潜入
鷲尾の研究室に、私は、アルバイトの研究補助員として、足を踏み入れた。
扉を開けた瞬間、めまいに似たものが、私を襲った。
見覚えのある景色だった。並んだ実験台。低くうなる遠心分離機。試薬の、鼻の奥を刺す匂い。窓から差し込む光の角度まで、私の記憶のままだった。
ここは、かつて、私が働いていた場所だ。
別の身体で、別の名で、私は、自分が十年を過ごした部屋へ、帰ってきた。同じ場所に、まるで違う人間として立っている。その感覚は、足元が、ぐらりと傾くようだった。
けれど、誰一人、私が何者かには、気づかない。当然だった。そこにいるのは、見知らぬ、若く美しい娘なのだから。
研究室には、見覚えのある顔も、いた。
桑原。私がいた頃、まだ若手だった研究員だ。いまは、それなりの立場についているらしい。私が研究を奪われ、追われたとき、彼は、何も言わなかった。見て見ぬふりをして、自分の身を守った一人だ。
その桑原が、新入りのアルバイトである私に、にこやかに、実験器具の使い方を説明してくる。
かつて、その器具の使い方を、彼に教えたのは、私だった。
私は、何も知らない娘の顔で、彼の説明に、神妙にうなずいた。胸の内には、苦いものが、広がっていた。
研究室での日々は、息の詰まる、綱渡りの連続だった。
証拠など、そう簡単に見つかるはずもなかった。アルバイトが片手間に探して出てくるようなものなら、誰も苦労はしない。むしろ私は、毎日を、ぼろを出さずに切り抜けることに、神経をすり減らした。
身体に染みついた癖が、ふとした拍子に、顔を出す。
試薬の棚に手を伸ばしたとき、私の指は、迷わず、目当てのものへ伸びていた。初めて来た人間が、知っているはずのない場所へ。慌てて、手を引っ込めた。
ピペットの持ち方も、危なかった。長年の使い手の手つきが、つい出てしまう。新人らしい、ぎこちなさを、私は、わざと演じなければならなかった。
何より苦しかったのは、口をつぐむことだった。
若い研究員が、実験の失敗の原因がわからずに、頭を抱えている。私には、その原因が、一目でわかった。そこではない、と、喉まで出かかる。けれど、言えるはずがなかった。ただのアルバイトの娘が、そんなことを見抜けるはずがないのだから。
私は、自分の知識を、口の奥に、何度も呑み込んだ。
美しい娘が一人入ってくれば、研究室の空気は、否応なく、ざわついた。
何人かの男の研究員が、何かと理由をつけては、私に近づいてきた。実験を手伝うふりをして、必要以上に距離を詰めてくる者。食事に誘ってくる者。中には、はっきりと下心を口にする者もいた。
私は、その一つひとつを、笑顔で、やんわりとかわした。かつて、男だった私には、こうした視線を向けられた経験など、一度もなかった。いまは、息をするように、それが降りかかってくる。煩わしかった。けれど、騒ぎを起こすわけにはいかない。私は、角の立たない断り方を、いくつも覚えた。
そして、鷲尾だった。
彼は、何かにつけて、私を、自分のそばに置きたがった。
夜の会食に、私を伴うことも、たびたびあった。財界の有力者や、ほかの大学の重鎮が集まる席だ。鷲尾は、美しい若い助手を連れて現れることで、自分の格を誇示しているらしかった。私は、その装飾品の役を、淡々と務めた。会食の席は、思わぬ人脈を知る、またとない機会でもあったからだ。
鷲尾の手は、酒が回ると、危うくなった。
さりげなく、肩に触れようとする。帰りの車に、二人で乗ろうと誘う。私は、そのすべてを、すんでのところで、かわし続けた。酔ったふりをして席を立つ。ほかの客に話しかけて、間に人を入れる。長年、研究の現場で培った、危機を察する勘が、こんなところで役に立った。
不思議だったのは、鷲尾が、まるで疑いを抱かないことだった。
あの男は、自分が選ばれた人間であることを、露ほども疑っていなかった。
だから、彼は、勘違いをしていた。
これほどの美貌の娘が、自分のような優秀な男に、特別な関心を寄せているのだ、と。私が彼のそばを離れないのも、彼の話に熱心に耳を傾けるのも、すべては、私が彼に惹かれているからだ、と。そう信じて、疑わなかった。
私が、ただ、奪われた研究の証拠に近づくために、あの男のそばにいることなど、想像もしていない。
私は、その勘違いを、利用した。
惹かれているふりは、しない。けれど、否定もしない。ほんのわずかな期待を、彼に抱かせたまま、その手が伸びてくる寸前で、するりと身をかわす。期待と、肩透かしの、際どい綱を、私は、毎晩のように渡った。
彼の心の動きは、手に取るようにわかった。かつて、私自身も、男だったのだから。男が、何を考え、何を期待し、どこで手を出そうとするのか。その心理を、私は、誰よりも、知り尽くしていた。
獲物に近づく狩人が、獲物の習性を、知り尽くしているように。
そんな日々は、私を、少しずつ、すり減らしていった。
昼の研究室で、ぼろを出さぬよう神経を張りつめ、夜の会食で、鷲尾の欲をかわし続ける。誰にも気を許せない時間が、続いた。
そんな私を、救ってくれたのが、「昼」の、もう一つの世界だった。
奈緒は、私の疲れを、すぐに見抜いた。
ある休日、彼女は、半ば強引に、私を自分の家へ呼んだ。倉田は学会で留守、娘は預けてきたという。広くもない台所で、奈緒は、何品もの惣菜を、手際よく作った。
「絵里香、最近ひどい顔してるよ」
湯気の立つ皿を、私の前に置きながら、奈緒は言った。
奈緒の前では、私は、何の芝居も、しなくてよかった。彼女は、私のすべてを知っている。私が、かつて男であったことも、いま、何をしようとしているのかも。
だから、私は、ぽつりぽつりと、話した。研究室での綱渡りのことを。かつての自分の癖が出そうになる、その怖さを。鷲尾の前で、笑っていなければならない、その苦しさを。
奈緒は、口を挟まずに、聞いていた。
「あなたは、よくやってるよ」聞き終えて、彼女は、ただ、そう言った。「ちゃんと、ご飯を食べて、ちゃんと、眠りなさい。どんな身体だって、無理をすれば、壊れるんだから」
どんな身体だって、という言葉が、奇妙に、胸に沁みた。
作りものの、いつ壊れるともしれないこの身体さえ、奈緒は、ただ一つの、いたわるべき身体として、扱ってくれた。
藤崎は、また、違った形で、私を気遣った。
私が、目に見えて疲れているのを察すると、彼は、おずおずと、けれど、確かに、声をかけてきた。
「あの、神谷さん。もし、よかったら……気晴らしに、どこか」
誘い方は、いつも、たどたどしかった。
ある日、彼が連れていってくれたのは、街外れの、小さな水族館だった。気の利いた場所、とは言えなかった。けれど、薄暗い水槽の前で、ゆらめく魚を、ただ二人で眺めていると、張りつめていたものが、ゆっくりとほどけていった。
藤崎は、私の事情を何も知らない。私が、夜何をしているのかも。私が本当は何者なのかも。
それでも、彼の不器用な気遣いは、私の心の、こわばった場所を確かに温めた。
「藤崎くんは」と、私は、ふと尋ねた。「どうして、私なんかに、よくしてくれるの」
藤崎は、しばらく、水槽を見つめたまま、黙っていた。
「神谷さんが、講義のとき」やがて、彼は、ぽつりと言った。「みんなが見落としてることを、一人だけ、見てるときがあって。あれが、すごいなって、思って」
顔ではなく、その奥にあるものを、彼は、見ていた。
私は、何も言えなかった。
この、まっすぐな青年に、私は、確かに、心を開きつつあった。けれど、それが女が男に向ける思いなのか、それともかつて同じ場所に立っていた者への、同志のような感情なのか。やはり、私にはわからなかった。
研究室での証拠探しは、一向に進まなかった。
古い実験記録は、とうに処分されたのか、巧妙に隠されたのか、私の手の届くところには、何もなかった。焦りはあった。けれど、急いてはすべてを失う。私は、辛抱強く機会を待つことにした。
不思議なことに、息の詰まるような日々の中で、私の足元は、少しずつ、確かなものになっていった。
奈緒がいて、藤崎がいて、倉田や、立花や、九条がいる。
肉体を失い、過去を捨て、名前すら作りものの私に、いま、確かに、心を寄せてくれる人々が、いた。彼らとの一つひとつの関わりが、新しい私という人間を、少しずつ形づくっていく。
かつての神谷と、いまの絵里香。断ち切られていたはずの二つの時間が、彼らとの日々を通して、おぼろげに、一本の線で、つながり始めているような感じがしていた。
私は、ただ復讐のためだけに、生きているのではなかった。そのことに、私は、自分でも気づかぬうちに、気づき始めていた。
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鷲尾研究室に、その娘がやってきてから、研究室の空気は、すっかり変わってしまった。
桑原は、苦々しい思いで、それを眺めていた。
ミス・ユニバース日本代表だという、絵に描いたような美女。鷲尾が、どこからか連れてきて、アルバイトとして置いている。教授の見え透いたお気に入りだ。彼女が来てから、若い男の研究員たちは、目に見えて浮き足立っていた。
桑原自身、認めたくはないが、彼女が近くを通るだけで、手元がおろそかになった。白い首筋や、ふとした拍子に漂う香りに、つい、目と気を奪われた。
ただ、桑原には一つ腑に落ちないことがあった。
あの娘は、ただの飾りではなかった。
雑用をこなす手つきが、妙に堂に入っている。試薬の棚の場所を、教えてもいないのに知っている。
一度など、若手が頭を抱えていた実験の不具合を、彼女が、ちらりと見て、何かを言いかけ、慌てて口をつぐんだことが、あった。あのとき、彼女が言いかけたことは――後で確かめると、まさに正解だった。
気のせいだ、と桑原は思おうとした。美しい娘が、たまたま、勘がいいだけだ。そう、片づけようとした。
けれど、ふとした瞬間、彼女がこちらを見る、その視線に、桑原は、ぞくりとすることが、あった。値踏みするような。あるいは、古い知り合いを見るような。まるで、自分の過去の何もかもを、見透かされているような――そんな、ありえない感覚に。
まさか、と桑原は、首を振った。
あんな娘と、自分が、会ったことなど、あるはずも、なかった。




