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Metamorphose  作者: 月の輝く夜に
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昼と夜


私の毎日は、昼と夜とで、まるで別のものに分かれていた。


昼は、医学部の一年生。教科書を抱え、講義に出て、若い学生たちに混じって過ごす。勉強し、学生同士で笑いあって過ごす。傍目からみると、青春そのものだ。


夜は、倉田の会社の、表に名の出ない頭脳。法が禁じる治療を、闇の中で設計する者。同じ一つの身体が、太陽の下と、月のない夜とで、まったく違う顔を持っていた。


どちらが本当の私なのか。そんな問いは、もう意味をなさなかった。私という存在そのものが、二人の人間の継ぎ目の上に、辛うじて立っているのだから。


大学の必修に、語学があった。


私は、迷わず、ドイツ語を選んだ。

理由は、自分でもわかっていた。エーリカ。この身体のもとになった、死んだ女。彼女と私が出会ったのは、ドイツの灰色の空の下だった。彼女の母語であり、私がかつてたどたどしく愛を語った言葉。それをもう一度学び直したかった。

最初の授業で、教官が簡単な自己紹介をドイツ語でしてみるように、と言った。


私の番が来た。口を開くと、流れ出てきたのは、初学者のものではない、滑らかな発音だった。教室が、静まり返った。教官が、目を丸くして私を見た。

「……ドイツに住んだことがあるのですか?」


私は、用意してあった答えを返した。親の一人が外国の人間で家では時おり、その言葉が使われていた、と。就籍のために組み上げた、あの来歴が、こんなところで役に立った。


けれど、私の舌が覚えていたのは、家庭で耳にした言葉ではなかった。ミュンヘンのカイザーシュトラーセにあったあの安アパートで、エーリカが私の名を呼んだ、あの声の響きだった。

ドイツ語を話すたびに、私の喉の奥で、死んだ女がかすかに息づいた。


春先のキャンパスは、サークルの勧誘で、戦場のようだった。


門をくぐるたびに、両側から、色とりどりのビラを差し出された。テニス、軽音楽、医療ボランティア、何かよくわからない研究会。けれど、私の前にできる勧誘の列は、ほかの新入生のそれとは、明らかに違っていた。


私を見るなり、勧誘する側が、言葉に詰まる。男子学生は、上ずった声で、要領を得ないことを言う。女子学生でさえ、一瞬、見惚れたように私を眺めた。中には、はっきりと下心を浮かべて近づいてくる上級生もいた。


そういう手合いを、語学クラスで友人となった立花が、見事にさばいてくれた。

「うちの神谷は、忙しいんで」

もはやマネージャーレベルだ。


立花は、私の腕を取って、人混みを縫うように歩いた。その手の温かさが、私には、妙にありがたかった。誰かに、当たり前のものとして腕を取られるのは、ずいぶん久しぶりのことだった。


結局、私は、どのサークルにも入らなかった。けれど、構内に貼られたミス・キャンパスのポスターの前を通るとき、立花が、ふと言った。

「神谷なら、こんなの、楽勝なのにね」

私は、曖昧に笑って聞き流した。


立花とは、不思議と馬が合った。

彼女は、医者の家に生まれ、当然のように医学部を目指し、当然のように受かった娘だった。屈託がなく、よく食べ、よく笑う。あまり女子らしさを前面に出すタイプではなく、私のような異物にも男子にも態度を変えない。


私のような得体の知れない人間にも、まっすぐに接してくれた。


「ねえ、藤崎のこと、どう思う」

藤崎。立花の幼なじみだという、あの物静かな男子学生だ。たまたまこの大学に入って再会し、同じクラスになった。初めて私のこの姿を見た時に、分かりやすく惚けて固まってしまった。


「どう、とは?」と、私はややとぼけて答えた。

「あいつ、神谷のこと、絶対好きだよ。わかりやすいんだから」立花は、楽しそうに続けた。「あんなに勉強できるくせに、神谷の前でだけぽんこつになるの」


私は、何も言わなかった。それは同じ男(だった者)としてよくわかる。


わかった上で、応えられないことも。けれど、その話をする立花は、単に女子同士の話の肴としてこの話を出して面白がっているだけであることは感じ取れたので、私がその点について何かをそれ以上答える必要はなさそうだった。


正直、それどころではない。大学の平和な学生生活の中ですら、私が女として振る舞うことには思わぬ落とし穴がいくつも潜んでいて、気が抜けない。


講義のあいだ、考えごとに没頭していると、私は、つい足を組んでしまう。男だった四十二年の染みついた癖だ。あるとき隣の立花が、血相を変えて、私の膝を、ぴしゃりと叩いた。

「ちょっと、神谷! 脚! 脚!」

見ると、私は、見事に脚を広げていた。スカートで。私は赤面して慌てて脚を閉じた。


立花との会話にも、私はよく、つまずいた。

彼女がほかの女子学生と、好きな韓国アイドルの話で、きゃあきゃあと盛り上がっているとき、私には、どう相槌を打てばいいのか、見当もつかなかった。仕方なく、韓国と日本のそれぞれの路線の違いについて論評してみた。

・・・結果は、0点だった。

「神谷って、たまに、おじさんみたいなこと言うよね」

図星すぎて、私は口に含んだコーヒーを危うく吹き出しそうになった。


それでも自分の身体と、女性としての生活に、少しずつ慣れていった。

慣れるにつれ、わかってきたことがある。


この身体は、ただ造作が整っているのではない。

動くたびに美しさがふわっと漂う。


歩けば、腰から下が、しなやかにうねる。

腕を伸ばせば、白い肌の上を、光が滑っていく。

髪をかき上げる何気ない仕草の一つにさえ、見る者の目を惹きつける、


ある種の魔力があった。


鏡の前で、私は時おり、自分の身体を、まるで他人のもののように眺めた。


なだらかな肩の線。胸のやわらかな張り。腰のくびれから、太腿へと続く曲線。それらは、遺伝情報が、寸分の狂いもなく描き出した、一つの芸術的な造形だった。


そして、いつものように、戸惑う。

男だった私の目が、女である私の身体を、美しいと感じているのは確かだが、それは欲望とも、自己愛とも違う、もっと醒めた奇妙なものだった。

私は、自分の身体を愛していたが、それは一つの作品として、作者として、その出来栄えにひそかに見惚れている、そういう感覚に近かったのかもしれない。

それに、どこかにエーリカの姿を借りているいう意識があって、それを自分の身体であると認めることに抵抗感を感じさせるのだ。

**********


夜が来ると、私は、倉田のラボへ行った。


倉田の会社が請け負う仕事は、表の医療が見捨てた人々を相手にしていた。


標準的な治療を尽くし、もう余命を数えるだけだと告げられた患者。その家族。

彼らは、最後の藁にすがる思いで、私たちのもとへたどり着いた。


窓口になるのは、いつも倉田だった。

私は、決して表には出ない。書類の上に存在しない人間が、患者の前に顔を出すわけにはいかなかった。私は、奥の部屋で患者の検査結果を読み、その一人ひとりに合わせて治療の設計図を描いた。


昼間、講義室では医師としての基礎的な心構えを教わっていた。

未承認の治療を人に施してはならない、医師としての資格を持たないものに医療行為をさせてはならないと。

そしてその夜に、私は、未承認の治療の薬液を注入する場所を指示していた。


矛盾を、感じなかったといえば嘘になる。けれど私のもとへ来る人々の目を見れば迷いは消えた。彼らは、もう失うもののない人間だった。立場は違えど、かつての私と同じ目をしていた。


その中に、一人の老人がいた。本人が生きたいと感じているというより、家族や、秘書を名乗る人間が、その老人を心から敬い、失うことができないと言ってここにたどり着いた。

珍しいケースだ。


その老人、九条匡義と会ったのは、その仕事が難しかったからだ。

末期の肝臓癌。全身に転移し、肝臓はもう半分も働いていない。

倉田の手には、明らかに余る症例だった。


「これは・・・ちょっと無理だ。お前が直に診てくれ」と、倉田はさじを投げた。


私は、迷った。表に出ないという、自分に課した掟を破ることになる。

けれど、放っておけば、その患者は、確実に死ぬ。


結局、私は研究員という曖昧な肩書きで、倉田の脇に控えることにした。

口数は少なく、ただ、必要なことだけを告げる無名の助手として。


九条匡義。痩せ細り、土気色の顔をした老人だった。

けれど、その目は死を前にしてなお、鋭い光を失っていなかった。


私は、彼の癌の遺伝子を解析し、癌細胞を食い尽くす幹細胞を慎重に設計した。年齢相応の増殖のスピードと、アポトーシスのタイミングを計り、ギリギリのところを見計らった。


もしかしたら、治療が効果を発揮する前にこの老人は亡くなるかもしれない。

そのことも告げた。老人は、全てを受け入れる目をして頷いた。


私は少し驚いた。ここに来る人間は何かに縋り付くような目をしている人ばかりだったからだ。


倉田が私の指示どおりに、何か所にも分けて注射を行った。

数週間の後、九条の腫瘍は縮んでいった。


治療のあいだ、九条は、ずっと私を観察していた。病み衰えた身体でベッドに横たわりながら、彼の目は部屋の中で起きていることを一つも見逃していなかった。


やがて回復した九条が私を呼び止めた。


「君だな」と、彼は言った。「この治療を、考えているのは」

私は、とぼけようとした。倉田が代表で、自分はただの助手だ、と。


九条は、薄く笑った。

「80年近く、私は、人を見て生きてきた」しわがれた声で、彼は言った。

「どの部屋にも、本当に物事を動かしている人間が、一人いる。たいてい、それは、いちばん前で喋っている男ではない。あの倉田という男は、何かを決めるたび、必ず君のほうをちらりと見る。指示を出しているのは、いつも君だ。違うかね」

私は、何も言えなかった。


「肩書きや、見てくれに、私は騙されん」九条は続けた。

「君はみてくれは若く美しい娘だ。だが、目は違う。君のような目をした人間を、私は、もう一人だけ知っている」

彼は、そこで、言葉を切った。


「鏡の中の、私だ」

私は、息を呑んだ。


「死んで、生き返った人間の目だ。一度、すべてを失った者の目だよ。君も、そうだろう」

彼が、私の何を見抜いたのか、正確なところはわからない。けれど、彼の言葉は、私の最も深いところを、まっすぐに射抜いていた。


回復を果たした九条は、私に、惜しみない感謝を示した。そして、こう言った。


「君が何をしようとしているのか、私は問わない。問わずとも、君のような人間が、このまま闇の中で終わるはずがないことくらい、わかる」

彼は、まだ青白い手で、私の手を取った。


「君が、表の世界で何かを成そうとするときが来たら、この老いぼれの力を使いなさい。金も、人脈も、好きに使えばいい。政も、財も、私の声が届かぬところは、そう多くない。それが、命を拾ってもらった、せめてもの礼だ」


私は、生まれて初めて、裏で自分を支える、強力な後ろ盾を得た。

名もなく、戸籍だけを頼りに世界へ放り出された私が、少しずつ、足場を固め始めていた。



その夜家に帰って、私は、財布の奥から一枚の名刺を取り出した。


いつか、キャンパスで、見知らぬ女性から手渡された、ミスユニバースジャパンの開催団体の名刺だ。

捨てられないまま、ずっとそこにあった。

私の中で、ある考えが輪郭を結び始めていた。


そのためには力がいる。

世界を、否応なく振り向かせる力が。


私は、その名刺をしばらく見つめ、意を決して電話をかけた。


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