誘い
昼の世界で、私には、神谷絵里香としての日々があった。
ミス・ユニバース日本代表という冠は、私の暮らしを、否応なく忙しくした。撮影、取材、式典。そのうえ、夜には倉田の仕事がある。医学部の講義に、満足に出られない日が、増えていった。
そんな私を、影で支えてくれていたのが、藤崎だった。
私が講義を欠席した日には、決まって、彼の筆跡で清書されたノートが、私の机に置かれていた。要点には、丁寧な印がつけられ、余白には、補足の説明まで添えられている。
礼を言うと、藤崎は、決まって耳を赤くして、目を逸らした。
「べつに、ついでだから」
私は、思わず吹き出した。「ついで」であるはずが、なかった。彼のノートは、自分のためだけのものより、明らかに、手がかかっていた。
藤崎は、何も求めなかった。見返りを期待する素振りすら、見せない。ただ、私が困っているらしいと察すると、いつのまにか、そっと手を差し伸べている。そういう男だった。
立花は、そんな藤崎を見て、よく私をからかった。
「ねえ、絶対あいつ、神谷のために生きてるよ。報われないのに、健気だよねえ」
報われない、という言葉が、胸の奥に、小さく刺さった。
私の周りには、いまや、見栄えのいい男が、いくらでも群がってきた。ミス・ユニバース日本代表の隣に立ちたいだけの、中身のない男たち。整った顔で、上辺の言葉を並べる彼らに、私は、何ひとつ心を動かされなかった。
それに比べて、藤崎は、と思う。
藤崎は、決して、見栄えのいい男ではない。けれど、まっすぐで、誠実で、何より、先が見込めた。講義での彼の問いには、ときおり、はっとさせられる鋭さがあった。
私は、彼のような人間に、惹かれるのだと思う。
おかしなものだった。かつての私自身が、ちょうど、そういう男だったのだ。顔立ちは平凡で、けれど、研究のことだけは、誰にも負けないつもりだった。素直で、愚直で、それゆえに足をすくわれた男。藤崎の中に、私は、失われたかつての自分の影を、見ているのかもしれなかった。
ただ、その好意が、いったい何なのかは、私にも、わからなかった。
女が、男に抱く類いの好意なのか。それとも、同志に向ける、あるいは、過去の自分に向ける、別の何かなのか。私は、この身体になってから、一度も、誰かをそういう目で見たことがなかった。
男だった頃の感覚は、もう、遠い。かといって、女としての感覚が、自分の中に芽生えているのかどうかも、確かめようがなかった。
対談の日。
場所は、都心の、洒落たホテルの一室だった。雑誌の編集者と、写真家が、慌ただしく準備を進めている。
私は、隙のない装いで、約束の時刻より、少し早く着いた。鏡の中の自分を、最後に確かめる。完璧な、若く美しい日本代表の顔。その奥に渦巻くものは、誰にも見えない。
やがて、鷲尾が、現れた。
鷲尾隆三は、報道で見るとおりの、堂々とした老科学者だった。私を見ると、その目が、一瞬、緩んだ。あの、渡り廊下で私を値踏みした、あの目だ。けれど、今日の彼は、その欲を、紳士的な笑みの下に、巧みに隠していた。
「お会いできて、光栄です」と、私は微笑んだ。声に、ほんの少し、憧れの色を混ぜて。
対談が、始まった。鷲尾は、よく喋った。
科学者にとって、いかに誠実さが大切か。真理の探究には、いかに長い忍耐が要るか。若い才能を、いかに大切に育てねばならないか。彼は、立派なことを、滔々と語った。
「私の研究も」と、鷲尾は、穏やかに目を細めた。「決して、一人の手柄ではありません。長い年月、共に汗を流してくれた、研究室の仲間たちのおかげです。彼らへの感謝を、私は、片時も忘れたことがない」
私は、微笑みを、崩さなかった。崩さないために、テーブルの下で、爪が掌に食い込むほど、固く拳を握っていた。
彼が語る「研究室の仲間」の中に私の名はない。当然だった。私という研究者はこの男の手でこの世から消されたのだから。
十年。私が人生を捧げた十年が、いま、この男の口から、彼自身の忍耐と誠実の物語として、語り直されていた。
喉の奥から、叫び出しそうになるのを、私は、必死に呑み込んだ。
――お前が語っている誠実さの、その礎は、お前が踏みにじった、私の十年だ。お前が感謝していると言うその研究は、私のものだ。
言葉が、口の中で、煮えくり返る。
それでも、私は、微笑み続けた。憧れに満ちた若い娘の顔のまま、彼の高説に、相槌を打ち続ける。これほど、自分の表情を御するのに力を要したことは、かつて、なかった。
対談が進むにつれ、私は、つい、危ない橋を渡った。
彼の研究について、ある質問をしたのだ。その理論の、もっとも核心にある、ある仮定について。それは、論文には書かれていない、研究の現場にいた人間でなければ、決して問えないはずの問いだった。
鷲尾の目がわずかに見開かれた。一瞬、その表情に、警戒の影がよぎる。なぜ、この娘が、そこを突くのか、と。
私は、慌てて、言葉を継いだ。医学部で、あなたの論文を夢中で読みました、と。憧れの先生に会えると聞いて、必死に勉強してきたんです、と。
鷲尾の警戒は、たちまち、満足げな笑みに溶けた。美しいだけでなく、聡明な娘。彼の自尊心を、これほどくすぐる存在は、なかっただろう。
「いやはや、驚きました」鷲尾は、上機嫌で言った。「あなたのような方が、医学を志しておられるとは。実に、もったいない」
対談が終わりに近づいた頃、鷲尾は、思いついたように、こう言った。
「もし、よろしければ、ですが」
彼は、名刺を差し出しながら、続けた。
「私の研究室に、いらっしゃいませんか。なに、アルバイトということで、構いません。あなたほど優秀な方なら、雑用ではなく、研究の手伝いを、お願いできる。学生のうちから最先端に触れておくのは、悪いことではありませんよ」
鷲尾の目の奥に、隠しきれない欲が、ちらついていた。美しい娘を、自分の手の届く場所に置いておきたい。その下心は、見え透いていた。
私は、内心の昂りを、押し殺した。
これこそ、私が望んでいたものだった。あの男の懐に、堂々と入り込む口実。奪われた研究の、その現場へ近づく足がかり。彼は、自分から扉を開けて、私を招き入れようとしている。獲物だと信じている女が、実は自分を狩る者であることも、知らずに。
「ぜひ」と、私は、はにかんでみせた。「お願いします」
これほど甘美な「はい」を、私は、生まれて初めて、口にした。
対談を終え、ホテルを出ると、外は、すっかり夜になっていた。
私の手の中には、鷲尾の名刺があった。あの男の城へ、堂々と踏み込むための、一枚の切符。
冷たい夜気を、胸いっぱいに吸い込みながら、私は、ゆっくりと歩き出した。長く待った時間の、ようやく、その入口に、私は、立ったのだ。




