足場
倉田が、会社を作った。
正確には、倉田の名で、会社を作った。
代表取締役、倉田修一。
登記簿に並ぶのは、彼の名前だけだ。私には、名前がない。書類の上に存在しない人間は、会社の一行にも載れない。出資も、契約も、口座の開設も、すべて倉田を通すほかなかった。
皮肉なものだと思った。かつて私は、自分の研究を他人の名で発表され、それに耐えられずに、すべてを失った。それなのにいま、私は自ら進んで、自分の仕事を倉田の名の陰に隠している。違うのは、ただ一点。倉田を、私が信じているということだけだった。
会社が掲げたのは、医療コンサルだった。
しかし、売るのは営業ノウハウではない。
損なわれた遺伝子を、外から補い、あるいは書き換える。私が半生を捧げてきた分野の、すぐ隣にある技術だ。私の頭の中には、論文には決して書けなかった知見が、いくつも眠っていた。自分の身体で証明してしまった、常軌を逸した知見が。
治験も経ていない治療法は表向きには使えない。
けれど、闇の中でなら、使える方法がある。
倉田には、医者の知人がいた。
地方にある古い個人病院の院長だ。
そこには、行き場のない患者が流れ着いていた。大学病院でさじを投げられ、標準的な治療を尽くし、もう打つ手がないと告げられた人々。あとは、痛みを和らげながら、終わりを待つだけだと。
そういう患者の何人かに、私たちは、まだ世に認められていない治療を施した。
無許可だった。違法だった。
本来なら、長い年月をかけて治験を重ね、国の承認を得てからでなければ、人に使ってはならないものだ。手順を飛ばすことが、どれほど危ういか。
それを、私はいちばんよく知っていたし、本人たちにも説明した。
それでも、私たちは、針を刺した。
失うもののない人々が、そこにいた。かつての私と、同じだったからだ。
最初の患者は、五十代の男性だった。膵臓に生じた癌は、もう全身に転移し、医者は余命を数週間と見ていた。
私は、彼の遺伝子を解析し、増殖する幹細胞が、癌の細胞を食い尽くし、その上でアポトーシスするように設計した。自分の身体を作り替えたときに学んだ、あの原理の応用だが、それをがん細胞を食い尽くすか食い尽くさないかというレベルに抑えたものにした。
二週間後、男性の腫瘍は、目に見えて縮んでいた。
院長は、検査結果を前に、言葉を失っていた。
奇跡だ、と彼はつぶやいた。私は、奇跡という言葉が嫌いだった。
これは奇跡ではない。設計され、計算された結果だ。ただ――その計算の根にあるものが、私自身の身体をいつ壊すともしれない、あの制御しきれない力と、同じものであることも、私は知っていた。
人を生かす力と、私を蝕むかもしれない力は、表と裏で、一つだった。
そして、この治療を受けた患者の予後すらも決して保証できるものではない。
そのことも患者には伝えた。
噂は、医者から医者へ、声をひそめて伝わっていった。
表に出せない患者を抱えた医師たちが、藁にもすがる思いで、倉田を訪ねてくるようになった。報酬は、相応のものだった。違法であるがゆえに、相場というものがない。命の瀬戸際にいる人間と、その家族が払えるだけのものを、彼らは払った。
私の手元に、初めて、まとまった金が入った。
名もなく、戸籍もない私が、この世界に足場を築くための金だった。
その一方で、私はゆっくりと、住む場所を失いつつあった。
あの家は、書類の上では、いまも神谷真のものだった。けれど、神谷真はもう、どこにもいない。存在の形跡すらない。
私は失踪した者として、あるいは死んだ者として、世界に処理されつつあった。
電気が、止まった。料金の引き落としが、途絶えたからだ。ガスも、水道も、一つずつ機能を失っていった。郵便受けには、督促状と、私には開ける資格のない封筒が、溜まっていく。あるとき、見知らぬ男が訪ねてきて、扉を何度も叩いた。私は、息を殺して、やり過ごした。失踪した神谷真の行方を捜す者か、それとも、この家を処分しようとする誰かか。
自分の家の中で、私は、招かれざる侵入者だった。
かつて私の人生だった場所は、灯りを失い、冷えていき、もはや人の住む場所ではなくなっていった。私は、自分が生きていた痕跡が、世界から少しずつ拭い取られていくのを、ただ見ているしかなかった。止めたいが、止められる手段がなかった。
行く当てが、なくなった。
私は、倉田に頼るほかなかった。
倉田は、しばらく考えたあと、家族に話すと言った。妻に、すべてを打ち明けて、一時的に家にいられるようにすると。私は止めようとした。こんな話を信じられるはずがない。下手すると彼の家庭を壊してしまうかもしれない。
「ここまで世話をして、いきなりお前を寒空の下に放り出せるわけがないだろう」倉田は、そう言った。「それに、妻はきっとお前の力になってくれる」
数日後、倉田は、妻の了承を取りつけてきた。一時的に、私を彼の家に住まわせることに。どんな言葉で説明したのか、妻がどんな思いでそれを受け入れたのか、私には想像もつかなかった。
倉田の家は、郊外にある、ささやかな一軒家だった。
妻の名は、奈緒といった。倉田より少し若い、落ち着いた物腰の女性だ。玄関で初めて顔を合わせたとき、奈緒は、少し私を見つめた。値踏みするのでも、おびえるのでもない。優しい目だった。
「あなたが..」と、奈緒は言いかけて、口をつぐんだ。
それから、ふっと表情をやわらげた。
「とりあえず、上がってください。話は、それからで」
その一言に、私は、不覚にも泣きそうになった。
誰かに、まっとうな人間として扱われるのが、ずいぶん久しぶりな感じがした。
家には、五歳になる娘がいた。
娘は、私を見るなり、目を輝かせて「きれいなおねえちゃん」と言った。子どもの目に、私は見慣れないただの美しい女の人として映っているらしかった。その無邪気さが、胸に刺さった。かつて私にも、娘がいた。連れ去られたあの子のことを思い出させた。
それから、猫が2匹いた。それぞれ「チョコ」と「マーブル」と名付けられた猫が保護猫だったことは後から聞いた。
どうやら私は彼らと同様に扱われていいたと知ったのは大分後だ。
奈緒は、女としての私が、何ひとつできないことに、すぐに気づいた。
服の選び方も、下着の合わせ方も、私は知らなかった。身体の洗い方すら分かっていなかった。
だぶついた男物のシャツを着続ける私を見かねて、奈緒は、自分の服の中から、似合いそうなものを見繕ってくれた。あの実験から初めて、自分の身体に合う服を着たとき、鏡の中の像が、ようやく一人の女性として、輪郭を結んだ気がした。
下着についても困っていたが、奈緒は、ごく当たり前のこととして切り出した。
私が顔を赤らめると、彼女は小さく笑った。「身体が違うんだから、当たり前でしょう」と。その実際的な口ぶりが、かえって私を救った。
女であることを、奈緒は、神秘でも重荷でもなく、ただの日々の営みとして、私に手渡してくれた。
ただ、その下着の付け方には、私は、一人、本気で、唸らされた。なぜこの留め具は、背中という、体で最も手の届きにくい場所に、配置されているのか。前に付けて、回す。なるほど。だが、それにしても構造としてまったく合理的ではない。私がその設計の不合理を力説すると、奈緒は、とうとうお腹を抱えて笑い出した。
「あなた、ほんとに、理屈っぽいのね」
さんざん笑われた。それでも不思議と悪い気はしなかった。
そして、決定的な出来事が起きた。
私は、自分の身体に起きたことに、うろたえた。
下腹部の鈍い痛みと、流れ出る血。男だった私には、知識としてしか知らなかったものが、いま、現実として私の身に起きていた。あの実験で形づくられた新しい臓器が、ついに、女としての営みを始めたのだ。私は、どうしていいかわからず、ただ立ちつくしていた。
奈緒が、すべてを察して、手際よく面倒を見てくれた。必要なものを揃え、こうするのだと、淡々と教えてくれた。恥ずかしさよりも、心細さよりも、私の胸を満たしたのは、奇妙な感慨だった。
私は、本当に女になったのだ。
外見だけではない。声でも、骨格でもない。この身体は、女としての時を、刻み始めていた。客観的な事実として、私の身体は女だった。そしてその事実を、私は、奈緒という一人の女に支えられて、ようやく受け入れ始めていた。
住まいが定まり、暮らしが落ち着いてくると、私は、藤村弁護士のもとへ再び通うようになった。
就籍の壁は、私の外見にあった。日本人には見えない顔。それが、入国管理の疑いを呼び、話を行き止まりにしていた。
その壁を越える筋道を、藤村は、辛抱強く探してくれた。
やがて、一つの来歴が組み上がっていった。日本で生まれ、外国人の親を持ちながら、事情があって出生の届出がされないまま、戸籍を持たずに育った――そういう人間としての筋書きだ。外見と、戸籍のなさと、日本で暮らしてきたという事実。そのすべてに、矛盾なく説明がつく。
無戸籍のまま大人になった人は、現に存在する。私の顔立ちも、混血という線でなら無理なく収まった。
裏づけとなる断片を、倉田の伝手と、私の手元に入り始めた金が、少しずつ集めていった。証言してくれる者。私がその土地で暮らしていたという、ささやかな痕跡。完全ではない。けれど、家庭裁判所の調査に、ぎりぎり耐えうるだけのものが、形になりつつあった。
「これなら、いけるかもしれません」
書類を前に、藤村は、初めてそう言った。慎重な彼女が、口にした初めての前向きな言葉だった。
長く、危ういと思っていた道に、初めて、出口の光が差した。
その夜、私は、倉田の家の縁側で、一人、月を見ていた。
名もなく、戸籍もなかった私に、いま、戸籍が手に入りかけている。新しい名前を、近いうちに、選ばなければならない。
神谷の延長としてでもなく、エーリカの写しとしてでもない。まったく新しい誰かとして、私は、この世界に名を刻む。
そう考えたとき、胸の奥が、静かに熱くなった。あの実験の夜に感じた、身を焼くような熱とは違う。もっと深く、もっと静かな熱だった。
足場は、できつつある。金も、住む場所も、やがて手に入る名前も。
けれど、私が本当にやりたいことは、その先にあるような気がした。
この身体で、この顔で、この頭の中の知識で、世界の何かを、変えてみせること。
消された一人の人間が、まったく別の姿で生まれ直し、誰にも消せない何かを、残すこと。
月明かりの下で、私は、まだ見ぬ自分の名を、心の中で、そっと呼んでみた。
*****
夫が、とんでもないことを言い出したのは、ある晩のことだった。
昔の親友を、しばらく家に住まわせたい、と。倉田の妻、奈緒は、最初その意味がよくわからなかった。親友。けれど、連れてこられたのは、見たこともないほど美しい若い外国人風の女だった。
夫は、信じがたい話をした。この女が、かつて男だった、自分の旧友なのだと。
正気を疑った。けれど、夫の目は嘘をついている目ではなかった。
半信半疑のまま、奈緒は、その女を家に迎え入れた。
神谷、と名乗ったその人は本当に奇妙な存在だった。
外見的には、美しすぎて現実味がない。その姿は、まるで壁画に描かれた天使のようだった。
透き通る肌も、淡い金の髪も、長い手足も、柔かい曲線も。女性として持ちたい全ての要素を兼ね備えている。
けれど、その美しい女は、女としての暮らしの現実を何ひとつ知らなかった。
下着の合わせ方も、月のものの始末も。台所に立つ後ろ姿は、どこか所在なげだった。
奈緒は、ひとつひとつ、教えた。
教えるうちに、奈緒の中で、最初の戸惑いは、別の感情に変わっていった。
この人は、ほんとうに、ゼロから、女になろうとしている。突然自分の殻を脱ぎ捨てさせられ、美しい器に入れられて途方に暮れている、一人の人間が、そこにいた。まるでもう一人娘が増えたようなものだ。
...もちろん、自分にこんな大きな娘がいたことはないが。
ただ、奈緒は、思うことがあった。
これほど完璧な美しさは、いったい、どこから来たのだろう。
神谷が、鏡を見るときの、あの複雑な目。喜びでも、自惚れでもない。もっと、寂しげな、何かを悼むような目を奈緒は見てとった。
あの人は、きっと、鏡の中に、自分ではない誰かを見ている。
そう感じる。
私が、突然できたもう一人の娘に対して、何かしてあげられることはあるだろうか。




