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Metamorphose  作者: 月の輝く夜に
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新生

その後も、夢と現の境を漂いながら、水と流動食だけで、私は生き延びた。


夢の中では、高校時代の友人との他愛ない会話、理学部時代のサークルの合宿、在りし日の家族旅行...様々な光景が目の前を通り過ぎた。


しかし、手を伸ばしても届かなかった。

目を覚ましても現実感がなく、どちらが夢なのか分からない。


さらに一週間が過ぎた。


口の中に、白い歯が生えそろっていた。髪も伸びた。人の髪は、ふつう一月に二、三センチ伸びるものだが、私のそれは、すでに肩にかかろうとしていた。がん細胞の、際限のない増殖能力。その置き土産だろう。


激しかった変化は、ようやく凪いできた。嵐が過ぎたあとのような、奇妙な静けさが、身体の内に満ちていた。


私は、一ヶ月ぶりにシャワーを浴びることにした。


立ち上がると、まだ身体のあちこちに、剝がれかけの皮膚が残っていた。パジャマを脱いで、浴場へと踏み出す。湯を浴びると、それらがゆっくりと流れ落ちていく。排水口へ吸い込まれていくのは、男だった私の、最後の残滓だった。

それらが流れていくところを、私は見送った。


驚きや恐怖は、もう湧かなかった。そういう段階は、とうに過ぎていた。


肌の感覚が鋭敏で、嫌でも自分の身体の変化を理解させる。胸の膨らみを伝って湯が落ちていく。


湯気の曇りを乱暴に手で拭い、私は初めて、自分の身体の全体を、鏡に映した。


何百回、何千回と私の姿を映してきたその鏡が映し出した鏡が結んだ像は、私が記憶に残していたものとは違いすぎた。

一言でいえば、そこにいたのは、女だった。それも、白人の。


長く、細い指と手足。なだらかな肩。胸の、二つのふくらみ。深くくびれた腰。そこから張り出す、丸み。体毛はほとんどなく、女としての形が、あらわになっていた。


外見上の特徴の、ひとつひとつを、私は科学者の目で確かめていった。骨盤の角度。皮下脂肪の分布。喉仏の消失。すべては、性ホルモンと遺伝子発現の結果として、説明がつく。説明は、つくのだ。


それでも、鏡の中のそれを、ただの「結果」として見ることが、私にはできなかった。


顔を注視した。

かつてのエーリカに、よく似ていた。


つんと高い鼻。額から眉にかけての、彫りの深いくぼみ。すっと尖った顎。思慮深さと愁いをたたえた面立ち。白人に多い面長な印象はなく、少女のような輪郭。彼女も、そういう顔をしていた。


鏡の中から、死んだ女が、私を見つめ返していた。もう二度と会えないはずだった人が、いま、私自身の顔として、そこにいる。淡い金の髪が、濡れて、頬に貼りついている。懐かしさと、後ろめたさと、名づけようのない切なさが、いちどに込み上げた。私は、彼女を取り戻したのか。それとも、彼女の死を、この身体で、なぞっているだけなのか。


ただ、よく見ると完全に彼女と同じではなかった。目元のあたりや、頬の線に、どことなく、東洋人の面影がにじんでいる。置き換わらずに残った、かつての私が、そこに、透けて見えている。


衝撃の質が変わった。美しい、と思った。


それは、私の主観ではなかった。少なくとも日本人なら、百人が見て、百人が「美しい」と答えるだろう。そう確信できるだけの、何かが、そこにあった。


美というものは、本来きわめて主観的で、不確かなものだ。見る者によって揺らぎ、文化によって移ろい、決して数値では測れない。私は、そう信じてきた。


ところがいま、鏡の中には、ほとんど絶対と呼んでいいような、揺るぎない美が、立っていた。

あたかも彫像のような完全な形状と、その中に宿る生命の躍動感。


皮肉なものだ、と思った。私は、自分の身体を物質として――置き換えのきく、ただの有機化合物として扱い、それを捨てるつもりで、この実験を始めた。なのに、物質を組み替えた果てに手にしたのは、よりにもよって、私がもっとも不確かだと信じていた「美」だった。


その美しさが、自分のものであるという事実に恍惚感すら覚えた。


そうして鏡で見つめているうちに、記憶のなかのエーリカと違う部分にもう一つ気づいた。


どこが、とは言えない。けれど、確かに違う気がした。それは年齢の差なのか、それとも、彼女が現実の世界で生き、重ねた時間――私の知らない歳月の差なのか。


鏡の中の顔は、二十歳に達しているか、いないか、というところに見えた。もしかしたら、若返っているのかもしれない。輝かんばかりの生命力が鏡の中の女に更に光を加えている。


私がエーリカと出会ったのは、彼女が二十五のときだった。あのときの彼女より、若い。


思い当たることは、あった。がん細胞は、テロメア――染色体の末端を守る、いわば回数券のような構造を、テロメラーゼという酵素で復元しながら、際限なく分裂を続ける。細胞が「歳をとらない」のだ。その性質が、私の身体を、若返らせたのかもしれなかった。


――そういえば。

中身のほうは、いったいどうなっているのだろう。

役目を終えたがん細胞は、すべてアポトーシスして、消え去ったのか。それとも、まだどこかで、際限のない増殖を続けているのか。


そう考えた瞬間、自分でも意外なことに、胸の奥で、何かがむくりと頭をもたげた。


科学者としての、好奇心だった。

あれほど死を願い、すべてを捨てるつもりで始めたはずなのに。鏡の中の、見知らぬ美しい女は、もう一度、この身体の内側を覗いてみたいと、確かに思っていた。


最後に鏡を見ると、失ったはずの「私」が、別の顔をして、そこに立っていたように思えた。


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