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Metamorphose  作者: 月の輝く夜に
13/23

共犯

その違和感は、もう、何ヶ月も、桑原の胸の底で、くすぶり続けていた。


最初は、些細なことだった。あの娘が、試薬の棚へ迷わず手を伸ばす。ピペットを、年季の入った手つきで握る。けれど、桑原を、ほんとうに、ざわつかせたのは、もっと細かなことだった。


考えごとをするとき、彼女は、右手の人差し指で、こめかみをとんとんと叩く。

その仕草を桑原は知っていた。かつて、同じ研究室にいた、あの男。神谷が、難しい問題に突き当たるたび、まったく同じように、こめかみを叩いていた。


気のせいだ、と、桑原は、何度も打ち消した。

けれど、一度、気づいてしまうと、もう止まらなかった。


言葉の選び方。実験を見るときの、目の動かし方。失敗を見つけたときの、ほんのわずかな、眉の寄せ方。その一つひとつが、桑原の記憶の中の、神谷と、寸分の狂いもなく、重なっていく。

そんなはずは、ない。


神谷は、消えた。研究を奪われ、大学を追われ、そして、行方をくらませた。風の噂では、自ら、命を絶ったとも聞いた。あれから、もう、何年も経つ。目の前の娘は、二十歳そこそこの、若い女だ。性別も、人種も、年齢も、何もかもが、違う。


重なるはずが、ないのだ。


それなのに、桑原は、夜眠れなくなった。

目を閉じると、あの娘の仕草が、神谷の影と、溶け合っていく。ありえない、と理性が叫ぶほどに、もう一つの声が、低く、囁いた。あの目だ。お前を見るときの、あの目。あれは、お前のしたことを、全部、知っている目だ――。


桑原は、彼女の身元を、調べた。


そして、何も出てこないことに戦慄した。神谷絵里香という人間の過去は、ある一点でぷつりと、途切れていた。まるで、二十歳で、突然、この世に、現れたかのように。


その夜桑原は、ほとんど恐慌状態に陥っていた。


*****¥*

――その夜、研究室には、私と桑原の、二人だけが、残っていた。

ほかの者が帰ったのを見計らったように、桑原が、近づいてきた。様子がおかしかった。顔は青ざめ呼吸は浅く速い。追い詰められた獣のような目で、彼は、私を見ていた。


「あんた……何者だ」

声が、震えていた。

私は、何も、言わなかった。否定すれば、かえって彼を刺激する。そうわかっていた。けれど、私の沈黙は、彼の混乱に、火を、注いだ。


「言え!」桑原が、叫んだ。「神谷さんなのか! あんた、神谷さんなんだろう! そんなこと、ありえない、ありえないのに、俺は……俺は……!」


彼は、半分、泣いていた。自分が見ないふりをしてきたものと、いま正面から、向き合わされて。

次の瞬間だった。


桑原が、私に、掴みかかってきた。


私の両肩を、万力のような力で掴むと、彼は、私を、背後の壁に叩きつけた。

背中と後頭部に鈍い衝撃が走る。一瞬、息が止まった。

私は、抵抗しようとした。彼の手を、振りほどこうと、力を、込めた。

けれど――びくとも、しなかった。


そのとき、私は初めて思い知った。

この身体には、力がない。


細い腕。薄い肩。男に、本気で押さえつけられれば、もうどうすることもできない。かつて、男だった私には、当たり前にあった、あの腕力が、いまの私には、まるごと欠けていた。男の身体の重みと力の前で、女の身体は、これほどまでに無力なのだ。


恐怖が、背筋を、駆け上がった。


理屈ではなかった。身体の、奥の奥から、突き上げてくる、原始的な恐れだった。この男が、その気になれば、私は、何をされても、抗えない。叫んでも誰もいない。逃げることもできない。


世界中の女たちが、ときに、味わってきたであろう、この恐怖を。男であった私は、四十二年、ただの一度も、知らずに、生きてきた。

いまそれが私を丸ごと呑み込んでいた。


けれど。


恐怖に呑まれかけたその奥で、もう一つの私が、冷たく覚めていた。脳に残った、かつての私。研究を奪われ、それでもすべてを賭けて生き延びてきたその意志が。


私は、暴れるのをやめた。

力で、敵うはずがない。ならば、力で抗ってはいけない。

壁に押さえつけられたまま、私は、ただ、まっすぐに桑原の目を、見つめ返した。恐怖を、奥へ押し込め、声に、ありったけの静けさを込めて。


「桑原」と、私は、言った。

彼の手が、びくりと、震えた。


「覚えているか」私は、二人だけが知る、昔の話を、口にした。学会の前夜。徹夜で準備をしていたとき、桑原が、致命的なミスをして、青くなっていたこと。それを、私が手伝ってリカバリーして、桑原が一生恩に着ます、とと言っていたこと。


桑原の顔から、見る間に血の気が引いていった。

「ありえないことは、起きるんだ、桑原」私は、静かに続けた。「お前の、目の前で、現に、起きている」


私を掴む手から、ゆっくりと、力が抜けていった。

やがて、桑原は、糸の切れた人形のように、後ずさり、その場に崩れ落ちた。


「俺を……恨んで、復讐しに、来たんだろう」と、桑原は、呻いた。「俺は、あんたを、見殺しにした。鷲尾が、研究を奪うのを、見て、見ぬふりをした。だから――」


私は、彼を、見下ろした。

この男に対して、私の中には、何の感情も、湧いてこない。

恨みすら、なかった。


私が、許せなかったのは、鷲尾だ。私の十年を奪い、私という人間を、この世から消し去った、あの男だ。

床にうずくまって震えている、この小心な男は、ただ、保身のために、目を逸らしただけの、取るに足りない存在だった。憎むほどの価値も、私にはなかった。


「いいや」と、私は、言った。


桑原が、顔を上げた。

「お前のことなど、どうでもいいんだ。俺が、引きずり下ろしたいのは、鷲尾だ。お前は、ただ、見ていただけだろう。」

突き放したつもりは、なかった。それは、ただの、本心だった。けれど、その言葉は、桑原を、打ちのめした。


彼は、罰を、覚悟していた。

糾弾を、報復を待っていた。それを受け入れることで、ようやく、何年も抱えてきた罪から、解放されるはずだった。それなのに、私は、彼に、何も求めなかった。

怒りも、向けなかった。ただ、お前のことは、どうでもいい、と。

その、突き放すような言葉が――罰よりも深く、桑原の胸を抉ったのだった。


「……っ」

桑原は、両手で、顔を覆って、嗚咽し始めた。何年ものあいだ、彼を、内側から蝕んできたものが、堰を切ったようにあふれ出していた。


私は、ただ黙ってそれを、見ていた。慰める気も、責める気も、起きなかった。

やがて、泣き止んだ桑原が、震える声で、言った。

「……ノートが、ある」

私は、彼を、見た。

「あんたの、昔の研究ノートだ。その原本が、まだ、どこかに、残っているはずなんだ」桑原は、顔を覆ったまま、続けた。

「鷲尾は、あれを、捨てちゃいない。自分の研究の、裏付けに、どうしても要るところだけを、こっそり、参照してる。日付も、データも、もとは全部、あんたが書いたものだ。それを、表向きは、自分のノートとして、通してるんだ。だから、原本は、捨てられない。もし、それが、見つかれば」

言葉の、続きは、いらなかった。

それこそが、鷲尾の発見が、私のものであったことを、証明する、動かぬ証拠だった。


「ありかは、わかるか」と、私は、訊いた。

桑原は、首を、横に振った。「いや……だが、見当はついている。鷲尾の、動きを、探ってみる。俺なら、怪しまれずに探せるかもしれない。」

その目に、もう、さっきまでの、おびえは、なかった。罪を下ろした男の、静かな、覚悟だけが、そこに、あった。


こうして、かつて私を見殺しにした男は、私の共犯者になった。


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