5話 目覚め
ルシアンの屋敷へ引っ越すことは止めた。
彼は信用できないと知ったから。
……でも、だからといって、婚約を破棄するほどには至っていない。
破棄した結果、蛮族へ嫁がされることになるのは嫌だ。
ルシアンが他の誰かに取られてしまうのも、嫌。
疑いながらも、切り離せない。
今のわたくしは中途半端な状態だった。
「住み慣れたところを離れるのは、不安ですか?」
わたくしの髪に触れながら、ルシアンが聞いてくる。
いつもと変わらぬ穏やかな声音。いつもと変わらぬ柔らかな微笑。
「そうよ」
悟られないように気を付けながら答え、表情をうかがう。
――何を考えているのか、分からない。
ルシアンのかぶる仮面は、今日も完璧だ。
「王宮は人の出入りが多いですから。貴女が危ない目に遭わないか、不安です」
ルシアンはわたくしを優しく抱きしめてきた。
その言葉に、嫌でも思い出す。
幼い頃、知らない男に手で口を塞がれたときのことを。
強引に抱き上げられて、恐怖に身がすくんだ。
真っ先に駆けつけてきたのはルシアンで。
わたくしが落ちつくまでずっと今のように抱きしめていてくれたことを覚えている。
――助けられたのは、確かだ。
少なくとも、あの瞬間だけは。
「そういえば、ルシアン。わたくしの手紙は?」
「ああ――大したものはなかったので、失念しておりました」
ルシアンの言う通り、本当に大したものはなさそうだった。
差出人を見れば、おおよそ内容の想像がつく。
領地からの報告に、縁の薄い貴族からのご機嫌うかがい。
一通だけ中身を読んでみて、不愉快になった。
『ぜひお顔を拝見したく存じますが、ご多忙とうかがっております。無理はなさらず』
つまり「来ないでほしい」ってことじゃない!
手紙を小卓に放った。
「あと、もう一通」
覚えない男からだった。
まあ、これも内容の予想はつくけど。
便箋に踊る美辞麗句――口説き文句だ。
「文才が死んでるわね」
踊る姿は女神のよう、歌声は小鳥も嫉妬するほど――
見え透いた持ち上げ方ばかりで、少しも心に響かない。
わたくしは舞踏も歌も一流の師に習ってきたのだから、褒めるならもう少し気の利いた言葉を選んでほしいものだ。
でも、手紙を放りはしなかった。
ちやほやされるのも、褒められるのも、嫌いではない。
それに、こういう手紙をよこす男ほど、少し餌をちらつかせると簡単に夢を見る。
思わせぶりな言葉を一つ与えて浮かれさせるのは、それなりに面白い。
「どういう男?」
「気になります?」
ルシアンが少し、寄りかかってくる。重い。
「あまり申し上げたくありませんね。……貴女が本気になってしまわないか、心配です」
「あら。それは興味が湧くわね。おまえくらい賢くて、顔が良くて、地位も財産もあるの?」
「いえ。ただ、エリザ様のお父君に少し似ておいでで」
「なぜそれで本気になるなんて思うのよ」
「昔、おっしゃっていたでしょう? 『大きくなったら、お父様と結婚する』と」
頬が赤くなる。
ルシアンが、はあ、と心の底から心配そうにため息をつくのが憎たらしい。
「子供の頃の戯言を本気にしないでよ!」
「今は違う、と?」
「今はちゃんと別に好みの人間がいるわよ! ……その人と、結婚もするし」
もごもごいいながらうつむいたら、強引にあごを上げられた。
「――ん」
口づけられる。
優しく触れられるたび、胸の奥がとろけるみたいに熱くなる。
気持ちいい。
一方で、思う。
一見すればルシアンは恋文に嫉妬し、わたくしの解答に安堵したよう。
――でも、これは本心なのだろうか、と。
突き放したいのに、腕の中から出る気になれない。
このぬくもりに甘やかされてきた時間が長すぎて、拒み方を身体が忘れてしまっていた。
「エリザ様。ご希望のものをお持ちしました」
不細工な侍女――マルグリッドがやってきた。
助かった。普段ならルシアンとの逢瀬を邪魔されれば怒るところだけど、今日は違った。
「ありがとう。下がっていいわ」
布張りの地味な本。『君主徳義論』だ。
こんな本なんて、いつぶりかしら?
歌やダンスの方が楽しいから、堅苦しくて古ぼけた本なんて見向きもしなかったわ。
「ずいぶん、難しい本に興味を持たれましたね」
わたくしの手元をのぞきこんで、ルシアンが言う。
「難しいことはないでしょう。だって、お姉様ですら読みこなしているのだし」
ぱらりと頁をめくる。
……前書きからして、堅苦しい。
退屈さで萎えそうになる心を奮い立たせる。
「わたくしにだって読めるはずだわ」
「相変わらず、負けず嫌いですね」
ルシアンが笑って、ひょいと本を取り上げた。
「ちょっと!」
「これは読みづらいですよ。家にもっと読みやすいものがあるので、今度お持ちします」
「そう?」
そういわれて、わたくしは手を引いた。
本を片手に、執務へ戻っていくルシアンを見送る。
「……いつもの手口ですね」
ぽつりと、冷ややかな声が落ちる。
マルグリッドだ。
「ノワイエ侯はああやって、なんだかんだエリザ様から学ぶ機会を奪ってしまう」
「そんなことないわよ」
むっとして、反射的に否定する。
「ちゃんと、別の分かりやすい本を持ってくるといっていたわ」
「持ってきませんよ。仮に持ってきても、もっとエリザ様の気を引くものを一緒に差し出して、本から意識を逸らすでしょう」
「――」
そういえば、そうだ。
以前、隣国の地誌を読もうとしたとき。
「文字ばかりでつまらないでしょう」と言われ、代わりに絵入りの旅行記を渡された。
結局、本命の地誌は戻ってこなかった。
「念のため、もう一冊ご用意しておいて正解でした。
よろしければお使いください」
さっと、マルグリッドが本を差し出してくる。
「おまえ。気が利くわね」
「わたしはエリザ様の、本当の忠臣ですから」
先日は急すぎて、この侍女の忠誠なんて信じられなかったけど。
今なら信じていい気がした。
「他にご用命があればなんなりとお申し付けください」
「なら、お姉さまが読んでいそうな本を他にも持ってきて」
「はい!」
ああ、今日も芋臭い顔ね。
……まあ、だからといって、傍に置いておくのが不快というほどの顔ではないけど。
「ところでエリザ様、モーリッツ家のリゼット様からのお手紙は受け取られましたか?」
「リゼット? いえ?」
さっきルシアンから渡された手紙を、もう一度改める。ない。
マルグリッドの太い眉が寄った。
「……なによ。まさか、ルシアンが抜いたとでもいうの?」
「わたしは受け取り、ノワイエ侯に託した、とだけ申し上げておきます」
心がささくれ立つ。
マルグリッドに本を投げつけたくなったけど、こらえた。
これは敵じゃない。
「……内容は知ってる?」
「封は開けていますが、さすがに中身までは」
「いいわ。わたくしが許すから、今度からあなたが事前に読んで。
――ルシアンには内緒よ」
「はい。心得ております」
わたくしは菓子皿を、彼女の方へ押しやった。
「食べていいわ」
「え――」
「甘いものが嫌いなら、他のものをやるわ」
「いえっ、そんな……いただきます」
マルグリッドは、まるで宝石でも扱うかのような手つきでそれを受け取った。
なによ、珍しがって。
わたくしはそこまで血も涙もない主人じゃないわよ。
良い働きをした家臣には、相応の褒美をやらなくちゃいけないことくらい、お母様を見て知っているわ。
それより、リゼットのことだわ。
なんの手紙だったのかしら?
リゼットは、お茶会に誘ったけれど来なかったことをきっかけに疎遠になった。
侯爵令嬢の彼女は同い年で、なんでも話せる、気の置けない友人だった。
乳母や侍女たちが次々とわたくしの元を去っていったとき、寂しかった。
わたくしはそんなに一緒にいたくない相手なのかしら、と悲しくなった。
だから手紙を出したのだ。わたくしのどこが悪いのか、教えてほしくて。
リゼットなら嘘をつかない。
でも、返事は来なかった。
それどころか、彼女は同じ日に開かれた姉の方の茶会に行っていたのだ。
当時は、結局リゼットも姉を選んだのだ、と怒ったけれど。
ひょっとしたら、違ったのかもしれない。
今回のように、ルシアンが手紙を握りつぶしていた可能性だってある。
「……直接会って、聞いてみるのが一番ね」
わたくしは立ち上がった。




