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Metamorphose  作者: 月の輝く夜に
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検証

外へ出るのは、変化が始まって以来、初めてのことだった。


まず、家を出るまでにずいぶん時間がかかった。


鏡の前で、何度も立ちすくんだ。クローゼットには、当然ながら、いまの身体に合う服など一着もない。かといって、出ていった妻が残していった服を身に着ける勇気もない。


仕方なく、いちばん小さなシャツとズボンを選び、袖と裾を幾重にも折り返した。身長がさして変わったわけではないが、だぶついた布の中で、白く細い身体が泳いでいた。靴も、縮んだ足のサイズにはかつての私の靴が合わず、不格好というレベルを超えていた。慣れない体で靴すらも違うと転んでしまいそうだった。

仕方なく、靴だけはかつての妻のスニーカーを使った。今度は少し小さいような気もしたが、なんとか歩けるレベルだった。


サングラスをかけ、マスクで口元を隠した。

そして、ドアを開け、外の世界へと勇気を振り絞って歩き出した。


そこに、見知ったはずの街の風景がそこに広がっていた。

だが、感じ取れるものは全く違った。


もうすぐ秋口だが、世界はきらきらと輝き、自分にはまぶしすぎるようだった。

サングラスをしてきて正解だった。

風も、42歳の男性だった時には感じ取りにくかった感覚がダイレクトに自分に伝わってくる。


そして、何より違うのは視線だった。

あらゆる人が振り返る。

男も、女も、子どもさえも、一瞬だけこちらを見て、それから慌てたように目を逸らす。

見たくてたまらないのを、懸命に抑えるように。

じろじろと見ることが失礼であることを知りながら、惹きつけられ、目を離せないように。


視線というものに、これほどの重さがあるとは、男だった頃の私は知らなかった。四十二年のあいだ、私は誰の目にも留まらず、雑踏の一部として歩いてきた。いまは違う。

歩いているだけで、空気が私を中心に、わずかに渦を巻く。


不快だった。それなのに、どこかで――認めたくはないが――心地よくもあった。その心地よさのほうが、よほど不快だった。


そして、この身体の扱い方が、まるでわからなかった。

歩けば、歩幅が合わない。

男だったときのように大股に踏み出すと、腰の骨盤が邪魔で、アヒルが尻をふるような不格好な歩き方になる。重心が、以前より上にある。胸のふくらみは、少し動くだけで揺れて、その重さに気を取られる。腕を組もうとして、行き場のなさに戸惑う。

四十二年かけて覚えこんだ身体の使い方は、もう何ひとつ通用しなかった。私は、生まれたばかりの赤ん坊のように、この身体を、一から学び直さなければならなかった。


信号待ちで、隣に立った男が、しきりにこちらを気にしているのがわかった。やがて、道を訊くふりをして、声をかけてくる。たわいない口実だった。男だった頃の私なら、すれ違ったことすら忘れていたであろう類いの男だ。その同じ生き物が、いまは私に向かって、媚びるような笑みを浮かべている。私は、どう振る舞えばいいのか、見当もつかなかった。曖昧にうなずき、足早にその場を離れた。背中に、まだ視線が貼りついていた。緊張で、手に汗がべったりにじんだ。


駅で、手を洗おうとして、私は便所の前で立ちすくんだ。どちらに入ればいいのか。長年、考えるまでもなくくぐってきた扉が、いまは固く閉ざされているように見えた。


この顔と、この身体で男性用に入れば、ただではすまない。かといって、女性用の扉をくぐることにも、後ろめたさに似た抵抗があった。自分が何者であるかという問いが、こんな日常の些細な場面で、容赦なく突きつけられる。私は結局、どちらにも入れないまま、その場を離れた。


声も、私を裏切った。店で何かを尋ねようと口を開きかけて、やめた。喉から出てくるはずの高い声を、まだ自分のものとは思えない。その声を、見知らぬ他人に聞かれることが、なぜか怖かった。私は、できるだけ口をきかずに済むよう、身振りで用を足した。沈黙の中に身を隠すようにして、私は街を歩いた。 


向かう先は、倉田のところだった。


大学院の同期で、同じ研究室で五年を過ごした男だ。十年前に大学を見限り、いまは郊外で、小さな民間の検査ラボを営んでいる。腕は確かで、口は堅い。心から信頼できる人間など、もう倉田のほかに、この世に残っていなかった。


ラボのインターフォンを押すと、しばらくして、倉田が出てきた。


私の顔を見て、彼は明らかに身構えた。見知らぬ外国人らしき若い女が、自分の職場の前に立っている。当然の反応だった。


「……どちらさまですか」

警戒のにじむ声。私は、何から話せばいいのか、わからなかった。声まで変わってしまった私が、何を言ったところで、信じてもらえるはずがない。


迷った末に、私は昔の話を始めた。

大学院の二年目、倉田が研究をやめると言い出した夜のことを。実験は何度やっても失敗し、指導教官には見放され、彼は荷物をまとめて出ていこうとしていた。私はそれを、屋上で引き止めた。そして、あることを言った。その言葉を、私はそっくりそのまま、いま彼に向かって繰り返した。

あの夜、屋上で交わした、二人のほかに誰も知らないはずの言葉を。「また、道は交わる」


倉田の顔から、表情が消えた。

「……なんで」声が、かすれた。「なんで、お前がそれを知ってる」

お前、と彼は言った。目の前の若い女に向かって。理屈より先に、何かが彼に伝わったのだ。

私は、マスクを外した。


「神谷だ」と、私は言った。「信じられないのは、わかってる」

倉田は、長いあいだ動かなかった。やがて、無言で扉を大きく開け、私に入るように手で合図した。


中に入ってからも、彼はろくに口がきけなかった。コーヒーを淹れようとして、カップを取り落とす。割れた破片を拾う手が、震えていた。


私は、すべてを話した。研究を奪われたこと。家族が消えたこと。そして、自分の身体に、何をしたのか。幹細胞に、エーリカの遺伝情報と、がん細胞の性質を組み込んだこと。


倉田は、科学者としてそれがどれほど常軌を逸した行為かを誰よりも正確に理解した。

話を聞き終えると、彼は両手で顔を覆った。


「お前は……とんでもないことをしたな」


それから顔を上げ、私を見た。怒りと、恐れと・・・その奥に隠しきれない好奇心とが、そこにあった。科学者の目だ。私にも、覚えのある目だった。


「調べさせてくれ」と、倉田は言った。私は頷いた。


それから数日、私は彼のラボに通い、考えうるかぎりの検査を受けた。採血、組織の生検、全身の画像、そしてゲノムの解析。



結果が出そろった日、倉田は資料を前にしばらく言葉を選んでいた。


「まず、ゲノムだ」彼は一枚目を示した。「お前の細胞の大半は、確かに別人のものに置き換わってる。男性の染色体がないことから、元の遺伝情報じゃないことは明白だ。ただ――完全じゃない」


組織によって、まだ旧来の細胞が残っているという。血液や皮膚はほぼ入れ替わっているのに、置き換わりにくい場所がある。私の身体は、二人の人間が混ざり合った、モザイクのようなものになっていた。


倉田は、宣告するようにいった。

「お前の身体は、エーリカになったわけでも、神谷のままでいるわけでもない。どちらでもない、別の何かだ」


私は、その言葉について、すとんと腑に落ちるような気がした。今の状況を説明するという意味でも、自分自身の心境という意味でも。


倉田は、二枚目を出した。脳の画像だった。

「いちばん面白いのは、ここだな」

神経細胞は、ほとんど分裂しない。だから、際限なく増えては入れ替わる細胞の波も、脳にはほとんど及んでいない。頭蓋が縮んだぶん、わずかに小さくはなっている。それでも、私の脳は――記憶と、思考と、人格を宿すその器官だけは――おおむね旧来の私のまま残っていた。


「皮膚も、血も、骨も、声も、何もかも入れ替わったのに」倉田は、画像を指でなぞった。「いちばん『お前』を作ってる場所だけが、置き換わらずに残ってる。皮肉な話だな」


皮肉ではない、と私は思った。

それは一つの答えだった。


あの夜、自分の腕に針を刺す前に立てた問い――身体のすべてが別人のものになったとき、人はどこで「私」でいられるのか。その答えが、いま、一枚の画像の上にあった。最も置き換わりにくい器官が、最も深く「私」を担っていた。身体は捨てられても、ここだけは、そう簡単には捨てられないようにできている。


ただ、倉田の表情は、最後まで晴れなかった。


「問題は、これだ」三枚目を出す彼の声が、低くなった。


役目を終えたがん細胞は、すべて死に絶えていた。ところが検査の数値は、増殖を抑える仕組みが、まだ完全には止まっていないことを示していた。テロメアを際限なく修復する酵素の活性も、異様に高いままだという。


「いまは落ち着いている。変化も止まった。でも、この状態が一生続く保証は、どこにもない」倉田は、私の目を見た。「いつまた暴走するか、わからない。お前の身体は、奇跡のようなバランスで成り立っている。だが、その奇跡が、いつまでもつのかは、誰にもわからないんだ」


若返った身体。揺るぎない美。そのすべてが、いつ崩れてもおかしくない、危うい均衡の上に立っている。私は、有限かもしれない時間を生きている。借りものの、しかも返済期限のわからない生だった。


不思議と、絶望はしなかった。むしろ、頭の芯が冴えていくのを感じた。時間が限られているのなら、それを何に使うかを、選ばなければならない。



検査が一段落したあと、私は倉田に、もう一つの問題を打ち明けた。


私は、書類の上では、もう存在しない人間だった。神谷として生きるわけにはいかない。顔も指紋も、何ひとつ一致しない。かといって、いまのこの身体には、名前も、戸籍も、何もなかった。

「俺は、医者でも法律家でもないから役には立てないが」倉田は言った。

「心当たりはある」


古い知人に、弁護士がいるという。事情を根掘り葉掘り問いただす前に、まず話を聞いてくれる人物だと。


数日後、私は倉田に連れられて、その弁護士の事務所を訪ねた。


弁護士は、藤村という、四十代半ばの女性だった。物腰は柔らかいが、目は鋭い。私の顔を一目見て、視線がほんのわずか、止まった。それから、何事もなかったように、向かいの椅子を勧める。その一瞬の間を、私は見逃さなかった。法律の専門家であっても、まず外見に反応する。そういうものなのだと、また一つ、学んだ。


私は、用意してきた筋書きを話した。事情があって、自分には戸籍がない。出生の届出が出された形跡もなく、これまで身分を証する書類を持たずに生きてきた――そういう話だ。嘘の中に、本当を、ぎりぎりまで混ぜた。


藤村は、口を挟まず聞いていた。聞き終えると、いくつか質問をした。鋭い質問だった。両親のこと。育った場所のこと。これまで、どうやって生活してきたのか。私は答えをはぐらかし、藤村はそれを、はぐらかしと正確に見抜いた。それでも、彼女は深追いしなかった。


「就籍、という手続があります」と、藤村は言った。


戸籍を持たない人が、家庭裁判所に申し立てて、新しく戸籍を作る制度。捨て子や、何らかの事情で出生届が出されないまま育った人のために、いまも現に使われている手続だという。


「ただ」と、藤村は続けた。「簡単ではありません。家庭裁判所の調査官が、あなたの来歴を調べます。本当に戸籍がないのか。日本で生まれた人なのか。それを裏づける資料や、関係者の証言を、できるかぎり集めることになる。何ヶ月もかかりますし、場合によっては、もっと」


彼女は、まっすぐに私を見た。

「正直に申し上げます。あなたの場合、見た目が――失礼ながら、日本人には見えない。家裁は当然、あなたが外国籍ではないかと考えます。そうなると、就籍ではなく、入国管理の問題になる。在留資格は何か。いつ、どうやって入国したのか。その説明が、つかないんです」


私は、何も言えなかった。


「いまの段階で、すぐにどうこうできる話ではありません」藤村は、静かに言った。「ご自分が何者であるかを、書類ではなく、まず筋の通った形で説明できるようにする。話は、そこからです」


私は、礼を言って事務所を出た。手に入れたのは、情報だけだった。それでも十分だった。道があることは、わかった。長く危うい道だが、

確かにある。


事務所からの帰り道、私は考えていた。


就籍までの道のりは、長い。そのあいだ、私はどこに住み、どうやって食べていくのか。神谷名義の口座にも、資産にも手は出せない。私はいま、一円も持たず、名前もなく、ただこの身体と、頭の中の知識だけを抱えて、世界に放り出されている。


身体と、知識。


ふと、足が止まった。


私には、何もない。けれど、一つだけ、確かなものがある。

この身体は、世界中の誰も再現できない、生きた技術そのものだ。再生医療も、細胞の若返りも、私はこの身をもって証明してしまった。そして頭の中には、それを言葉にできるだけの知識がある。


売れるものが、あるのではないか。そう思った。

消された中年の男には、誰も見向きもしなかった。だが、この顔と、この身体を持つ女が、確かな中身を引っさげて立ったなら――開く扉が、きっとある。


長い道を行くには、まず力がいる。金がいる。名前すらない私が、この世界に新しい名前を刻むための、足場がいる。迷っている暇はない。


私は、細い小さな足で、また世界を歩き出した。


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