
そんなことを口にするのは、あまりに惨めだった。
「……マルグリッド、戻ったらお茶を入れて」
「はい。このお菓子に合うものを」
部屋へ戻る。
扉を開けた瞬間、わたくしは面食らった。
「なに、これは」
部屋が、空になっていた。
使い慣れた文机も、特注の鏡台も、お気に入りの絵もない。
何もない壁と広くなった床が、陽光に白々と光っている。
「お帰りなさいませ、エリザ様」
がらんとした部屋で待っていたのは、ルシアンだった。
「どちらへ行かれていたのですか?」
「その前に、これは何!?」
歩み寄り、怒鳴りつける。
「わたくしの部屋を、どうしてくれているのよ!?」
「お引っ越しです」
「勝手に決めないで! わたくしにだって予定があるのよ!」
ルシアンには内緒で、リゼットを招いていたのだ。
明日、会うはずだったのに。
「――ご心配なく。エリザ様のご予定は、ちゃんと心得ておりますよ。すべて」
すべて。
その言い方に、背筋がひやりとした。
「リゼット嬢には、きちんとお断りを入れておきました。ご安心ください」
芯から身体が冷えた。
ルシアン。この男は。
どうして、そこまで。
「……どうして、わたくしからそうやって奪うのよ!?」
「奪ってなど。すべて貴女をお守りするためです、エリザ様」
わたくしが睨んでも、ルシアンは一向に動じなかった。
ただ、いつものように優しく微笑んでいる。
「貴女は人を惹きつけてしまうお方だから。良いものも、悪いものも」
すっと、紫色の目がマルグリッドを捕らえた。
「今日までご苦労様でした。次の配属先は、女官長に聞きなさい」
「ダメよ、ルシアン。あれはわたくしのよ。連れて行くの」
「役立たずと仰っていたでしょう?」
ルシアンはわたくしの胴に腕を回した。
「それに、彼女は危険です」
「どこがよ。マルグリッドは忠義ある召使よ。本当の忠臣だわ」
おまえよりも、という気持ちを込めて言う。
ルシアンは痛ましげに眉を下げた。
「エリザ様。彼女のことを、どれほどご存じですか?」
「どれほどって……」
「生家は? 父親は? どの派閥に属し、誰とつながっているか。ご存じで?」
言葉に詰まった。
知らない。わたくしは、マルグリッドという名しか。
「マルグリッドは、隣国ドラクールに縁のある家の者です。
ドラクールはペニシュラ同様、我が国の主権を奪う機会をうかがっている。
王女である貴女に取り入ることができれば、どれほど都合がよいことでしょう」
すらすらと説明し、ルシアンは守るようにわたくしを抱き寄せた。
飼い慣らされてきた身体は、反射的に、マルグリッドへ疑いの目を向ける。
「違います!」
マルグリッドはまっすぐにわたくしを見つめ、訴えた。
「生家など、とっくに捨てたようなものです。
わたしには、あなただけ。エリザ様だけです!
信じてください!」
両方から訴えられて、たじろいだ。
分からない。何が正しいのか。
ただ戸惑うしかない。
「――ひとまず、安全をお取りなさいませ」
ルシアンが、わたくしの髪を優しく梳きながら耳元で囁く。
「エリザ様がご自身で安全を確かめられたのなら、私もおそばに置くことを反対いたしません」
「本当?」
「ええ。珍しくそこまでお気に召したのに、無理に引き離すのは忍びありません」
それなら、と納得しかけた。
けれど、向き直ったマルグリッドは恐ろしい形相をしていた。
「嘘つき」
射殺さんばかりの目で、ルシアンを睨みつける。
「また近づける気など、ありもしないくせに」
マルグリッドの手が、エプロンの内側へ滑り込んだ。
ぎらり、と銀色が光る。
「マル……グリッド……?」
ナイフだと分かって、声がかすれた。
「死ねえええええっ!」
マルグリッドが叫び、床を蹴る。
刃の先は、まっすぐルシアンへ向いていた。
「やめて!」
なぜ、そんなことをしたのか分からない。
裏切り者で、嘘つきで。恨んでいるはずなのに。
わたくしはルシアンの前へ飛び出していた。
「エリザ様!」
ルシアンは素早く、わたくしを押しのけた。
後のことは、一瞬だった。
突進してきたマルグリッドの腕をつかみ、手首をひねる。
ナイフの切っ先が、持ち主の方へ返った。
ルシアンはためらいなくナイフをのどに刺す。
赤が散った。
磨き上げられた床に、白い壁に、わたくしのドレスの裾に。
「が……っ」
うめく口から、血泡が漏れた。
もう十分なはずなのに、凶器ははでに太い首を裂いた。
血しぶきをあげながら、大柄な身体が木偶のように崩れ落ちる。
「……やれやれ。思った通り、危ない女でしたね」
ルシアンは血に濡れた手を一振りした。
ハンカチで手指を拭い、マルグリッドの顔の上へ投げ捨てる。
「……死んだ、の?」
わたくしは呆然と、床に座りこんだ。
皮が厚くて、不格好な手を握る。
まだ温かい。
でも、もう握り返してはくれなかった。
「……わたくし、ひとりぼっちね」
ぽつりとこぼすと、答えがあった。
「人はひとりですよ」
乾いた声。
「生まれてから死ぬまで、ずっと」
見上げると、ルシアンは知らない顔をしていた。
微笑みのない、冷たく虚ろな表情。
――ああ。これが。
わたくしは、ようやくルシアンの本当の姿を見た気がした。
「でも、だからこそ。私は貴女を一人にはいたしません」
マルグリッドを握っていた手を、掴まれる。
「貴女が、私を庇ってくださったように」
息が詰まった。
ナイフの前へ飛び出した自分の姿が、脳裏によみがえる。
わたくしの後悔とは裏腹に、ルシアンは幸せそうに微笑んだ。
「生涯、貴女のそばで、貴女を守り抜く。
貴女が死ぬ時は、私の死ぬ時。
――貴女は、私の愛そのものだから」
嘘つき。
嘘つき、嘘つき、嘘つき。
わたくしから友人も常識も、体面も誇りも、何もかも奪ったくせに。
わたくしの人生をめちゃくちゃにしたくせに。
そう思うのに、この手を拒むだけの力がない。
「参りましょう、私の屋敷へ」
引かれるままに、部屋を出る。
最後の最後まで、わたくしは床に広がる赤を見つめていた。
失ったものを目に焼き付けるために。
自分の無知さと、無力さを思い知った。




