羽化
※どうもしっくりこなかったので、全面改稿しました。プロットは同じですが、まるっと中身は変えています。大まかなストーリーは改稿前と同じです。
日本政府は、究極の選択を迫られていた。
一人の人間を差し出すか。それとも拒んで、戦争の火種を抱え込むか。
無責任な政治家の中には、「自分の意思でかの国へ出国してもらったことにすればよい」等という輩もいた。私にはそのような自分の意思は毛頭ないが。
天秤にかけられたのが自分自身だと知りながら、私はただ、なりゆきを見守るしかなかった。私の運命を決める会議に、末席の研修生が入れるはずもない。
....果たして政府は、私を守る方に舵を切った。
その裏で何が動いていたのかを、私は後になって、断片的に知ることになる。
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外務省のある課長は、その日も眠そうな顔で、机に頬杖をついていた。
少なくとも、傍目にはそう見えた。
だが彼の携帯は、朝から鳴りやまなかった。
「ええ。…一人の国民を外国に引き渡す。そんなことをすれば、我が国のいうことを誰も聞いてくれなくなります。外交上の自殺ですよ」
相手を替え、言葉を替えて、彼は同じことを説いて回った。
国益という堅い言葉が響く相手には、国益で。情に厚い相手には、情で。
どの扉を、どの言葉で叩けば開くのか。
長年霞が関で培った勘所を、彼は惜しみなく使った。
本来なら、一介の課長が口を出す領分ではない。
出過ぎた真似だと疎まれ、自分の出世に傷がつく可能性もあった。
それでも彼は、受話器を置かなかった。
後から、人づてにこんなことを言っていたことも聞いた。
「あいつは、見どころがあるんでね。これからの我が国に必要だろう」
義父の九条は、政界に残った最後の伝手を、私一人のために使い果たそうとしていた。
書斎から幾人もに電話をかけ、党本部に顔を出し、その存在感をアピールする。
「老いぼれの最後の仕事としては悪くない」と照れ笑いしながら。
彼は、かつて私を守る、と言ってくれたことを有言実行しようとしてくれていた。
かつて闇で救った人々も、私との関係を知られる危険を承知のうえで、次々と表に立ってくれた。
財界の重鎮も、名の知れた言論人も。
そのうちの一人は、すれ違ったときに「あのとき世界から見捨てられた私に、あなたが示してくれた覚悟に応えたい」と言ってくれた。
みな、自分の立場を危うくしながら、私を守ってくれている。
その事実が、私の胸を締めつけた。
守られてばかりでは、いられない。私のために、誰かが傷を負う。それを黙って見ているのは、もう、たくさんだった。
――今度は、私が反撃する番だ。
剣も権力も、私にはない。だが、私にできることはある。私は決意を固めた。
その夜、私は九条の屋敷に藤崎を呼んだ。
ちなみに九条と藤崎が顔を合わせるのは、これが初めてだった。
「私、すべてを公開しようと思います」
私が切り出すと、九条は眉を寄せた。
「公開とは?」
「私の身体を大学で公開検査してもらい、そのデータを全て完全に公開してもらいます。」
九条は苦み走った表情で答えた。
「……リスクがあるのは承知しているな。そこから何か有意なデータが出てくれば、火に油を注ぐことになりかねん」
「仮に出てきたとしても、です、お義父様」私は首を振った。
「隠すから、疑われる。奪おうとされる。ならば全部、開けばいい。奪い合う理由が、なくなるまで」
「お前が、人ではなくモノのように扱われるかもしれんのだぞ」
それまで黙っていた藤崎が、静かに口を開いた。
「僕は、彼女の意思を尊重します。そのかわり、彼女のことは僕が守ります。大学の先生方には伝手があります。検査が、彼女の意にそわない形にならないよう、力を尽くします」
不器用だが、揺るぎない言葉だった。
九条は、少し考えた後に頷いた。
「君たちにまかせてみよう」
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数日後、私の身体の検査が、母校で行われた。
内外から名の知れた研究者が急遽呼び集められた。
血を抜かれ、細胞を採られ、いくつもの機械にかけられる。
およそ私の健康を害しない範囲で、ありとあらゆる検査にかけられる。
その間じゅう、藤崎は私に付き添い、私の尊厳が損なわれないよう、居並ぶ雲の上の研究者たちに頭を下げて回っていた。そして、データを徹夜で取りまとめた。
更に数日後、結果は、包み隠さず世界に公表された。
研究者たちの結論は、一つだった。
「九条絵里香氏の身体からは、学術的に再現可能な、特異な要素は検出されなかった」
解析しても真似できない。切り刻んでも、何も取り出せない。
奪って手に入る類のものではない。それが、世界に示された。
これで、反撃の足場はできた。
だが、データだけでは、多くの人の心は動かない。
だから私は決めていた。この足場の上に立って、私自身の言葉で、世界に語りかけると。
* * *
外務省二階の会見場。ふだんは大臣が立つその場所に、いま、私が立っている。
演台に進み出た瞬間、ざわめきがふっと止んだ。
私の外見は、美しい。自分でそう言うのは気が引けるが。
けれど、それは事実だった。この美しさは、これまで私にとって、武器であり、檻であり、素顔を隠す仮面だった。人の目を引きつけては、その奥にいる私を、見えなくしてしまう。
だが、この日ばかりはそれを私の言葉を届けるために使う。
分断され、罵り合っていた世界が、この一人の女をただ見ようとしている。
好奇でもいい。嫉妬でもいい。
理由は何でもよかった。
とにかく、世界が、私を見た。見てくれさえすれば、あとは言葉の仕事だ。
まず日本語で。次に英語で。最後に、かの国の言葉で。私は同じ思いを、繰り返し語った。
「私は、九条絵里香と申します。いま、私をめぐって、世界が揺れています。だからせめて、私自身の言葉で、お話しさせてください」
「はじめに、傷ついた兵士の皆さんと、そのご家族へ。あなたがたの苦しみは本物です。しかし、それを政治の道具に使う人がいることを、私は心から恥じています。もしこの身体に、あなたがたを救う力があったなら。私は迷わず、差し出したでしょう」
「でも、それはできないのです。私の身体を切り分けても、誰ひとり救えません。真似ようとした人は、みな命を落としました。だからこそ私は、隠すのではなく、すべてをあなたがたの目の前で開いてみせました。ここには秘密など何一つない。奪うべきものも、ないのです」
ひと呼吸おいて、私は続けた。
「私は、モノではありません。標本でも、実験材料でもない。たとえこの身体が作りものであっても、心を持った一人の人間です。その立場から、いま皆様に、問いかけたいことがあります」
「これから科学技術が進むほど、人とモノとの境目は、あいまいになっていくでしょう。仮想の世界でも、この現実の世界でも。そんな時代に、世界をかろうじて繋ぎとめるもの。それは、たった一つ――人が人として扱われる、その一点です」
「『あれは自分とは違う』。そう言って線を引いた先に待っているのは、果てのない分断と、争いです。だから、もう一度お願いします。どうか、目の前の人を、一人の人間として扱ってください」
語りながら、私は、自分の中で何かが静かに入れ替わっていくのを感じていた。
これまで私は、ずっと見られる側だった。
舞台の上で審査され、値踏みされ、実験材料として狙われる、受け身の存在。
それがいま、初めて、世界に向かってこちらから語りかけている。見られる客体ではなく、語りかける主体として。
その感覚は、羽化に似ていた。硬い殻の内側で、ずっと待っていた翼を、そっと広げるような。
私の声は、電波に乗って、国境を越えていった。
* * *
はじめ、人々は、その顔に目を奪われた。作りものめいた、非の打ちどころのない美しさに。
だが、気づけば彼らは、その美しさではなく、そこから漏れる飾らない言葉に、聞き入っていた。
かの国の、うらぶれた集合住宅の一室。片脚を失った若い兵士が、母親と二人、古いテレビを見つめていた。政府はこの放送を必死に打ち消そうとしていたが、映像は細い抜け道を通って、そこまで届いていた。
画面の中の女は、敵国の得体の知れない女のはずだった。憎むべき相手のはずだった。それなのに。
「……母さん」兵士は、かすれた声で言った。「あの人は、俺たちに謝ってるように聞こえる。うちの国の偉い人は、一度だって謝らなかったのに」
母親は答えなかった。ただ、痩せた息子の肩を抱いて、静かに泣いていた。
* * *
日本の、とある古いアパート。事故で足を失った息子を抱えるあの母親も、その放送を見ていた。かつて駅で絵里香を呼び止め、なじった、あの人だ。
「治せるくせに」と、彼女はこの女を恨んでいた。
だが、画面の中の女は、逃げも隠れもしなかった。すべてをさらけ出し、まっすぐにこちらを見て、語りかけてくる。
人を、人として扱ってくれ、と。
母親の頬を、涙が伝った。自分がこの人をどれほど傷つけたか。そして、この人が誰のために、あの場に立っているのか。ようやく、わかった気がした。
* * *
分断され、沸き立っていた世界が、その数分間だけ、しんと静まり返った。右も左も、味方も敵も。人々はテレビの前で、あるいは手のひらの画面の前で、息を詰めて、一人の女の言葉に聞き入った。
なぜ、これほど人の胸を打ったのか。理由は、たぶん単純だった。
彼女は、逃げなかった。身体の隅々まで世界にさらし、化け物と罵られてなお、顔を上げていた。声を荒らげも、飾りもしない。
ただ、作りものの身体に宿った心が、人としての当たり前を、静かに乞うている。その姿は、どんな扇動よりも、どんな精巧な嘘よりも、まっすぐに、人の芯に届いた。
「目の前の人を、一人の人間として扱ってください」。
その一言は、国境を越え、言葉の壁を越えて、無数の人の胸に、小さな灯をともした。翌日には、その一節を、自分の言葉のように口にする者が、世界のあちこちに現れた。
翌日から、かの国の情報工作は、目に見えて勢いを失っていった。巧妙な嘘も、真実の前では脆い。とりわけ、当人が顔を上げ、自分の言葉で静かに語りかける。その姿の前では。
控室に戻ると、藤崎が待っていた。少し、目を赤くしている。
「……すごかったです。僕には、あんなふうに世界に語りかけるなんて、逆立ちしてもできない」
「そんなこと、ない」
「いいえ。でも」彼は、まっすぐに私を見た。
「あなたが言葉で世界と戦うなら。あなたのことは、僕が守ります。」
* * *
だが、かの指導者が、それで引き下がるはずもなかった。
人は、自分が見たいものを見る。
彼は確信していた。
あの女を、引退した有力政治家が養女として匿い、外務省が国家公務員として庇護下に置く。ダミーのデータを公表する。
....それは、表面だけを見れば、彼が、真実を覆い隠すためにやってきたことだった。
だからこそ、彼は日本政府が何かを隠しているようにしか思えなかった。
「あの検査結果こそ、隠蔽の証拠だ」と、彼は喚いた。データを捏造だと決めつけ、制裁を、示威を強めていく。
実力行使さえ、ちらつかせた。
老いに追われた男の、最後の悪あがきだった。
しかし、その判断力には既に陰りが見えていたのかもしれない。
* * *
かの国の地下深くに、その施設はあった。
被験者の一人に、若い男がいた。政権を批判する詩を書いた、それだけの理由で囚われた青年だ。彼の身体に、絵里香の細胞を模したものが、注ぎ込まれた。
はじめは、うまくいくかに見えた。すり傷が、みるみる塞がる。古い火傷の痕さえ、薄れていく。研究者たちは、成功だと色めき立った。
...だが、数日後。
青年の身体は、内側から暴れ始めた。増えてはならない細胞が、際限なく増え、秩序を失っていく。皮膚が盛り上がり、裂け、腕が、脚が、もはや腕とも脚ともつかない、赤黒い塊へと膨れ上がっていった。
むごいのは、意識だけが、最後まで残ったことだ。青年は、自分が人でなくなっていくのを理解したまま、声にならない声で、うめき続けた。
助けを求める、その目だけが、崩れた顔の中で、人のままだった。
その様子は、映像に記録され、指導者のもとへ届けられた。
老いた男は、それを、眉一つ動かさずに見ていた。うめく青年にではなく、傍らに並ぶ数値にだけ、目をやって。
彼は、短く言った。
「次を用意しろ」
それだけだった。一人の人間が人でなくなる、その地獄を前に、彼の関心は、自分の老いを止められるか否か、ただその一点にしかなかった。人の命は、彼にとって、目盛りを刻むための、材料にすぎなかったのだ。
しかし、それが何を引き起こすかは、彼の視野には入っていなかった。
* * *
一人の医師がいた。彼は、科学者であったが、神を信ずる者だった。
彼は、目の前で起こったおぞましい現象を、毎日のように夢で繰り返し見るようになった。
それは、彼女が言ったように「人を人として扱わなかった」ことに対する鉄槌であると感じた。彼女こそが、神の遣いではなかったか。
ある日、彼はそのデータを持って、フラフラとした足取りで研究所を出ていった。
そのデータは、堤防を破る蟻の一穴となった。
やがて真実は、堤を破る濁流となって、かの国の国内にもあふれ出した。
崩れゆく被験者を診た医師。
生き延びた証人。
我が子を奪われた母親たち。海を越えて記録を持ち出す者。
私たちが公開したデータを頼りに、彼らは、いっせいに声を上げた。医学的に定義された症状と、それを裏づける記録は、もう、消せなかった。
あの男の情報統制も、暗殺も、その圧倒的な数の前に、初めて役に立たなくなった。刺客を一人に差し向けることはできる。だが、同時に噴き出した無数の声を、すべて消すことはできない。一つ潰せば、二つ噴き出すのだから。
けれど、彼を本当に追い詰めたのは、告発の数ではなかった。
変化は、まず、人々の心の中で起きていた。テレビの前で泣いたあの兵士と母のように。長く指導者を信じてきた者たちの胸に、私の言葉が、小さな、けれど消えないひびを入れていた。目の前の人を、一人の人間として扱ってくれ。その一言が、彼らに問いかけたのだ。ならば、我らの指導者は、いったい何をしてきたのか、と。
そうして、恐怖が、崩れた。
あの男の力は、ずっと恐怖で支えられてきた。逆らえば、消される。だから、誰も逆らわなかった。だが、国民がいっせいに真実へ目を向けたとき、その恐怖は、もう機能しなかった。
* * *
ある朝。指導者は、いつものように側近へ命令を下した。うるさい批判者を消せ、と。
だが、その日、誰も動かなかった。
長年、彼の手足として働いてきた将軍たち。彼を守るはずの、警護の兵士たち。みな、目を伏せたまま、身じろぎ一つしなかった。
やがて、執務室の扉が開いた。入ってきたのは、彼自身が引き立ててきた、腹心の将軍だった。
「もう、終わりです」将軍は、静かに言った。「あなたは、我々を、世界の敵にした。国のために、退いていただく」
老いた指導者は、何か喚こうとした。だが、その声を聞く者は、もう、いなかった。恐怖という玉座を失った権力者は、驚くほどあっけなく、その座から引きずり下ろされた。
彼があれほど欲した、老いを止める術は、ついに手に入らなかった。そして、歴史に、彼の名は刻まれた。ただし、望んだような偉大な征服者としてではなく、自国民を実験台にした、一人の暴君として。
その一連の崩壊に、私たちはただの一発の銃弾も放っていない。すべてを隠さず開いたこと。人を救おうとする、その静かな行いの積み重ね。そして、たった数分の、飾らない言葉。それだけが、一人の巨大な権力者を、内側から自壊させたのだった。
* * *
長い嵐が、ようやく過ぎ去った。世界は、少しだけ、変わっていた。そして、私自身も。
ある日、私はあの駅で、また、あの母親に会った。足を失った息子を持つ、あの人だ。彼女は私を見ると、深く頭を下げた。
「あのときは、ひどいことを言って、ごめんなさい」その目は潤んでいた。「テレビであなたが語りかけるのを見て、気づいたんです。あなたは私の息子を見捨てたんじゃない。人が人でなくされていく世界に、たった一人で抗っていたんだって」
言葉が、出なかった。ただ、その手をそっと握り返した。
変わったのは、この人だけではない。あの日の言葉は、思いがけないほど遠くまで届いていた。国と国とのあいだにも、隣人どうしのあいだにも、深い溝がある。それが、一夜で埋まるはずもない。それでも、目の前の相手を、まず一人の人間として見る。そんな、ささやかなまなざしを、あの言葉から受け取った人が、確かにいた。世界は、ほんの少しだけ、やわらかくなった気がした。
私を見る目も、変わった。三年前、告発の会見のあと、世界が私に向けたのは、「奇妙な見世物」を見る目だった。人々は、私の顔かたちの美しさを語った。それは、うわべの美しさについてだった。しかし、今は私の行動が評価されている。
顔は、何一つ変わっていない。
それでも、世界が見る「美しさ」は、外側から内側へと移っていた。かつて人を遠ざけた美しさは、いまや、人々を私の言葉のもとへ呼び寄せる、入り口になっていた。見世物ではなく、信頼に足る一人の公人として。地盤も看板もない私が、政治の世界に立つための、ただ一つの土台が、そこにできていた。
あの会見場で、私は初めて、自分の言葉で世界に語りかけた。誰かの原稿ではない。私自身の言葉で。そして思い知った。これこそが、私のやりたいことなのだと。人の尊厳のために、自分の言葉で語り、自分の責任で決める。あの一度きりの例外を、私は生き方そのものにしたかった。
そのためには、末席にとどまってはいられない。他人の答弁を書き、指示を待つ場所では、私の言葉は力にならない。
私は、辞表を出した。少し早いかもしれない。それでも、人の尊厳が天秤にかけられる、あの部屋へ。今度は末席ではなく、自分の言葉で、決を下しに行くために。
蛹の時代は、終わった。硬い殻を、内側から破る時が来たのだ。
さあ――羽を、広げよう。




