表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Metamorphose-再誕  作者: 月の輝く夜に
26/28

暴風

私は、幸せだった。


後から振り返って、ようやくそうとわかる種類の、静かな幸福だ。そのときは、それが幸せだなんて、気づきもしない。その幸せを噛みしめることもない。


朝、九条の屋敷を出て、地下鉄に乗る。たったそれだけで、車両の空気が、ほんの少しだけ変わった。新聞から目を上げた男が、思わず二度見をする。学生らしい娘が、連れの袖を引いて、何かを囁く。そういう小さなさざなみを、私はもう、気にしなくなっていた。


かつて、この身体で初めて街を歩いた日、私は無数の視線に怯えた。見られることは、そのまま暴力だった。けれど月日が、その刃を、少しずつ丸めていった。


外務省での私の仕事は地味なものだ。

研修生という身分で、任されたのは担当地域の情報分析。毎日、担当する国々の新聞や放送に目を通し、要点を訳し、報告書にまとめる。華やかさとは、縁のない作業だ。


それでも、私はこの仕事が、性に合っていた。もともと語学は得意だ。

かつて暮らしたドイツの言葉はもちろん、英語も、独学で覚えた別の言語も、どうにか使える。


遠い国の人々が、いま何に怒り、何を恐れているのか。それを各地からの情報提供や、記事の行間や報道官の声の震えから読み取る。

地味ではあるけれど、奥の深い仕事だった。


「九条さんは、勘がいいな」と、上司の課長は言った。いつも眠そうだ。だが、要所だけは決して外さない。

「文章の裏にある、書き手の腹の内を読む。あれは、教わってできるもんじゃない」


ちょうどその頃、私が担当していた地域の一つに、長い戦争を続ける、あの大国があった。


その国の報道を、私は毎朝、追っていた。戦況は、日ごとに悪くなっている。

戦死者の数は伏せられ、代わりに、勇ましい言葉ばかりが増えていく。行間からにじむのは、指導者の焦りだった。国民の不満が、静かに、けれど確実に、たまり始めている。そう、私は報告書に書いた。


週末には、藤崎と会った。医学部の最終学年に上がった彼は、卒業試験と、病院での実習に追われていた。二人の休みは、なかなか噛み合わない。それでも月に何度か、私たちは小さな喫茶店で向かい合い、とりとめのない話をした。


「この前の実習、どうだったの」

「怒られてばかりですよ」藤崎は、頭をかいた。「まだ、患者さんの前に立つと、緊張して。手が震えるんです」

「意外。あなた、肝心なときは、肝が据わってるのに」

「そうですか?」彼は、きょとんとした。自分では、気づいていないらしい。


九条の屋敷の食卓は、相変わらず賑やかだった。義母の聡子は、私の顔を見るたびに、藤崎との仲を根掘り葉掘り訊いてくる。養父の九条は、それを聞いてブツブツと言って拗ねた。


平凡な、何でもない日々だった。

長い旅路の末にやっとたどり着いた、平凡な女性としての暮らしが、いつまでも続くのだとどこかで信じていた。だが、それは危うい均衡の上に立っていたのだ。



そして、ある朝。いつものように、かの国の国営放送を確認していた私は、聞き覚えのある音の並びに、思わず手を止めた。


アナウンサーが、私の名を、口にしていた。



数日後。かの大国の指導者が、全世界に向けて演説を打った。

私は省の会議室で、大きなモニター越しに、それを見た。同僚たちと肩を並べ、通訳の声に耳を澄ませながら。担当地域の分析官として、この演説の意味を読み解くのも、私の仕事だった。


画面の中の老人は、憔悴した顔で、しかし芝居がかった熱を込めて、語りかけてきた。


長引く戦争。おびただしい戦死者。そして、それ以上の数の負傷者たち。手足を失い、顔を焼かれ、二度と元の身体には戻れない若者たちが、いま、あの国の路上にあふれている。英雄として送り出され、傷ついて帰ってきた者たち、とその指導者は言った。


「我々は、彼らを救わねばならない」指導者は、拳を握った。


「幸いにも、この世界には、希望がある。日本に、失われた肉体を完全に再生させる技術が存在する。その生き証人が、一人の女性として、実在するのだ」


会議室が、ざわついた。何人かの視線が、そっと私に向けられるのを、肌で感じた。

「日本政府に要求する。かの女性の身柄と、その細胞サンプルを、人類全体の福祉のために、供出せよ」

通訳の声が、そこで一瞬、詰まった。


「日本は、この奇跡を一国で独占している。人類のものであるべき恩恵を、(わたくし)している。恥を知れ」


演説が終わっても、しばらく誰も口をきかなかった。重い沈黙の中で、隣の課長が、ぼそりと言った。

「……厄介なことになったな、九条」

「はい」

それだけ答えるのが、精一杯だった。背筋が、冷たくなっていた。


表向きは、人道。傷ついた兵士を救うという、誰も反対できない大義。けれど、何かが引っかかった。毎朝あの国の報道を読み込んできた私の勘が、この演説には裏がある、と告げていた。



その夜、九条の書斎で、私はこの件を切り出した。

「お義父様。あの指導者の狙い、負傷兵の救済なんかじゃ――」

「ないな」九条は、私が言い終える前に、あっさりと引き取った。

「そんなことは、あの演説を聞いた、最初からわかっておる」

「最初から?」

「長く、この世界を裏から見てきたのでな」彼は、安楽椅子に深く沈み込んだまま、目を細めた。「ああいう手合いは、たいてい、同じ道をたどる。……いいか、絵里香。あの男はもともと、自分の名を、歴史に刻みたかったのだ。だから、隣の小国に、攻め込んだ」


「征服者として、名を残すつもりだった。ところが、思わぬ抵抗に遭ってな。何年経っても、その国を併合できずにいる。手に入ったのは、山のような戦死者と、それを上回る負傷者だけだ」


「……それで、あの、負傷兵の救済という大義を」

「そうだ。皮肉なものよ。自分が始めた戦争で傷ついた兵を、今度は、自分を救うための口実に使う」九条は、鼻で笑った。

「あの男は、焦っておる。このまま死ねば、歴史に残るのは、無謀な戦を始めて失敗しただけの、愚かな指導者。その汚名だけだ。それが、我慢ならんのだろう」

「歴史に、名を……」


「そして、その名を刻むための時間が、もう残っておらん」九条の声が、低くなった。「あの男は、老いておる。死が、すぐそこまで来ている。だからこそ、何としても、お前の身体の秘密が欲しいのだ。老いを止め、寿命を延ばし、失敗を挽回するための、時間を稼ぐためにな」


私は、背筋が冷たくなった。九条の読みは、私が毎朝、あの国の報道の行間から感じ取ってきた不安と、寸分違わず重なっていた。伏せられる戦死者の数。増える一方の、勇ましい言葉。あれは全部、追い詰められた男の、焦りの裏返しだったのだ。


そして、その目を、私は知っていた。研究を奪ったあの鷲尾と、同じ目だ。ただ違うのは、その手に、国家という巨大な力を握っているという、その一点だけだった。


「厄介な手合いだ」九条は、指を組んだ。「私利私欲を、人道の面で塗り固めておる。……絵里香。これは、お前一人の問題では、済まなくなるぞ」

その予感は、翌朝には、もう現実になっていた。



かの国の攻勢は、演説だけでは終わらなかった。

数日のうちに、日本のインターネットが、奇妙な言葉であふれ返り始めた。

「日本政府は、奇跡の技術を隠蔽している」「たった一人の女を守るために、何万人もの負傷者を見殺しにするのか」「あの女は、本当は政府の実験体らしい」


どれも、精巧に作られた作り話だった。実在しない専門家が、もっともらしく解説する動画。加工された写真。そして、AIがひとりでに書き散らした無数の投稿が、まるで本物の民意のように、増殖していく。かの国が仕掛けた、情報戦だった。


人の心の、いちばん柔らかいところを、狙いすまして突いてくる。


皮肉なことに、この手口を、私はよく知っていた。外務省で、まさにこの国の情報戦術を、分析してきたのだ。

世論を内側から掻き回し、人の疑心を燃料にして、火を大きくする。報告書に書いた、そのやり口がいま、私自身に向けられていた。


恐ろしいのは、それが嘘だと頭ではわかっていても、心のどこかが、ざわついてしまうことだった。


世論は、みるみる沸騰した。私を擁護する声と、「差し出せ」と叫ぶ声が、街を、画面を、真っ二つに引き裂いた。省の前には、私の顔写真を掲げた集団が、押しかけるようになった。


通勤の途中、駅の構内で、見知らぬ中年の女に、いきなり呼び止められたことがあった。

「あなた、あの人でしょう。ねえ、なんで応じないの」女の声は、震えていた。「うちの息子も、事故で足を失くしたのよ。あなたなら、治せるんでしょう。それを、なんで――」


言葉に、詰まった。何も、言い返せなかった。ただ頭を下げて、その場を離れることしか、できなかった。


背中に、すすり泣きが聞こえた。あの人の苦しみは、本物だった。かの国の作り話とは、まったく別の次元で、本物だったのだ。


省内の空気も、日に日に張り詰めていった。廊下を歩けば、「あの女のせいで」という、声にならない声が、空気を重くする。私を庇ってくれる同僚もいたが、彼らまで、私のせいで矢面に立たされていた。


あの、ちゃらんぽらんな課長でさえ、めずらしく難しい顔をして、煙草の本数を増やしていた。あるとき、彼は残業帰りのエレベーターで、独り言のように呟いた。


「敵さんも、うまいことやるよなあ。銃も撃たず、ミサイルも撃たず、人の頭の中だけ、乗っ取っていくんだ」

「……はい」

「これはな、九条。おまえが、いつか政治の場で戦おうって決めた、その戦場そのものだよ。技術で真実をねじ曲げて、嘘を本当にすり替える。それが、もう、現実の刃になって、おまえに向いてる」


課長の言うとおりだった。私がいつか挑もうとしていたものが、その正体を剥き出しにして、いま、私自身に襲いかかっていた。


********


私を、いちばん深く苦しめたもの。それは、世論の罵声でも、かの国の圧力でもなかった。

私自身の、迷いだった。


――差し出すべきなのだろうか。

嘘で塗り固められた大義の、そのいちばん奥に、確かに本物の苦しみがあった。手足を失い、絶望の底にいる兵士たちは、実在する。駅で私を呼び止めた、あの母親の涙も、本物だった。そして私は、知っていた。この身体に宿るものが、ひょっとしたら、本当に、あの人たちを救えるかもしれないということを。


私が拒めば、どうなる。私は、この身可愛さに、救えるはずの命を見殺しにするのではないか。人間の尊厳を守ると誓った私が、まさにその尊厳を自分だけの盾にして。


眠れない夜が続いた。ある晩、たまらなくなって、私は倉田に電話をかけた。闇の医療を引き継いだ、かつての相棒に。


「めずらしいな、お前から電話とは」受話器の向こうで、倉田の低い声がした。「で、迷ってるんだろう。差し出すべきか、どうか」

見透かされていた。


「……ええ」

「やめとけ」倉田は、あっさりと言った。「お前が身を切り刻ませたって、あいつらは救えん。お前の身体は、たまたま噛み合った歯車の集まりだ。バラして中を覗いたところで、同じ歯車は、二度と組めん。真似した奴らが、どうなったか。忘れたのか」


忘れるはずも、なかった。私を模倣した者たちは、一人残らず、無惨な死を遂げていた。

「それにな」倉田は、少し声を落とした。「これは、救う救わないの話じゃない。あいつは、老いを買い叩こうとしてるだけだ。お前が差し出す一滴の血も、負傷兵には一滴も届きゃしない。全部、あの老いぼれの、皺を伸ばすために使われる。それだけだ」


その夜遅く、今度は藤崎から、電話がかかってきた。私が塞ぎ込んでいるのを、聡子から聞きつけたらしい。


「絵里香さん。……まさか、応じようなんて、考えてませんよね」

私が黙ると、電話の向こうで、彼が息を呑むのがわかった。

「だめですよ」藤崎の声は、いつになく鋭かった。「絶対に、だめだ」

「でも、あの兵士たちは、本当に苦しんでるの。もし、私に救えるなら――」


「救えません」彼は、私の言葉を、きっぱりと遮った。「いいですか、絵里香さん。よく聞いてください。あなたの身体は、数えきれない偶然が、たまたま噛み合ってできた、一度きりのものです。切り刻んで調べたところで、同じものは、二度と組み上げられない。……あなたを真似ようとした人たちが、どうなったか。医学部の授業でも、あれは特異な失敗例として、扱われるくらいです。一人も、助からなかった」


珍しく、彼は一歩も引かなかった。あのおどおどした青年の、どこにこんな強さが隠れていたのか。


「あなたを差し出すというのは、つまり、こういうことです。誰一人救えないのに、あなただけが、この世界から消える。ただ、それだけ。……そんなことを、僕が、黙って見過ごすと思いますか」

「……」


「それに」彼の声が、ふっと和らいだ。「もし本当に、あの人たちを救う道があるなら。あなたを傷つける以外のやり方を、必ず探します。僕は、まだ、ただの医学生です。たいした力もない。……でも、いつか、必ず。それを見つけることが、これから僕の、生きる理由になるんだと思います」


その一言で、こらえていたものが、こぼれた。

この人は、いつだって、私を材料としてではなく、一人の人間として見てくれる。世界中が、私を「奇跡のサンプル」として値踏みする中で。たった一人、この不器用な男だけが、私を、私として、守ろうとしてくれていた。


「……ありがとう」

やっとの思いで、それだけ言った。電話の向こうで、藤崎が、少しほっとしたように、笑う気配がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ