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悪女が生まれるまで、あと300日  作者: サモト


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4話 わたしの尊い妖精姫

 はじめて、エリザ様に名を呼んでいただけた。

 それだけで、この世に生まれてきた意味を得た気がした。

 胸の奥が、じんと熱い。


 いてもいなくても、どうでもいいもの。

 それが、わたし――マルグリッドだ。


 わたしは早くに母を亡くし、後妻にはいないもののように扱われて育った。

 父は若い妻の機嫌をうかがうばかりで、娘がやつれていることも、くたびれた服を着ていることも、まるで気づかなかった。


 見かねた親戚が、宮廷で働き口を見つけてくれた。

 幸い、わたしは物覚えがよかった。誰より早く正確に仕事をこなしたおかげで重宝された。


 けれど、内気で言い返せない性格は、都合のいいはけ口にもなった。

 面倒な仕事を押しつけられ、気難しい侍女頭の盾にされる。


 その日も、朝から命じられた通りに茶器を磨き、花を活け直したというのに、侍女頭は「順番が違う」「趣味が悪い」「花の高さが低い」と、次々に難癖をつけてきた。


 あの方――エリザ王女殿下が現れたのは、そんな時だった。


「楽しそうね?」


 場違いなほど軽やかな声。

 金の縁取りの鏡も、磨き上げられた床も、その一言でぱっと明るくなった気がした。

 侍女頭の頬に、さっと朱が差す。


「い、いえ……そのようなことは……」


 わたしは驚いた。

 長々しい叱責には、たしかに愉悦が混じっていた。

 まだ幼い子どもが、それを見抜いたことが意外でならなかった。


 思わず顔を上げる。


 ――まぶしい、と思った。


 ゆるく波打つ金の髪。澄んだ青い瞳。ミルクを溶かしたような白い肌。

 砂糖菓子と花びらでできていると言われても信じてしまいそうな愛らしさだった。


「その人を叱れば、切り過ぎた花は元に戻るの?」


 侍女頭へ小首をかしげるエリザ様。

 そこに非難はない。ただ、純粋な疑問のようだった。


「そういうわけではございませんが……」

「なら、怒るだけ無駄ね」


 つまらなそうに言い放つ。


 なんと聡明なのだろう。

 まだ侍女頭の半分ほどの背丈しかないのに、その視線はわたしたちよりずっと高いところにある。


 隣には、そっくりの王女――アレクシア様もいらした。

 けれど、わたしの目はエリザ様に釘づけだった。存在感がまるで違う。


「だいたいね。怒ったくらいで人が思い通りになるなら、苦労はないのよ」

「し、しかし殿下。こういうことは、きちんと叱って――」

「十度叱られても懲りないわたくしが言うのだから、間違いないわ!」


 そう言って、エリザ様は懐から何かを取り出した。

 次の瞬間、白い粒が宙にぱっと散る。


 砂糖だ。


 陽光を受けて、きらきらと舞う。


「エリザ様! また! 一体どこから……!」

「ナイショ!」


 エリザ様は軽やかに身を翻し、アレクシア様の手を引いて駆け出した。

 笑い声とともに、砂糖の粒があとに尾を引く。

 まるで本当に妖精だ。


 後に残されたのは、散らばった砂糖に呆然とする侍女頭と、砂糖まみれのわたし。

 叱責はそれどころではなくなり、わたしたちは後始末に追われた。


 殿下に、わたしを助けるつもりなどなかっただろう。

 ただ気まぐれに現れ、気まぐれに遊んだだけだ。


 でも、わたしにはそれで十分だった。

 あの日から、わたしの世界はエリザ様を中心に回り始めた。


 お姿を見かけるたび、わたしは手を止めて見惚れた。

 美しく、賢く、太陽のような方。人懐こく、身分も年齢も問わず笑いかける。


 髪飾りがいつの間にか花にすり替わっていたり、ポケットに蛙を入れられていたり。

 いたずらも多かったけれど、皆それすら笑って受け入れた。


「妖精のしわざね」


 そう言って、むしろ被害に遭うことを待ち望むほどに。


 見続けるうちに気づいた。

 エリザ様がいたずらをなさるのは、人恋しい時だ。


 時折、エリザ様は寂しげに女王陛下を見つめておられた。

 そして陛下の視線の先にいるのは、いつもアレクシア様。

 双子でも、次期女王とそうでない王女では差がある。


「……本当は、お姉さまだけいればよかったのではないかしら」


 ぽつりと漏れたその一言に、胸が締めつけられた。

 いないものとして扱われて育ったわたしには、その痛みが分かりすぎるほど分かった。


 ――この方を、一生かけてお支えしたい。


 そう思った。

 だから、


「……ねえ。わたくしと一緒に、悪いことしましょう?」


 上目遣いで、こっそりそう誘われた時。

 わたしは一も二もなく頷いた。


「どんなことを?」

「そうねえ。侍女頭のエプロンの紐に、これを挟むのはどう?」


 小さな手に握られていたのは、羽根のついた毛はたきだった。


「後ろにつけたら、しっぽみたいで可愛いと思わない?」


 作戦は単純だった。

 わたしが侍女頭を呼び止めている間に、エリザ様が背後からそっと毛はたきを差し込む。それだけ。

 結果は上々だった。

 侍女頭は半日近く、茶色いしっぽを揺らして宮中を歩き回ることになった。


「これでキョーハンね」


 ふふっ、と笑うエリザ様。

 その悪い笑顔の、なんと魅力的なことか。


「今日のことは、ひみつよ」


 エリザ様は人差し指を、ご自分の唇に当てた。

 花びらのようにやわらかな、その唇に――


 そこで、わたしは回想から引き戻された。

 手の中には、下げたばかりのカップ。縁には淡く口紅が残っている。


 エリザ様の唇の痕だ。

 記憶の中より大人びているけれど、ふっくらとした輪郭は少しも変わらない。


 そっと指先でなぞり、舌先で触れる。

 全身が甘く痺れた。


 本当はそのまま口づけてしまいたい。

 けれど、それはできない。あの方を汚してしまう気がした。


 わたしはナプキンで口紅を丁寧に拭い、洗い物へ回した。


「バニラと矢車菊の紅茶を」


 後輩の侍女から受け取った茶葉をポットに入れる。

 湯を注げば、甘い香りがふわりと立った。

 運ぶと、香りだけでエリザ様のお顔がわずかにゆるむ。

 一口飲み、細く息を吐かれた。


「――悪くないわ」

「恐れ入ります」


 その一言を賜る幸せを、胸いっぱいに噛みしめる。


「さっきの話だけれど」

「はい」

「……どうしてルシアンは、わたくしにそんなことをしたのかしら」


 ああ、殿下。なんておいたわしい。

 本来なら、こんなことは友人か、頼れる大人に尋ねるべきなのに。

 そのすべてを、あの憎き侯爵が遠ざけてしまった。


「ルシアンも……本当はお姉様のことが」

「それは違うと思います」


 傷ついたお顔が見ていられず、即答した。


「ノワイエ侯がエリザ様の教育係になられたのは、女王陛下のご意向でしたから」

「そうだったわね……お母様が、ルシアンを」


 エリザ様のお顔がまた曇る。

 ご自分を孤立させたのが実の母かもしれないなど、あまりにも酷だ。


「……お母様は、わたくしがお姉様の敵になることを恐れたのかしら」

「わたしには……陛下のお心の内など、とても」

「そうよね。忘れて」


 ひらりと片手を振る。

 その寂しそうな横顔は、昔いたずらの前に見せていたお顔と同じだった。

 たまらなくなって、わたしは足元にひざまずいた。


「エリザ様。わたしは、何があってもエリザ様の味方です」

「何を言うの、急に」

「殿下のためなら、どんなことでもいたします」

「はあ?」

「どうかわたしという(しもべ)を、お心の隅に留めておいてくださいませ」

「……なに、おまえ。気持ち悪いわね」


 心の底から軽蔑したような目だった。

 けれど、それすら甘美だった。


「そこまで言うなら、窓から飛び降りてみせなさいよ」

「かしこまりました」


 その程度、軽い。

 殿下の信頼が得られるのなら。

 わたしはまっすぐ窓辺へ向かった。


 高窓の向こう、夕風が白いレースのカーテンをはためかせている。

 窓枠に足をかけた、その瞬間。


「――ちょっと!」


 乱暴に腕を引かれた。

 振り返れば、エリザ様が血相を変えている。


「本当にやらないでよ! つくづく気持ち悪いわね!」

「……申し訳ございません」


 命を差し出しても、この方の心のかけらひとつ得られないのか。

 そう思ってうなだれかけた時、


「……どうせ死ぬなら、わたくしの役に立ってからにして頂戴」


 その一言で、わたしは再び顔を上げた。


「はい、我が君」


 立ち上がるわたしに、エリザ様が手を貸してくださる。


 白く、細く、やわらかな手。

 傷ひとつ、しみひとつない。

 なんて美しく繊細な生きもの。


 守る。絶対に守ってみせる。何からも。

 あなたのためなら、諸悪の根源であるノワイエ侯だって殺してやる。

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