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Metamorphose  作者: 月の輝く夜に
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変化

翌朝、目を覚ましたとき、私はある種の拍子抜けを覚えた。自分の体が毒虫に変わっている、などということもなかった。


何も、変わっていない。


ベッドに寝たまま手を天井にかざした。天井はいつもの天井で、腕はいつもの腕だった。起き上がり、鏡を見ても、そこにいるのは見慣れた中年の男だった。



ただひとつ、左腕の奥に、消し炭のような熱が残っていた。深いところで何かがくすぶっている、そんな熱だった。


失敗したのだろうか。あるいは、何も起こらないのだろうか。私は半ば安堵し、半ば落胆した。



だが、異変が目に見える形をとったのは、それから一週間後だった。それは気の所為と言うにはあまりに顕著だった。左手で何気なくガラスのコップをつかもうとして、指先がコップにあたる。違和感に気付いた。


左腕が、細い。


右腕と並べてみると、違いは明らかだった。筋肉が落ち、骨が華奢になり、線そのものが変わっている。皮膚の所々が、痣のように黒ずんでいた。


指すらも、わずかに長くなったように見えた。手のひらも心なしか小さい。並べてみると、左右の腕が別々の人間のものであるかのように不均衡だった。

そして明らかに熱を持っている。



熱は、引かない。


左腕の黒ずんだ皮膚は、日ごとに色を濃くしていった。やがてそれは、乾いた瘡蓋のようになった。アポトーシスだ。古い細胞が、命じられたとおりに死んでいく。


私はその黒い皮を、おそるおそる端から剝がしてみた。


痛みは、なかった。

下から現れた皮膚を見て、私は息を呑んだ。


白い。

自分のものとは、とても思えなかった。透き通るような白さと、瑞々しさ。

白磁、という言葉が浮かんだ。完全な白さを保つ薄い皮膚の奥に、血の色がほのかに透けて、かろうじて人間としての温度を保っている。


それは、醜悪な変化のただ中に、ふいに差し込んだ一片の美だった。


科学者としての私は、これを、単なる色素の減少として説明できる。メラニンが少ない、ただそれだけのことだ。だが、目の前のそれを「美しい」と感じてしまう私を、私は止められなかった。物質としての説明と、美しいという感覚との間には、どうしても埋まらない隙間があった。


実験から二週間が過ぎる頃には、左の前腕から指先までが、すっかり置き換わっていた。自分ではない誰かの、白く細い美しい手が私の腕の先に、不格好についていた。


...そして、この頃から、全身が燃えるように熱くなった。 


細胞の転移が始まったのだ、と理解した。

左腕で起きたことが、いま、全身で起ころうとしている。胸が、腹が、背が、内側から灼かれていく。自分の肉が、新しい細胞に喰い尽くされていくおぞましい感覚。


神の領域に土足で踏み込んだ罰だ。


誰かにそう言われているような痛みが、何日も間断なく押し寄せた。叫んだのか、叫べなかったのか、それすらわからない。私はベッドの上で、意識を手放した。




次に意識が戻ったとき、どれだけの時間が過ぎたのか、見当もつかなかった。あとから数えれば、ひと月近くが経っていた。


喉が、砂のように渇いていた。

震える手で枕元の水を探り、貪るように飲んだ。その手が――白く、細い手であることに、ぼんやりと気づいた。


ベッドの上は、ひどい有り様だった。剝がれ落ちた皮と、抜けた髪。まるで何かが脱皮した跡のようだった。

実際、脱皮したのだ。私という生き物が。


なんとか身を起こすと、身体の輪郭が、変わっていることがわかった。

まず、骨格から違う。自分の身体を見下ろすと、全体に細く、小さくなっている。そして肩の幅が狭い。


舌で歯に触れて、ぞっとした。歯が、ない。一本残らず抜け落ちていた。


腰の位置が、以前より高い。骨盤が横へ広がり、それに引っぱられるように脚の付け根が外側へ移っている。脚そのものもほっそりとして、長くなったように感じられた。足の大きさまで、やや小さくなっているようだ。


声を出してみる。「あ」と漏れたその音は、私の知っている自分の声では、なかった。


腹の奥で、内臓の位置が動いている気配がした。下腹部に、これまでなかった何かが――新しい臓器が形づくられていくようだった。


私は、生き延びるためだけに、慣れない身体で躓き、あちこちにぶつかりながら、水を飲み、非常食のゼリーを漁った。


決定的な瞬間は、意識を取り戻してから、三日目のことだった。


何の前触れもなかった。

痛みも、違和感もなかった。...ただ、するりと落ちた感触がした。


下を見ると、床の上にかつて私の一部だったものが落ちていた。

男であることを象徴する私の身体の一部。それが、私から切り離されて、そこに「ある」。喪失というものは、なくなることよりも、こうして切り離されたものが目の前に「ある」ことのほうが、よほど深く胸を抉るのだと、そのとき知った。


白い手で、そっとつまみ上げた。

醜くいびつなそれは、かつて自分の身体についていたものとは、とても思えなかった。それでも意識の底のほうで、これは確かに自分のものだ、と告げる声がした。


股のあたりを、確かめた。固まった血のような、茶色くかさついたものを取り除くと、その下に、女性のそれらしき形が育ちつつあった。中までを検める勇気は、まだ持てなかった。


まさに、私は男性である「私」を、この瞬間に決定的に喪ったのだ、と悟らされた。


顔に、手をやる。

髪もなく、歯もない自分の顔の感触に、私は打ちのめされた。


鏡を見た。

まるでそれは指輪物語に出てくる怪物のように、髪も歯もない、ガサガサの黒々とした、目だけが爛々と光っている化け物が鏡から自分を覗いていた。

私は、私の顔を直視できなかった。自分の顔を掻きむしった。だが、そうすると黒いものがペリペリと音を立てて剥がれていき、その下から、白い肌が現れた。


どうやらあの化物の姿で生きていくことにはならなさそうだ。

もう一度意を決して鏡をのぞき込んだ。


黒い皮のようなものを取り除くと、そこにあったのは自分の顔ではなかった。

鼻の高さ、鼻筋の通り方、頬から顎にかけての線や額の丸みも、何もかも、かつての私とは違う輪郭を描いていた。


顔は小さくなり、口の中の形――口蓋の輪郭までもが変わり、頭蓋そのものがひと回り縮んでいるのもわかった。

おそらくは脳も小さくなっているはずだ。だが、それに伴う障害らしきものは、幸いにも自覚できなかった。記憶も、思考も、まだ私の中にあった。



そして目に違和感を感じた。


鏡を覗き込む。虹彩の色が薄くなり、青みを帯びた茶色に変わっている。かつての自分の瞳ではないが、どこか懐かさを覚えた。そういえば、薄暗い部屋でもものがよく見えた。


髪は、これから生えてくるところらしかった。まだ二、三センチほどしかない。それでも、その色は明らかに金で、色素が薄かった。その色にも、見覚えがあった。


だが、そこまでだった。まだ身体は酷い熱を持っており、私は重力に抗えず、その場で崩れ落ちた。


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