使命
その夜の会食も、鷲尾に連れ出されたものだった。
都心の料亭の、奥まった座敷に、政財界の名士が、十数人。鷲尾は、その中央近くに陣取り、私を、自分のかたわらに座らせた。
若く、美しいという言葉ではとても言い表せない娘。
私が座敷に入った瞬間、座の空気が、わずかに揺れたのが、わかった。年輩の男たちの視線が、一斉に、私へ集まる。淡い金の髪が、座敷の灯りを受けて、柔らかく光る。透き通る白い肌。整いすぎた顔立ち。誰もが、束の間、箸を止めて、私に見入った。鷲尾は、その視線を、自分への称賛であるかのように、満足げに浴びていた。
私は、こうした視線に、もう慣れていた。慣れた上で、それを、薄い微笑みの内側で、冷ややかに観察していた。
その席に、九条が、いた。
末期の癌から救い出した、あの老人。私が治療の主体であることを見抜き、「力になる」と言ってくれた、鋭い眼光の男だ。
引退して久しいとはいえ、かつて政界の中枢にあった九条の名は、いまも、この国の隠れた力の地図に、深く刻まれている。座の誰もが、彼に、一目置いていた。
私と九条の間には、誰も知らない深い結びつきがあったが、その夜、九条は、私を見知らぬ娘として扱った。
宴がたけなわになり、酒が回ると、鷲尾の様子が、いつものように、危うくなってきた。
私の肩に、さりげなく手を置こうとする。耳元で、二人で抜け出さないか、と囁く。座敷という逃げ場のない場所で、私は、内心、焦りを募らせた。
そのとき、九条が、おもむろに口を開いた。
「鷲尾先生。そちらの、お美しいお嬢さんは、どなたかな」
座が、九条に注目した。鷲尾は、得意げに、私を、自分の研究室の優秀な助手だと紹介した。
「ほう。それは、惜しい」九条は、穏やかに笑った。「先生のような大家のそばにいては、若い才能も、霞んでしまう。どうかな、お嬢さん。こちらへ来て、この老いぼれの、退屈な昔話に、付き合ってはくれんかね」
やんわりとした、けれど、有無を言わせぬ口ぶりだった。鷲尾は、九条の誘いを、断れなかった。私は、救われるように、鷲尾のかたわらを離れ、九条の隣へ移った。
九条は、私を、見知らぬ娘として扱いながら、その実、危ういところから、すくい上げてくれたのだった。隣に座った私に、彼は、ほんの一瞬だけ、目配せをした。
九条の隣で、私は、座敷の喧騒を、眺めていた。
酒に、すっかり気を大きくした鷲尾は、周囲の名士たちに向かって、自分の栄光を、滔々と語っていた。
「私の受賞は、もはや、時間の問題でしょうな」
そう言って、彼は、笑った。
「あの発見に至るまでの苦悩の日々を忘れません。あの記録は、私の最大の財産です」
私の中で、何かが、ひらめいた。
記録が、残っている。捨てられても、隠されてもいない。あの男の、虚栄心そのものが、それを、後生大事に手元へ置かせている。
あの発見の、本当の出どころを示すものが、もし、どこかにあるとすれば。それは、あの男が、誇らしげに抱え込んでいる、その記録の中にこそ、あるのかもしれなかった。
鷲尾の油断が、その慢心が、初めて、ほころびを見せた瞬間だった。
その夜の別れ際、九条は、私の手に、そっと、一枚の紙片を握らせた。
そこには、彼の自宅の住所と、日付が、記されていた。
「近いうちに、いちど、訪ねてきなさい」
誰にも聞こえぬ声で、彼は、そう囁いた。
*****
指定された日、私は、九条の屋敷を訪ねた。
古いが、品のいい邸宅だった。通された奥の座敷で、九条は、一人、私を待っていた。会食の席で見せた、政界の老獪な実力者の顔は、そこには、なかった。ただ、人生の終わりを静かに見据える、一人の老人が、座っていた。
「私はね」と、九条は、茶をすすりながら、ぽつりと言った。「人生をほとんど生き切ったと思っている」
彼は、命を拾ったことを、私に、改めて礼を言った。けれど、それは、長く生きたいからではない、と言った。
「君の力なら、私を若返らせることすらできるのだろう。だが私はそれには興味がない。老いた身体を若い身体に取り替えて、いったい、何になるのやら。やり残したことなどもうほとんどないのだから」
ただと、九条は、目を細めた。
「いくつか、恩を返せていない相手がいる。それだけが、心残りでね。命を拾ったこの時間で、せめてそれだけは、果たしておきたいと思っている」
若返りにも、富にも、もはや心を動かさぬ老人が、ただ、返しそびれた恩のことだけを、悔いていた。その姿は私の胸を静かに打った。
「そして、あなたもその一人だ。あなたが何を成し遂げたいのか、聞かせてはくれないか」
そう九条は言った。
九条の、その澄んだ目の前で、私は、初めて自分のすべてを、語りたくなった。これまで、誰にも――倉田や奈緒にさえ、これほど深くは語らなかったことを。
私は、話した。
かつて、自分が、一人の中年の男であったこと。研究を、鷲尾に奪われ、家族にも見捨てられすべてを失ったこと。絶望の果てに、自分の身体を、まるごと別人のものに作り替えたこと。
そして、エーリカのことを。
「この身体は」と、私は言った。「かつて、私が愛した、一人の女のものです」
エーリカ。ドイツの、灰色の空の下で出会った、淡い金の髪の女。もう、この世にはいない。私が、すがるように手元へ残していた、彼女の一房の髪。それを設計図にして、私は彼女の身体を、自分の上によみがえらせた。
鏡を見るたび、私は、死んだ彼女に、出会う。
彼女のツンと尖った高い鼻に、彼女の薄い色の瞳に、毎朝再会する。愛した女の顔で、私は生きている。それは慰めなのか、罰なのか、わからない。失った人を、これほど近くに感じながら、その人は、もうどこにもいない。私は、彼女になり、けれど彼女には決してなれなかった。
語るうちに、私の頬を、知らぬ間に、涙が伝っていた。この身体になってから、私が泣いたのは、初めてだった。
涙腺が変わったかもしれないが、泣き出すと、全く止まらなかった。顔を手で覆った。
九条は、私の告白を、驚きもせず、時折、泣きじゃくる私の肩を叩きながら、優しく聞いてくれた。
やはり、この老人は、どこかで何かを察していたのかもしれない。
「これからは、どうするつもりかね」と、九条は、問うた。
「いまは、ただ、鷲尾に」私は、答えた。「あの男から、奪われたものを取り返す。それだけが、いまの私を突き動かしています」
「その先は」
「……白紙です」
私は、正直に言った。鷲尾に決着をつけたあと、自分が、何のために生きるのか。その答えを私はまだ、持っていなかった。
九条は、しばらく黙っていた。やがて、静かにこう言った。
「君の身に起きたことは、奇跡だよ」
奇跡という言葉が嫌いだ、と言いかけて、私は、口をつぐんだ。
「医学だの、科学だのと、君は言うだろう。だが、私のような老いぼれには、こう思える。一度、すべてを失い、命さえ捨てようとした人間が、まったく新しい姿で、生まれ変わった。それは、ただの偶然ではない。神が――あるいは、何と呼んでもいいが――君に、何か、果たすべき使命を、与えたのだ。私には、そう思えてならんのだよ」
彼は、まっすぐに、私を見た。
「その、与えられた二度目の生を、君は、ただ、一人の男を恨むためだけに、使い切ってしまっていいのかね」
その問いは、静かに、けれど深く、私の胸に突き刺さった。
復讐。それは、確かに、いまの私を立たせている。けれど、それを終えたとき、私には、何が残るのか。憎しみだけを燃料に生きた果てに、灰のほかに、何が残るというのか。
私は、答えられなかった。
九条の屋敷を辞して、夜道を歩きながら、私は、彼の言葉を、何度も、反芻していた。
神が、私に、使命を与えた。
そんな大仰なものを、私は、信じてはいなかった。けれど、その問いだけは、棘のように胸に刺さって、抜けなかった。
復讐の、その先。
かつての神谷と、いまの絵里香。私が、この二つの時間を、一本の線でつなぐとき、その線は、いったい、どこへ向かって、伸びていくのか。
鷲尾への復讐は、終わりではない。きっと、何かの、始まりなのだ。そのことを、私は、まだ言葉にはできぬまま、夜の冷たい空気の中で、ぼんやりと、感じ始めていた。
見上げると、晴れた夜空に、無数の星が、またたいていた。エーリカが好きだと言っていた、冬の星座が、そこにあった。
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藤崎にとって、神谷絵里香は、最初ただ、遠い存在だった。
天使がそのまま地上に降りてきたかのような、圧倒的な美。
あまりに美しすぎて、声をかけることすらはばかられた。
同じ講義室にいても、彼女のいる一角だけ空気が違って見えた。いや、実際に違っている。
視線の密度が濃い。
淡い金の髪。白い横顔。憂いを帯びた目。
誰もが、一度は目で追わずにいられなかった。
けれど、藤崎自身が意外なことに、本当に心を奪われたのは、その美しさにではなかった。
彼女が、ときおり見せるある表情。
教官の説明の、誰もが聞き流す一点で、彼女の目が、すっと鋭くなる。まるでその奥にある、もっと深い問いを一人だけ見つめているかのように。立花と一緒に話をしているときに、ふっと懐かしさを感じているような目をする。
彼女は一体なにをそこに見ているのだろう。
藤崎は、その横顔に惹かれた。
そうして、彼は、欠席がちな彼女のためにノートを取り始めた。
彼女が遊んで講義をすっ飛ばしているということは、少なくともなさそうだ。彼女はとても忙しくしているのは分かっている。自分がその彼女の力に少しでもなれるのであれば、と思った。
疲れているらしいと見れば、気晴らしに誘った。
自分でもいじらしくなるほど奥手だった。
彼女の横に並び立てるのは、どんな男なんだろうかとも思った。アイドル...顔はともかく、そういった軽薄さを見せる人間に彼女が惹かれるところは全く想像できない。スポーツ選手...あまり彼女がスポーツに興味をもっているところすら見たことがない。どこかの会社の御曹司...お金に興味はなさそうだ。
といって、自分がそこに立候補するというのはまた随分とおこがましいのではあるが。
そうやって、色々している内に少しずつ彼女との距離は縮まった。
近づくほどに、謎は、深まった。
二十歳のはずの彼女が、なぜそんな知識を持っているのか。ドイツ語の発音が美しいのはなぜか。なぜ、過去のことを何ひとつ語らないのか。
いくつも問いは出てくるが、答えは全て霧の中だ。
「神谷さんって、何者なんだろう」
藤崎は、ひとり、呟いた。
知りたかった。あの美しい仮面の奥にいる、ほんとうの彼女に会ってみたかった。
たとえそれがどんなものであったとしても。
その思いは藤崎の心を千々にかき乱した。
そうしているうちに、自分の思いが淡い恋心を超えて、徐々に何かもっと強いものに変わりつつあることを自覚せざるを得なかった。




