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Metamorphose  作者: 月の輝く夜に
7/21

帰還


家庭裁判所の審判が下りたのは、冬の終わりだった。


就籍が、認められた。


私はその日、生まれて初めて――いや、二度目の生で初めて――自分の戸籍を、この手にした。一枚の紙の上に、私の名が、記されていた。


神谷絵里香。


名字は、神谷。

捨てたはずの、かつての自分の名字を、私は選んだ。理由は、藤村にも倉田にも説明しなかった。


名は、絵里香。

ありふれた、日本の女の名前だ。誰も、その響きの裏に何があるのかには、気づかない。エーリカ。私がこの姿を借りた女の名。それを、日本語の音の中に、そっと隠した。


神谷であり、絵里香である。

男だった私と、女だったエーリカ。二つの名を継いだこの名は、私という存在が、二人の人間の混ざりものであることを、誰にも知られずに告げていた。脳に残る神谷と、全身を覆うエーリカの肉体。私は、その両方であり、そのどちらでもなかった。


絵里香、と心の中で唱えるたびに、私は、死んだ彼女の名を、そっと呼んでいるようでもあった。


この名を名乗るかぎり、エーリカは、私の中で、生き続ける。失った人を、自分の名として抱いて生きる。そう思うと、作りものでしかないはずのこの名が、ほんの少しだけ、温かなものに感じられた。


役所の窓口で、係員が「神谷さん」と呼んだ。


私は、一瞬、反応が遅れた。その名で呼ばれるのは、ずいぶん久しぶりだった。けれど、振り向いたとき、そこにいたのは、もう、かつての神谷真ではなかった。



名前と戸籍を得て、私が次に考えたのは、学歴のことだった。


戸籍は得た。けれど、その戸籍には、過去がなかった。どこの学校を出たという記録もなければ、どこで働いたという経歴もない。神谷絵里香という人間は、たったいま、二十歳の姿で、この世界に現れたばかりだった。


そんな人間が、世の中で何かを成そうとするとき、社会は、必ず一つのことを問う。お前は何者だ、と。その問いに答えるための、最も確かな札が、学歴だった。


私が考えたのは大学の医学部だった。


その理由は、医師免許だ。倉田の名を借りて闇でやってきたことを、いつか、表の光の下でやるためには、医師という資格がいる。それに、医学部という肩書きは、何ものでもない私に確かな足場を与えてくれる。


ただ、そのための課題があった。私には、高校を出たという記録すらないのだ。


まず、高等学校卒業程度認定試験を受けた。高校を卒業していない者が、大学を受験する資格を得るための試験だ。私には、知識という土台があった。中身そのものは、何も難しくなかったので、簡単に合格することができた。


期限ギリギリだったが、出願が間に合い大学入学共通テストと二次試験に臨んだ。


受験勉強は、苦ではなかった。そもそも昔一度通った受験勉強だし、物理も、化学も、生物も、私がかつて、その最前線にいた分野だ。

英語も論文でさんざん書いた。


試験という形式は、奇妙に懐かしく、そして窮屈だった。決められた範囲の決められた答えを、決められた時間で書く。答えのない問いと格闘してきた私には、それは懐かしくもあり、いっそ遊びのようでもあった。


結果は、合格だった。


私が受けたのは、ある国立大学の医学部だった。

かつて、私自身が研究者として籍を置いた、あの大学だ。


ほかにも選べる大学は、いくらでもあった。金も稼ぐことはできる。わざわざ、自分を切り捨てた場所へ戻る理由など、どこにもない。むしろ、避けるべきだった。あの大学には、私のことを知る人間が、まだ大勢いる。


それでも、私は、あの大学を選んだ。


理由を、自分でもうまく説明できなかった。傷ついた獣が、自分を傷つけた場所へ、なぜか引き寄せられていくように。あるいは、まだ片のついていない何かが、あの場所に残っているのを私が知っていたからかもしれない。


誰も、私が誰であるかには、気づかない。

男だった四十二歳の研究者と、いま医学部の門をくぐる二十歳の女との間に、誰が線を引けるだろう。私はもう、完全に別人だった。


こうして私は、もう一度学生になった。


講義室に座ると、周りは、十八、十九の若者ばかりだった。外見だけを見れば、私も同じ入学したての一人だ。けれど、その身体の中には、四十二年を生きた男の記憶が丸ごと詰まっている。私は、二十歳の顔をして、彼らの倍以上の歳月を、すでに知っていた。


ちなみに、服装は、できる限り目立たないものを選んだが、「目立たない」ためには女性の服を着ることが必須だった。奈緒に勧められて、入学式ではスカートのスーツを選んだ。

男性の意識はスカートをはくことを拒否していたが、今の身体は誰がどう見ても女性であり、女性になりきるためには必要だと割り切らざるをえなかった。

かつての神谷との線を引かせないという意味でも、完全に女性になりきることは必須だった。生まれて初めて足を出して外を歩いた時は心もとなかったが、夏は涼しそうだとどうでもよいことを思った。


そうして門をくぐったかつての母校のキャンパスは、何も変わっていなかった。


古い時計台。すり減った階段。かつて、毎日のように通った研究棟。私は、男だった頃の自分が歩いた道を女になってもう一度歩いた。

すれ違う教官の中には、見覚えのある顔もあった。彼らは、私を、ただの新入生として見て、それから――若く美しい女として、もう一度見た。

誰一人、その顔の奥にいる男に気づく者はいなかった。


講義のあいだも、廊下を歩くあいだも、視線が私を追ってくるのがわかった。あの、初めて外へ出た日に感じた重さに、私はもう大分慣れていた。そしてそれを道具としてどう使うかを考え始めていた。


そういえば入学してすぐ、一人の女性が私に声をかけてきた。


洗練された身なりの、四十がらみの女性だった。名刺を差し出す。そこには、ある美の大会――ミス・ユニバースの、日本の運営に関わる組織の名が、刷られていた。


「不躾なお願いだとは、承知しています」と、その人は言った。「それでも、あなたのような方を、見過ごすわけにはいかないんです。ぜひ、大会に出ていただけませんか」


私は、すぐには答えられなかった。

美を競う大会。世界中の美女が一堂に会し、その美しさを審査され、順位をつけられる場。考えてみればおかしな話だ。

美しさなど、本来、測れるものではない。それなのに、人はそれを並べ、点数をつけ、序列をつける。主観的で、不確かなはずのものを、無理やり客観の檻に押し込めようとする。


かつて私は、絶望の果てに、自分の身体を物質として扱い、置き換えた。その果てに、思いがけず、ほとんど絶対と呼べるような美を手にした。


鏡の前で立ちつくした、あの夜。そして今、その絶対に近い美を、他人に見せつけるショーケースの中へ並べようとしている。


それなりに名のあるこの大会で頂点に立てば、世界が、私を見るだろう。名もなかった私が、消された一人の人間が、世界中の目に焼きつく。それは、私がいつか何かを成すための、これ以上ない足場になる。


同時に、嫌悪も覚えた。私という人間の中身を、何ひとつ知らずに、ただこの顔と身体だけを評価する、その視線への嫌悪が。

何よりも、この姿は借り物でもある。かつての恋人の姿を、そのような場にさらすことの抵抗が強い。


「考えさせてください」と、私は答えた。

名刺を財布の奥にしまった。

*******


その頃、大学は、一つの話題で持ちきりだった。

医学部のある教授が、ノーベル賞の有力な候補として、名を挙げられていた。


鷲尾隆三。

その名を、学内の掲示や、新聞の記事で見るたびに、私の胃の底が、冷たく重くなった。


鷲尾。かつて、私の指導教授だった男。私が十年をかけた研究を、自分の名で発表し、抗議した私を、逆に大学から追い出した男。私の人生を、奪った男だ。


そして今、彼は、その奪った研究を礎にして、人類最高の栄誉の、すぐ手前まで上りつめていた。


私の研究で。私の名が、消された場所で。


報道の中の鷲尾は、穏やかな笑みを浮かべ、後進の育成がどうの、科学者の倫理がどうのと、立派なことを語っていた。その顔を見るたび、私の中で、冷たい炎のようなものが、音もなく燃えた。


鷲尾と、初めてすれ違ったのは、研究棟へ続く渡り廊下でのことだった。


彼は、数人の取り巻きを従えて、こちらへ歩いてきた。年老いて、髪は白くなっていたが、あの傲慢な目つきは、何ひとつ変わっていなかった。

すれ違いざま、鷲尾の視線が、私の上で止まった。


一瞬。けれど、確かに、止まった。


その目に浮かんだものを、私は、正確に読み取った。欲望だ。

若く美しい女を前にした、隠しきれない欲。かつて、他人の成果を平然と奪った、あの貪欲さと、それは地続きだった。


彼は、私が誰であるかなど、知る由もない。ただ、目の前の美しい女を、手の届くものとして、値踏みしていた。


私は、表情を変えなかった。

胸の内で渦巻く憎悪を、奥深くへ押し込め、ただ、無関心を装って、彼の前を通り過ぎた。けれど、私の鼓動は、激しく打っていた。


お前の足元に、お前が踏みにじった人間が、別の姿で立っている。お前は、それを知らずに、その人間を、欲しがっている。


これほど甘美で、これほど残酷な皮肉が、あるだろうか。

渡り廊下を渡りきって、私は一度だけ、振り返った。鷲尾もまた、足を止めて、こちらを見ていた。


互いに、何も言わなかった。それでも、確かに、何かが始まっていた。


彼は、私を、手に入れたいものとして。私は、彼を、いつか必ず引きずり下ろすものとして。


私たちはまだ言葉を交わさない。その時は、まだ来ていない。けれど、その時が来ることを、私は、もう疑っていなかった。


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