舞台
名声は、力だ。
それは、私が、長い時間をかけて、ようやくたどり着いた結論だった。
名もなく、誰にも顧みられなかった頃の私には、何を言う資格もなかった。地を這う者の声は、誰の耳にも届かない。けれど、世界が振り向くほどの高さに立てば、同じ言葉が、力を持つ。
私の前には、いつか引きずり下ろすべき男がいた。鷲尾。私の研究を奪い、ノーベル賞に手をかけた男。あの男を、その高みから引きずり下ろすには、私もまた、それに見合う高さに立たねばならない。
そして、私の手元には、世界が認めざるをえない、一つの武器があった。
この、顔と、身体だ。
外見をショーケースに並べ、点数をつけようとすることへの嫌悪は消えていなかった。
けれど私は、その嫌悪を呑み込むことにした。
利用できるものは、何であれ利用する。たとえそれが、自分自身の身体であっても。
私は、名刺の番号に、電話をかけた。電話の相手は狂喜して、様々な指示を私に伝えた。
美の大会で勝つために、まず求められたのは、意外なことに、画面の中での戦いだった。
エス・エヌ・エス。世界中の人々が、指先一つで、誰かを好きになり、誰かを忘れていく場所。
大会の運営者は、私に、そこでの支持を広げるよう求めた。いまや、美の序列は、審査員の点数だけでは決まらない。何万、何十万という、顔も知らない人々の、好意の総量で決まるのだという。
正直に言えば、私は、その仕組みを、心の底では、馬鹿げていると思っていた。だが、今さらやめるわけにはいかない。
私は、その問題を一つの解くべき問題として扱った。どんな写真が人の目を惹くのか。どんな言葉が共感を呼ぶのか。私は、反応の数をデータとして眺め仮説を立て検証した。
私には自分を裏付けるストーリーがない。突然、20歳でこの世に現れた女だ。それを、できる限り嘘のない言葉で膨らませる。国立大学の医学部1年生という立場はここでかなり役にたった。
立花や奈緒にも協力してもらった。「映える」写真や動画を撮るためには、私の今までの経験では不十分だった。大学のカフェで木を後ろに座って、カメラの奥にほほ笑みかけた。
立花にはクリエイターの才能があったのは僥倖だった。
自分でも見せてもらった。
午後の柔らかい光に照らされた、ブラウスとスカートの金髪の清楚な美少女。
白人のルーツを持ち、日本で苦労して、日本語を流暢に話す(当たり前だが)女。
カメラを前にしてはにかむところも「すれていない」感じがよく出ている。だが、社会人としての経験からか、どこか一本筋が通ったような大人びたところが、その対比をよく映し出している。
結果は、すぐに表れた。私の投稿への反応は、雪だるまのように膨らんでいった。一枚の写真が世界中に拡散され、見知らぬ人々が、私の名を口にし始めた。
神谷絵里香。
誰も、その名の裏に何があるのかを知らないまま、その名を愛した。世界は、私という原石を自分が初めて発見したようなコメントに彩られた。
本当の中身を、何ひとつ知られないまま、私は愛されていった。
大会で見られるのは、容姿だけではなかった。
立ち居振る舞い、話し方、そして、教養。世界の問題について、どう考えるか。自分は何を成したいのか。審査の場で、私たちは、絶え間なく問われ続けた。
ほかの候補者の多くは、その問いに用意してきた美しい言葉で答えた。世界平和。子どもたちの未来。環境。
どれも立派で、どれも心に残らなかった。
私は、医学部に通い、医療技術とその発展について貢献したいことを述べた。
そこには20年以上かつての神谷真が過ごしてきた重みがあった。
それを受けて審査員の一人が、「再生医療を倫理的にどう思いますか?」と意地の悪い質問を投げてきた。若い娘には荷が重かろう、とでも言いたげな顔で。
私は、淀みなく、答えた。半生をその分野に捧げた人間の言葉が、出てこないはずがなかった。技術の光と影。
何より、人が神の領域にどこまで踏み込んでよいのか。その境界の危うさを私は誰よりも身をもって知っていた。
審査員たちが、息を呑むのが、わかった。
ただ、私はすぐに気づいた。語りすぎてはいけない、と。美しい娘に求められているのは、深い洞察ではなく、洞察を持っているらしい、という雰囲気だけなのだ。私は、知性の刃を半分だけ鞘から見せてすぐに収めた。
賢すぎる女は、この檻の中では、好かれない。
中身を隠すことを、私は覚えた。
元は男であった私が、女の美を競う舞台に立つことには、絶え間ない葛藤がつきまとった。
ほかの候補者たちは、生まれたときから女だった。化粧の仕方も、髪の結い方も、高い踵の上で背筋を伸ばして歩く術も、長い年月をかけて、身体に染み込ませてきた。
私には、その蓄積が、まるごと欠けていた。
最初の頃は、踵の高い靴の上で何度もよろけた。
化粧の濃淡もわからず、奈緒に、一から教わった。女として当然とされる仕草の一つひとつが、私には、外国語のように、ぎこちなかった。
その不慣れは、時に、私を窮地に追い込んだ。
けれど、奇妙なことに、その不慣れが、有利に働く瞬間も、あった。
ほかの候補者たちが、審査員の機嫌を取り、互いに探り合い、笑顔の裏で値踏みし合う。
その駆け引きにまるで興味がなかった。
長く生きすぎた私には、その手の小競り合いが、子どもの遊びのように見えた。その超然とした態度が、審査員の目には品格として映る。
他のビューティコンテストならともかく、このミスユニバースに関しては、それが私を助けた。
そして、舞台に立つとき、私の身体は、どんな言葉よりも雄弁だった。
ライトを浴びて、私が舞台を歩くと、会場が静まり返った。
薄い布が積もりたての新雪のような肌を際立たせる。
一歩ごとに、腰の曲線がしなやかに揺れ、伸びた背筋から長い手足へと、視線を吸い寄せる一本の流れが生まれた。
鎖骨の窪み。胸のやわらかな起伏。くびれた腰から、なめらかに広がる腰骨の線。それらが光の中で、一つの完成された造形として、人々の前にさらされた。
誰も目が離せない。私の一挙一動、まばたきすら見逃すまいとするような目が私に注がれた。
日本中から集まった、あらゆる美女たちが「別格」と認めざるを得ない美。
その視線の重さを、私は、もう恐れなかった。むしろ、それを引き受けていた。見られることそのものを力に変える術を、私は、覚え始めていた。
不思議だったのは、その瞬間でさえ、私の心が、奇妙に醒めていたことだ。人々が見惚れているこの身体を、私は、半ば他人事のように、舞台の上から眺めていた。これは、私が設計した造形だ。
私は、その作品を、世界に向かって提示しているにすぎない。
そして...ミスコンには付き物の水着審査があった。
私には男性審査員が自らの欲望をさらけ出す悪癖にしか見えないし、その存在にも賛否があるようだが、残念ながらまだここにはあった。
この身体で水着を着ること自体が初めてで、そのことにはひどい抵抗があった。ぴったりと肌に張り付く生地。胸から股間までを、薄い生地一枚で曝け出す。ワンピース型のできる限り露出の少ないものを選んだが、その頼りない生地をつまんで途方に暮れた。
そもそも着方すらよくわからないが、そこは奈緒が助けてくれた。胸の肉を、なんとか生地の中に仕舞い込む。いろいろ、毛が出てないかとか胸のボリュームを品良く見せられるか、そういったものをチェックしてくれた。
そんな状態だったが、舞台に立てば、自分の身体を作品と思い込むことで、私は私の身体をさらけ出すことができた。
肉体が、これほど雄弁で、これほど力を持つということ。研究室の片隅で、誰にも顧みられなかったかつての私には、想像もできないことだった。
和装もした。今度は、自分の白人然とした姿がネガティブに働かないかと思ったが、杞憂だった。寧ろ、和装が一番自分の姿を華やかに見せた。和装でも隠しきれない腰の高さ。白皙の肌と着物の対比。花が金髪に映え、髪を上げたうなじかその白さを見せつける。
光のあたる場所には、必ず、影もできる。
沢渡玲奈という、候補者がいた。
過去にも大きな大会で実績を重ねてきた、美の世界の、いわば古参だった。今度こそ頂点を、と誰もが見ていたところへ、どこの誰とも知れぬ私が突然現れ、すべての注目をさらっていった。
沢渡が、私を憎むのは無理もなかった。
彼女の悪意は、初めは、ささやかなものだった。私が女としての所作に慣れていないところを見せるとせせら笑う。控室で、聞こえよがしに、私の出自を疑ってみせる。「あの子、本当に日本の人なのかしら」と。その言葉に、私は、内心、冷やりとした。彼女の勘は、的外れなようでいて、危ういところを突いていた。
やがて、悪意は、形をとった。
本番の直前、私の衣装が、見つからなくなった。控室の隅に無造作に押し込められているのを、付き添っていた奈緒が、見つけ出してくれた。誰の仕業かは、明らかだった。
私は、沢渡を、責めなかった。ただ、彼女を正面に見据え、その目を覗き込んだ。研究を奪われ、すべてを失ったあの日から、私が、どれほどの修羅をくぐってきたか。この娘は、知らない。その私の目に何を見たのか、沢渡はふいに顔色を変え目を逸らした。それは敗れた肉食動物のようだった。
それきり、彼女が少なくとも表から私に手を出すことは、なかった。
そして、その日が来た。
最終の審査。会場の熱気が頂点に達する中、司会者が、日本代表の名を読み上げた。
神谷絵里香。
私の名だった。
歓声が、津波のように押し寄せた。光が、私一人を照らし出した。隣に立っていた候補者たちが、私を抱き、祝福の言葉をかける。沢渡でさえ、引きつった笑みを浮かべて、形ばかりの拍手を送っていた。
冠が、私の頭に載せられた。
客席のどこかで、立花が、声を限りに私の名を叫んでいるのが聞こえた。九条が、奈緒が、見守っているはずだった。
私は、ライトの中で、微笑んだ。完璧な、隙のない微笑みを。
胸の内では、まったく別のことを、考えていた。
これで足場ができた。世界が私を見る。私の言葉が力を持つ。
あの男に近づくための、最初の高みに私は立った。
日本代表という冠は、私に、思いがけない力を授けた。
取材の依頼が、絶え間なく舞い込んだ。医学部に通う、ミス・ユニバース日本代表。その物珍しさに、人々は群がった。私は、その注目を、注意深く自分の目的のために、使い始めた。
ある雑誌の対談企画で、私は、一つの希望を伝えた。
いま、もっとも注目される科学者と、語り合いたい。医学を志す者として――誰もが納得する、もっともらしい筋書きだった。
私が指名したのは、鷲尾隆三だった。
ノーベル賞候補の科学者と、美しい日本代表。その取り合わせに、編集者は、飛びついた。
鷲尾もまた、二つ返事で応じたという。
当然だ、と私は思った。あの渡り廊下で、私を値踏みした、あの欲望に濁った目。彼が、美しい日本代表に近づける機会を、逃すはずがない。彼は、知らない。自分が招き入れようとしている女が、何者であるのかを。
対談の日取りが、決まった。
私は、ようやく、あの男の正面に、座ることになる。
その日にすべてをぶつけるつもりはなかった。まだその時ではない。
獲物に音もなく近づく、最初の一歩として。
スマートフォンを置き、私は、暮れていく窓の外を、しばらく、眺めていた。
*
その日、女性誌の記者である真島は、撮影スタジオの隅で、ひそかに、ため息をついた。
被写体は、いま、この国でもっとも注目を集める若い女性だった。ミス・ユニバース日本代表、神谷絵里香。
真島は、これまで、数えきれないほど美しい人間を、取材してきた。女優も、モデルも、見飽きるほど見た。けれど、目の前の娘は、そのどれとも、違っていた。
深い藍色のドレスが、抜けるように白い肌を、際立たせている。淡い金の髪は、ライトを受けて、絹糸のように光った。長い手足。細い首。すべてが、非の打ちどころなく整っていて、そのことが、かえって、どこか現実離れして見えた。まるで、精巧に設計された一個の彫像が、息をして、そこに立っているかのようだった。
和装も、現実離れしたスタイルを引き立てるだけだった。
日本中のあらゆる美女を集めたこの大会で、彼女は別格だった。
撮影クルーの男たちが、彼女がポーズを変えるたびに、息を呑むのが、わかった。
ベテランのカメラマンでさえ、ファインダーを覗きながら、「……参ったな」と、小さく呟いた。
その美しさは、ただ眺められるだけのものではなかった。
場の空気を、支配していた。彼女が微笑むと、誰もが、その微笑みに応えようとする。彼女が小首をかしげると、誰もが、その望みを先回りして叶えようとする。美しさが、これほどあからさまに、人を動かす力になりうるのだと、真島は、半ば呆れ半ば舌を巻いた。
撮影の合間に、真島は、いくつか質問をした。
医学部に通いながらの活動は大変ではないか。将来は何を目指すのか。型どおりの問いに、神谷絵里香は、淀みなく、感じよく、答えた。受け答えには、年齢に似合わぬ、不思議な落ち着きがあった。
けれど、と真島は思う。
言葉は、すべて完璧なのに、その奥がまるで見えない。
何人もの人間を取材し、その素顔を引き出してきた真島の勘が、しきりに何かを告げていた。この娘は、自分のことを何ひとつ語っていない。
美しい笑顔とそつのない言葉のそのさらに奥に、決して見せない別の顔がある。
「最後に、一つだけ」真島は、踏み込んでみた。
「神谷さんを、突き動かしているものは、何ですか」
一瞬、娘の瞳の奥に底の知れない光がよぎった気がした。
けれど、それは、ほんの一瞬だった。
「……まだ、探している最中なんです」
神谷絵里香はそう言って、また完璧に微笑んだ。
取材を終えて、スタジオを出ても、真島の胸には、奇妙なしこりが残っていた。
あれほど美しく、あれほど多くを語ったのに、自分は、あの娘について、結局、何も知ることができなかった。あの完璧な美しさは、まるで、何かを覆い隠すための、仮面のようだった。




