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悪女が生まれるまで、あと300日  作者: サモト


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3話 忠実なる侍女マルグリッド

 どうやって部屋へ戻ったのか、覚えていない。

 気づけば、わたくしは自室のベッドに腰かけていた。

 夕暮れ前の光で、白い壁も、大理石の床も、淡い紅色に染まっている。


 ――エリザ様があなたより賢く、魅力的になって、再び人々の心をつかんだら。困るのは、いったいどなたでしょうね?


 ――ですから私は、エリザ様を甘やかしているのですよ。


 ルシアンの声が、何度も頭の中で反響する。

 猛烈に腹が立った。


 『甘やかしている』?

 なんて侮辱かしら。人をなんだと思っているの? 子ども扱いにもほどがある。


 怒りで腸が煮えくり返る。

 けれど同時に、いいように扱われていたことに気づかなかった自分にも腹が立った。


 これまでの振る舞いを思い返し、顔から火が出そうになる。

 ルシアンの甘い言葉を信じ、自分は特別なのだと、何をしても許されるのだと勘違いしていた。

 みんな、そんなわたくしをどう見ていたのだろう。


 ――愚かな、わがまま王女。


 わたくしは金房飾りのついた枕をぎゅっと抱きしめた。


 許せない。

 ルシアン、あの男。忠義者のふりをして、その実、裏切り者。


 姉のためにそうしてきたですって?

 ふざけないで。結局、おまえまでお姉様の側だったなんて。


「――っ」


 世界はどこまでも、わたくしにだけ不公平だ。

 わたくしは枕に顔を埋めた。


「エリザ様、お戻りですか?」


 控えめなノック。

 ルシアンの声だった。


「……」


 返事はしない。

 ベッドに横たわったまま、身じろぎひとつせず気配を殺す。


 今は話したくない。顔も見たくない。

 けれど、ルシアンは親より親しい仲だから、


「失礼いたします」


 と、当然のように部屋へ入ってきた。


「おや……お休み中ですか」


 ベッドのそばに立つ気配がする。

 わたくしは背を向けたまま、寝たふりを続けた。


「これをお返ししますね」


 耳たぶに、ルシアンの指先がそっと触れる。

 ひやりとした硬い感触。落としたイヤリングをつけてくれたのだ。


 指先がくすぐったい。思わず笑ってしまいそうになるのを、必死にこらえる。


「――よい夢を」


 ふわり、と肩にショールがかけられた。

 頭を優しく撫でられ、頭に口づけが落ちる。


 足音は静かに遠ざかっていった。


「……」


 十分に気配が消えてから、わたくしはのろのろと起き上がった。

 口づけられたあたりに手をやる。


「……本当に、わたくしを裏切っていたの……?」


 ぽつりと呟く。

 本当に愛も何もないなら、こんなことをするのかしら。

 眠っている相手にまで、愛おしむような真似を。


 さっき見たものが、夢か幻のように思えてくる。


 わたくしはベルを鳴らし、侍女を呼んだ。

 とにかく、何か飲んで落ち着きたかった。


「お茶を」

「本日は何になさいますか」

「……何でもいいわ」


 自分でも驚くほど、声に覇気がなかった。

 ソファに移って、気だるくカップを口に運ぶ。

 あまり、好きな味ではない。苦味が強い。


 けれど、そんなことで怒る気力もないくらい、先ほどのことは衝撃的だった。


「……エリザ様は、ノワイエ侯と縁をお切りになるべきです」


 突然の言葉に、わたくしは眉をひそめた。

 そばに控えていた侍女が、まっすぐこちらを見ている。


 驚いた。

 家具がしゃべった、というほどの衝撃だ。


 わたくしの侍女たちは、許しなく口をきかない。

 わたくしがそう求めているからでもあるし、向こうも失言で不興を買うのを恐れているからだ。


「……おまえ。聞いてもいないのに、余計な口を利くものではないわよ」


 すっと目を細める。

 たいていの侍女は、この時点で青ざめて謝る。


 けれど、この侍女は怯まなかった。

 むしろ、痛ましげにわたくしを見返してきた。


「ノワイエ侯は、エリザ様にとって良いお方ではありません。あの方は危険です」

「お黙り! 使用人ごときが!」


 わたくしは、まだ湯気の立つ茶を侍女へ浴びせた。

 角ばった顔が濡れ、白いエプロンは褐色に染まる。


 腹立たしい。

 わたくしがルシアンを責めるのはいい。

 でも、たかが使用人があの男を悪く言うのは、我慢ならなかった。


 それでも侍女はひるまず、さらに言った。


「わたくしはずっと見ておりました。

 ノワイエ侯のせいで、エリザ様の周りから人がいなくなっていくのを」


「違うわ! みんな、わたくしより姉を選んで去っていったのよ!」


 お茶会に誘っても、友人たちは来なかった。

 断りもなく、お姉様の茶会を優先した。

 親しかった侍女たちも、次期女王に仕えられると知れば、二つ返事でわたくしを捨てた。


 みんなみんな、お姉様の方が大事なのだ。


「ルシアンだけが、わたくしのそばにいてくれるのよ!」


 立ち上がって怒鳴りつける。

 侍女は悲しげに、まつ毛の短いまぶたを伏せた。


「エリザ様は、何もお気づきではなかったのですね」

「何をよ」


「ノワイエ侯が、ご友人方からの手紙を握りつぶしていたことも。

 あの方の指示で、親しい侍女たちが遠ざけられていたことも」


「……え?」


 全身の血が、すっと冷えた。


「アンナとセシルを覚えておいでですか?」


 覚えている。わたくしとアレクシアお姉様の乳母だ。

 でも、いつしか二人とも姉一人に仕えるようになった。


「どちらかは、わたくしのところへ残るはずだったのに。

 二人とも嫌がったのでしょう。わたくしは扱いづらいから」


 幼いころのわたくしは、お転婆で口も達者だった。

 乳母たちを振り回していた自覚はある。


 けれど、二人とも去るなんて。

 忘れていた古傷がうずき、唇を噛む。


「それは違います、殿下。アンナもセシルも、エリザ様のおそばを離れるのを惜しんでおりました」

「嘘よ。別れの時に渡した花だって、捨ててあったわ」

「捨ててなんて。あの二人は、押し花にしていたくらいです。わたしも分けてもらいました」


 侍女は懐から、栞を取り出した。

 貼られているのは、端に向かって橙色から赤色へと変わる花びら。

 王家の花園にしかない珍花だ。


 間違いない。

 これは確かに、わたくしが二人へ贈ったもの。


「でも、捨てられていて……」


 言いかけて、思い出す。


 ――それ、どうしたの。

 ――外の植え込みに捨てられておりましたので。もったいなくて、拾ったのです。


 そう言って、わたくしに花を見せたのはルシアンだった。


「どうか目をお覚ましくださいませ、エリザ様。

 あなた様は、こんなふうに人を疑い、傷つけるばかりのお方ではありませんでした」


 侍女は涙ぐみながら、かけられた茶をハンカチでぬぐった。


「あの男を信用なさらないでください。お願いです」

「……」


「エリザ様が誰かを好きになれば、その方は遠ざけられました。

 誰かを信じようとなされば、その信頼は壊されました。

 そうして最後には、いつもノワイエ侯だけが残るように」


 信じたくない。

 でも、反論もできない。

 すとん、とソファに腰を下ろす。


 侍女は空になったカップに目をやった。


「お茶のおかわりをお持ちします」

「……いらない。一人にして」


 一礼して下がろうとした侍女を、わたくしは呼び止めた。


「おまえ。名は?」


 侍女の顔が、ぱっと明るくなる。

 今さら気づいたけれど、不細工ね。

 どうしてこんなものをそばに置いていたのかしら。


 ――たぶん、今まで一度もわたくしの気に障ることをしなかったからだろう。


「マルグリットと申します、姫様」

「どれくらい、ここにいるの」

「十年と三か月になります」


 十年。

 思わず目を見張った。長い。


「そんなに。よく居続けたわね」


 自分で言うのもなんだけれど、わたくしは気に入らない侍女を片っ端から追い出してきた。

 たぶん、この侍女がいちばん古株だ。


「姫様のおそばにいられるだけで、幸せですから」


 マルグリットは、はにかむように微笑んだ。


 うん。やっぱり不細工。

 でも、不思議と追い出す気にはならなかった。


「……やっぱり、お茶のおかわりを頂戴」

「はい。次こそ、お気に召すものを」


 わたくしは軽く眉を上げた。

 今回の茶が気に入らなかったことを、この侍女は見抜いていたらしい。


「……期待しているわ。裏切らないでね」

「はい!」


 威勢のよい返事。

 マルグリットは深々と一礼し、部屋を出ていった。


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