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Metamorphose  作者: 月の輝く夜に
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決意

桑原は、約束を果たした。


私の共犯者となった彼は、それから慎重に鷲尾の動向を探り続けた。何食わぬ顔で、研究室の雑事を手伝いながら、教授がいつどこで何に触れるのかを見張った。


そして、ついにそれを突き止めた。


鷲尾が、人目を避けて出入りする自宅の書斎。その奥の金庫に古い一冊のノートがしまい込まれていたが、鷲尾は、本当に重要な会議の時にだけ、そのノートを参照するために持ち出してきていた。

桑原は、危険を冒し、そのノートを抜き取った。


彼が震える手で私に差し出したノートを開いて、私は、しばらく動けなかった。


私の、筆跡だった。私が失った男性の筆跡。


十年前の、私自身の手で記された、実験の記録。色あせたインクの、一字一字にあの頃の、徹夜の匂いまでが滲んでいるようだった。鷲尾は、これを、捨てなかった。自分の研究の正しさを裏づける、必要なところだけを、こっそり参照するために。盗んだ証を後生大事に握りしめていたのだ。


すべてをひっくり返す最大の物証だ。それが手に入った。


けれど、それを手にした瞬間、私の心を満たしたのは、勝利の高揚ではなかった。

指先が、震えていた。ここから先へ、一歩でも踏み出せばもう後戻りはできない。


私は、考え続けた。何日も。


鷲尾を告発する。それは、ただあの男を引きずり下ろすことだけを意味するのではなかった。


自分の名前を出さずに密告する選択肢は考えた。しかし、告発は、必ず握りつぶされる。


神谷絵里香として告発すれば、なぜ神谷絵里香がその告発を行うのかという動機がなければ、1本の線が繋がらない。だれも納得しないだろう。

いかにノートが正しくても、若い娘の暴走と受け取られる可能性が高い。


つまり、鷲尾の罪を世界に示すには、私が、神谷真であったことを明かさねばならない。


男であった私が、この身体に、生まれ変わったことも。禁じられた実験も。


一度、口にすれば、私は、二度とただの一人の女には戻れない。

生涯、見世物にされ追われ続ける。


復讐のために生きるのにその新しく得た人生を使うのか、そう九条は私に問いを残した。それならそれでも構わないと思っていたが、その言葉は自分の心に引っかかり、自分の中に問いを残した。


その通りだ。

復讐のためだけならば、既に得た新しい人生を消費してまでそれを行う意味はない。


だが、自分の中の答えはそれと相反している。

やるべきだ、と心が訴えかける。

あの男を叩き落としたいという思いよりも、もっと強く、私の胸を焦がすものがあるような気がして、それを考え続けた。


そしてそれに気づいた時に、ストンと腑に落ちた。


私は、奪われた神谷真の名誉を取り戻したいのだ。

神谷真という研究者が、確かに生きて何かを成し遂げたのだというその事実を消させない。

それは、過去の私に対する供養ではない。


私自身は既にかつての神谷でも、エーリカでもない。そのハイブリッドであり、その延長線にいる存在だ。


しかし、延長線であるがゆえに、その繋がりを消すこともできない。いまの私が、自分という人間を胸を張って肯定するためには、どうしてもそのルーツである神谷真の名誉を取り戻すべきだ。

私の根が、宙に浮いたままでは、私は、これから先、何者としても立てない。


そして、その名誉を取り戻すためには――その手段として、鷲尾を本来神谷真がいるベき座から引きずり下ろすことが必要だった。

そういうことだったのだ。


その上で、いまだに迷いは消えなかった。失うものと得るものとの大きさが、けた違いに大きい。

あの時、自殺的な実験に及んだ時とは、違う。


様々に大事なものがまた増えてきた。


私はまず倉田に相談した。私のすべてを、最初から知る、ただ一人の、古い友に。


話を聞いた倉田は、長いあいだ、腕を組んで、黙っていた。

「……正気か」やがて、彼は、絞り出すように、言った。


「鷲尾を潰すのは、いい。だが、お前の身体のことまで、世界に明かせば、お前はまた見世物にされる。今度は、世界中から。守ってやれる保証なんて、どこにもないんだぞ」


彼の声は怒りの色を帯びていたが、その中には案じる響きが強く感じられた。

「わかってる」と、私は、言った。「それでも、やらなきゃならないんだと思っている」


倉田は、私の顔をじっと見た。そして、ふっと、息を吐いた。

「……お前は、昔から、そうだ。一度決めたら、聞きやしない」彼は、苦笑した。「いいだろう。骨は拾って実験に使ってやる」

冗談交じりのその一言が、ありがたかった。


次に、九条を訪ねた。


老人は、私の話を、最後まで静かに聞いていた。自身が成し遂げたいことが復讐ではないことまでを聞き終えると、一つ大きく頷いた。


そしてしばらく目を閉じ、それからゆっくりと口を開いた。

「やるなら世界が君の声を聞かざるをえない形でやることだ」と、彼は、言った。「中途半端はいちばん危ない。鷲尾の人脈は、まだ生きている。一撃で覆らぬところまで追い込まねば、逆に君が潰される」

「分かっています」

と私は答えた。


九条は、すでに、その先に起こる嵐の大きさを、見据えているようだった。

私が、男から女になった存在だと、世界が知ったとき、何が起きるか。好奇。熱狂。そして、私という、唯一無二の身体を、欲しがる者たちの、際限のない欲望。


だが、九条が続けた言葉は意外なものだった。


「思う存分、やりなさい」と、九条は、言った。「後のことは、この老いぼれが、引き受ける」

老人は多くは語らなかったが、その目の奥に固い決意が見えた。それは、言葉以上に何かを強く語っていた。



様々な後押しを得ながら、私は、それでも最後の一歩を、踏み出せずにいた。

踏み出せば、絵里香としてのこの穏やかな日々が終わる。

立花との他愛ない時間も。藤崎の不器用な気遣いも。

私が、苦労して手に入れたささやかな居場所が、すべて失われる。

それは、既に自分の中でも失い難いものであったことに気づかされた。


そんな私が二人をみる目を、二人は気づいた。

「神谷、最近、なんか変だよ」と、立花が言った。

「言いたくなきゃ、いいけどさ。でも、あたしたちはいつでも聞くよ」

藤崎も、何も訊かずに頷いた。そして、一つ重要な言葉を吐いた。

「神谷さんがたとえ何者であっても、僕たちにとっては変わらない」


彼らにすべてを打ち明ける決心は、まだつかなかった。私の正体を知れば、二人が、どんな顔をするのか。それが怖かった。けれど、「何者であっても」と告げるその二人のまなざしに、嘘はないような気がした。


立花も、藤崎も、神谷絵里香の容姿ではなく、私のその中身に――一人の人間としての、私に向き合おうとしてくれている。

その確信が、私の背を、押した。


外見ではなく人格として私を見てくれる人が現にいる。神谷の名誉を取り戻すことは、いまのこの私を肯定することにほかならない。私は、今の私を肯定したい。


私は、決めた。

すべてを明かし、奪われた神谷の名誉を取り戻す。

もう迷いはなかった。


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