13話 侯爵夫人の帰還
誰かが呼んでいる。
――エリザ様。こんなところで眠っていては、お風邪を召しますよ。
ルシアンの声だ。
ゆっくりと目を開ける。
「……エリザ様。ちゃんとベッドでお休みください」
視界に入ったのは、精悍な若者の顔。
ロランだった。
「こんなところで寝たら風邪をひきますよ」
「……最悪」
机に伏せていた身体を起こす。
図書室で仕事をしているうちに眠ってしまったらしい。
首も肩も痛い。
夢うつつとはいえ、声を聞き間違えるなんて。
自分に腹が立った。
「下がっていいわよ、ロラン。今日はもう休みなさい」
手を振ると、ロランが少し目を見開いた。
「エリザ様は?」
「あと少しだから続けるわ」
「かしこまりました」
そう言いながら、ロランは動かない。
「下がっていいと言ったでしょう」
「護衛を下がらせるなら、まずご自身がお休みください」
壁際で直立不動。
……なんて融通の利かない男なのかしら。
「分かったわよ。部屋に戻るわ」
インク壺に蓋をする。
あとは部屋で仕上げればいい。
わたくしが戻らない限り、ロランも休まないつもりだから、仕方ない。
「こちらは棚へ戻すのですよね」
ロランが本を取り上げる。
「やけに親切じゃない。雨でも降るのではなくて?」
「なら、エリザ様が勉強なさっているこの状況、天変地異が起きますね」
「失礼ね! わたくしはやる時はやるのよ!」
憤然と図書室を出た。
夜の更けた公爵邸は静まり返っている。
召使たちも寝静まり、長い廊下にはわたくしたちの靴音だけが響いた。
「いつまでこちらに滞在なさるのですか?」
背後でロランが言う。
「もう二か月になりますが」
「まだ二か月よ」
ロランがため息をついた。
「ノワイエ侯もご心配でしょう」
「してないわよ!」
思わず振り返り、声を荒げる。
「たびたび贈り物が届いているでじゃありませんか」
「それだけじゃない!」
そう。それだけ。
届くのは化粧品や本や茶葉ばかり。
添えられた手紙も、
『お身体にお気を付けください』
『お困りのことはありませんか』
そんな当たり障りのない言葉ばかり。
帰ってこい、とは一度も言われない。
「……別に、わたくしがいなくても困らないでしょう」
何を言っているの、わたくし。
こんな弱気なセリフ、らしくない。
「むしろ、わたくしのわがままがなくて気楽でしょう」
「奥方が家を空け続けているのは外聞が悪いですよ」
「どうしてわたくしが、自分の評判を落とした相手のことを気遣わなくてはいけないのよ!」
乱暴に扉を閉める。
自室は月明かりに青白く染まっていた。
耳が痛くなるほどに、静かだ。
――人はひとりですよ。生まれてから死ぬまで、ずっと。
ルシアンの言葉が脳裏に蘇る。
あれはルシアンの本音だ。
本性、本質といってもいい。
乾ききっていて、虚ろで、空っぽ。
「……だからこそ一人にしない、と言ったではないの」
その後に告げられた言葉。
あれは嘘か本当か、分からない。
相手の心が空虚と知った後では、何を信じていいか分からない。
なぜだか、泣きたくなった。
翌朝。
わたくしは完成した書類を抱えてガスパールの執務室へ向かった。
「ほら。できたわよ」
「早いじゃないか」
ガスパールは欠伸をしながら書類をめくる。
昨夜は王宮で夜会があったらしく、眠そうだ。
「そういえば、おまえの夫」
「ルシアンが何よ」
「人気だな。昨晩は女たちに囲まれて動けなかったぞ」
ぴくりと眉が動く。
「あの容姿と頭でそうならない方がおかしいわ」
「大胆にも、腕へしがみついていたご夫人までいたな」
「あら、そう。それで?」
その女の髪を引っつかんで引きずり回してやりたい。
そんな気持ちは胸の奥へ押し込める。
「おまえ、そろそろ戻ったらどうだ」
「嫌よ。ルシアンがどこで誰と何をしてようと、わたくしの知ったことではないわ」
強がりと自覚しながら、言い返す。
虚勢を見抜かれることを恐れたけど、幸いな事に、ガスパールはそこはどうでもいいようだった。
からかうこともなく、真剣に諭してくる。
「いつまでも公式の場で、ノワイエ侯一人というのは外聞が悪い。
私生活で勝手をするのは自由だが、式典や夜会で相手を放置するようなマネは無作法だ」
「……」
知っている。
本にも書いてあった。
「昨日もアレクシアがノワイエ侯を気にかけていた。
こんな時までお一人は気の毒よねとか、おやつれになった気がするとか。
横にいて不愉快極まりない」
「お姉様の慈悲深さは生まれつきだもの」
「アレクシアに余計な気遣いをさせるな。戻れ」
「まじめなこと言ったと思ったら、結局、私欲じゃない」
ふん、と鼻で笑ったものの。
ガスパールの言葉は受け入れた。
「分かった。一度戻るわ」
もうすぐ建国祭だ。
前々から、この日を欠席すると、さすがにお母様の目が怖いと思っていたので、ちょうどいい。
建国祭前日。
わたくしはノワイエ侯爵邸へ向かった。
時間は、出仕前の朝早くを選んだ。
長話になる前に、用件だけ済ませたかった。
「ここでいいわ。――ロラン、おまえもお姉様のところへお戻り」
家出先がバレないよう、公爵家の馬車は手前で降りた。
ロランとも別れ、一人で屋敷へ向かう。
門番が目を丸くし、慌てて門を開いた。
――務めを果たしに来ただけよ。
堂々とアプローチを進みながら、わたくしはルシアンへのセリフを心のなかで考えた。
でも、玄関が見えた時。
言葉がすべて吹き飛んだ。
――だれ、あれ
大理石造りの玄関から、ルシアンと、女が一人出てきた。
紫色のデイドレスを上品に着こなした、妙齢の美人。
端然と結い上げられた銀髪や所作から、貴族であることが察せられた。
――こんな朝早くに屋敷から出てくるなんて
昨晩は泊まっていたということだ。
目の前が真っ赤になった。
「またね、ルシアン」
「お気を付けて」
二人はペニシュラ語で挨拶を交わし、親しげに頬を触れ合わせる。
ルシアンは馬車が見えなくなるまで見送っていた。
わたくしに気付かないほどに。
「――エリザ様?」
ようやくこちらを向いた時には、わたくしは完全に頭に血が上っていた。
ツカツカと歩み寄る。
「あれは誰!」
ルシアンはただわたくしの顔を見つめた。
わたくしが目の前にいる現実に、驚いているようだった。
「王女を妻に与えられておきながら、よく他の女を泊められたものね!」
違う。
本当はこんなことを言いに来たわけではないのに。
止まらない。
「あの女もおまえも許さないから!」
胸ぐらを掴んで、ありったけの怒りを込めて睨みつける。
いったいどんな弁解をするのかしら?
得意の弁舌で逃げようとしたって、絶対追い詰めてやるんだから。
そう息巻いているのに――ルシアンはひるむでもない。楽しそうに尋ねてきた。
「許さないとは、具体的には?」
「とりあえず、さっきの女は髪を引っつかんで、地面を引きずり回してやるわ」
「私は、どうして頂けるので?」
「おまえは当然もっと酷くするわよ。
目も手も口も使えないようにして、わたくしのそばへ縛り付けてやる!」
「それはそれは。辛そうですね」
全然辛そうに見えない。
むしろ嬉しそうで、苛立った。
「弁解なら聞いてやるわよ」
「ぜひ。ただ、今から出仕ですので。夜でも?」
「待っていてあげるから、安心なさい」
わたくしはそのまま屋敷へ入った。
居間のソファへどっかり腰を下ろす。
「早く戻ってくるのよ」
「そこまで仰るなら、何を置いても戻らねばなりませんね」
ルシアンはわたくしの額へ口づけ、軽い足取りで出かけて行った。
遠巻きに見ていた召使たちが、生温かい視線を向けてくる。
「……」
しまった。
これでは『役目を果たす侯爵夫人』どころか、まるで『夫の帰りが待ち遠しい妻』だわ。




