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Metamorphose-再誕  作者: 月の輝く夜に
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一歩

一泊二日の小旅行から帰ると、九条家の玄関で義母の聡子が待ち構えていた。


「おかえりなさい、絵里香さん」

そう言って、私の顔をしげしげと覗き込む。

何か品定めでもするように。


「あら」

聡子が、にんまりと笑った。「いいことが、あったみたいね」

...私はどきりとした。


「な、何のことですか」

「隠したってわかるわよ。お顔が、柔らかくなったもの」

聡子は、勝ち誇ったように言った。


「この前まで、あなた、どこか張り詰めていたでしょう。氷みたいにきれいだけど、近寄りがたい感じ。それが今日は……ねえ。すっかり、女の顔になったわ」

母親というものは、なぜ、こういうことだけは、見抜いてしまうのだろう。


下田での夜のことを、私は、誰にも話していない。それなのに、聡子はまるで全部知っているような顔で私を見ている。


「藤崎さんでしょう」とどめを刺すように、聡子が言った。「あの初々しい坊や。まあ、お母さん、嬉しい!」


聡子は、もう頭の中で、結婚式の段取りまで組み立て始めているらしかった。まだこっちははじめの一歩を踏み出しただけだ。いくらなんでも、早すぎる。私は、適当にあしらってその場を逃げ出した。


その夜、私は、義父の書斎に呼ばれた。


九条匡義。私の養父であり、かつて、この国の政治の中枢にいた男。


彼が私に政治の道を勧めたのは、もう三年も前のことになる。


「絵里香」九条は、安楽椅子に深く身を沈めたまま言った。

「あれからお前も官庁に入り、色々感じたこともあるだろうから、改めて聞こう。政治の道を志すか」


私は簡潔に答えた。

「はい」


「では、お前は政治家になって何がしたい」

来たか、と思った。


「人間の尊厳を守りたい、そう思っています」と、私は答えた。


それは嘘偽りのない私の根っこだった。研究を奪われ名前も存在も消され、貶められたあの日々。そしてその後も各国の機関には再現可能な実験材料として値踏みされ狙われた。

人が、人を、道具として数字として扱う。その冷たさを、私は、骨の髄まで知っていた。だから――人が、人として扱われる世界を。それを守りたい。


「ただ」と、私は、すぐに続けた。「それを、ただ声高に掲げただけでは、一票も入らないことも、よくわかっています」

九条が片眉を上げた。


「政治家のところには、ありとあらゆる問題が、降ってきます。戦争。AI。景気。災害。少子化。環境。有権者が、本当に知りたいのは、明日の暮らしが、年金が、子どもの預け先が、どうなるか。そこへ、『人間の尊厳が大切です』と、念仏のように唱えたところで、誰の心にも、届きはしません」

自分で言いながら、胸が苦しくなった。私の理想は、美しい。けれど美しいだけでは、誰も救えない。

「そこまで、わかっているなら」九条は、面白そうに言った。「どうする」


その答えを、私は、ずっと探していた。そして、その手がかりは、思いがけないところに転がっていた。

つい、先日のことだ。


ある条約から派生する法案をめぐって、国会で、厳しい質疑が予想されていた。私は、担当の一人として、大臣の答弁案を任された。


私は力を込めて答弁案を書いた。ありきたりな官僚答弁ではなく、問題の本質に踏み込んだものを。

我ながら、熱のこもったいい文章ができたと思った。


それを、課長のところへ持っていった。

課長は、私の答弁案を、ぱらぱらとめくると即座に赤を入れ始めた。

「ここ、いらない」「これも、言いすぎ」「この一文、いらん波風が立つ。」

熱を込めて書いたところから、順に削られていく。気がつくと、私の答弁案は、見る影もなくなっていた。残ったのは、当たり障りのない、毒にも薬にもならないつるりとした文章だった。

「これで出しておいてくれ」課長は、さらっと言った。


私は、内心ひどく白けていた。こんな、誰の心にも引っかからない、空っぽの言葉を、大臣が、議場で読み上げる。

それに、いったい何の意味があるのだろう。私は、いずれこの言葉を読み上げる側に回ろうとしている。なのに、その中身がこれでは。

私が目指すものと目の前のこれとのあいだに、私は、ひやりとしたずれを感じた。


その夜、答弁の準備がすべて片づいたのは、日付が変わってからだった。

役所を出て、私と課長は方向が同じだからと、一台のタクシーに乗り込んだ。タクシー台節約のため途中まで一緒に帰るのだ。時代は変わり、こんなところも経費節減が求められている。窓の外を深夜の霞が関の無人のビル街が流れていく。

霞が関には、まだ明かりの点いている部屋がたくさんある。


「課長」我慢できずに私は訊いた。「あんな当たり障りのない答弁に、意味があるんでしょうか。あれでは何も言っていないのと同じです」

課長は、シートにだらしなく沈み込んだまま、ふっと笑った。「あるさ」

「でも――」


「いいか、九条」課長はネクタイをさらに緩めた。「何か訴えたいことがあるなら、それは政治がやることだ。俺たちの答弁は、あくまで、官僚の答弁にすぎん。最後にどこまで踏み込むかを決めるのは、政治家であるべきなんだよ。俺たち役人が、勝手に旗を振っちゃいけない」

私は、黙って、聞いていた。


「確かに、答弁の九割は、読み上げられてそれで終わりだ」課長は続けた。「だが、残りの一割は違う。そして、その一割を活かすために九割の退屈な土台がいるんだ」

「土台、ですか」

「政府ってのはな、何があっても、一本筋が通ってなきゃならん。昨日と今日で、言うことが違ったら国はもたない。その筋をならして保つのが、俺たち官僚の仕事だ。毒にも薬にもならない、と、お前は言ったがな――その、ならされた土台が、あるからこそ」


課長は、窓の外へ、目をやった。

「政治家はその上に立って、もう一歩踏み込める。『政府の見解はこうだ。だが、私はここまでやる』とな。その一歩にこそ、政治家の値打ちがある。土台がなけりゃその一歩もただの思いつきにしかならんのさ」


ちゃらんぽらんで、隙あらば居眠りばかりしているこの男が。こういうときだけ妙に芯を食ったことを言う。

抑えるところは、抑える人だった。


「お前さんが、もしいつか読み上げる側に回ったら」課長は、欠伸まじりに言った。「せいぜい、いい『一歩』を踏み込むんだな。退屈な土台のほうは、俺たちがちゃんと作っといてやるからよ」


タクシーが私の降りる場所に着いた。私は礼を言って夜の街に降りた。

土台と、その先の一歩。その言葉が、ずっと、私の中に、残っていた。

――その、土台と、一歩。

課長の言葉と、私自身の歩んできた道とが、いま、ゆっくりと重なっていく。


人間の尊厳は、高く掲げる旗ではなくて、あらゆ

る問題のその土台の下を貫いて走る背骨なのだ。


戦争を論じるときも、AIを論じるときも、少子化を論じるときも。その一つひとつの生々しい現実にまず地道な答えを出す。

年金にも、災害にも、丁寧に向き合う。そのうえで、その一つひとつに「人を、人として、扱えているか」という、一歩を踏み込む。


そして、私には、その一歩を誰よりも深く踏み込める覚悟があった。ほかでもない、私自身の経験から、導き出された答えだ。


科学技術と、人間の尊厳とが、正面からぶつかり合う最前線。AIが、人の判断を、やがては人格さえも肩代わりしようとする時代。遺伝子を書き換え、老いや病を設計し直せるかもしれない時代。子を産むか産まないか、どんな子を産むかさえ、技術が選べるようになるかもしれない時代。


そのとき、人はどこまで人でいられるのか。

私は、その問いを誰よりも身をもって知っていた。なにしろ、私自身がその問いの答えの一つなのだから。遺伝子を組み替え、別人の身体で生き、世界中から実験材料として狙われた女。

少子化を議場で論じながら、私は、自分が子を産めるのかさえわからずにいる。

これは机上の空論ではない。私が、この身でくぐってきた現実だ。だから語れる。ほかの誰にも、語れない言葉で。


「決めました」と、私は、九条に言った。

「私は、土台は地道に全てのことを勉強して、答えを出していきます。そのうえで、私にしか踏み込めない一歩を、人間の尊厳が損なわれないかという観点から踏まえて踏みこみます。それが――私が、私である理由だと、思います。」


九条は、しばらく私を見つめていた。

そして・・・満足げに深く頷いた。

「いいだろう」と、彼は言った。「それでこそ、私の娘だ」


国家の行く末を語るときの、彼の頭脳は、いまも、少しも、衰えていなかった。八十を超えてなおその眼力は、現役の誰よりも鋭い。


「絵里香。一応言っておくが」九条は、付け加えた。「私の地盤はもうない。あの選挙区にはもう別の候補が立っている。いまさらお前をねじ込む余地はない」

「わかっています」と、私は答えた。

最初からあてにはしていなかった。


「お前は、お前の力で、ゼロから自分の足場を築くんだ。……まあ、それもお前なら心配はいらんだろう」

名もなく戸籍だけを頼りに、この世界へ放り出されたあの日のように。

私は、何もないところから、始めるのだ。

けれどそれはもう怖くはなかった。

私にはたくさんの人がいる。


かつて闇の中で続けていた、あの危うい医療の仕事は、いまは倉田がそっくり引き継いでくれている。「お前はもう表の人間だ。こっちは俺がやる」と。光の中へ出ていく私と、闇に残る倉田。

一度交わった道はまた分かれた。


それでも私が、闇で救おうとしたものとこれから、光の中で守ろうとするものは、たぶん同じものだった。


――と。ここまでは、実に、よかったのだ。

「それにしても、絵里香」九条は急に真剣な顔をして続けた。

「お前は、まったく、よくできた娘だ。……それが、いつのまに、藤崎などという、どこの馬の骨とも知れん小僧に……」とブツブツ言い出した。


私は、頭を抱えた。

政も、財も、国際情勢も。あれほどよどみなく語る頭がなぜかここだけポンコツだ。


「あなた、また、絵里香さんを、困らせて」

お茶を運んできた聡子が、呆れ顔で、割って入った。「絵里香さんは、もう、立派な大人で、これから、政治家になろうという人ですよ。いつまでも、小さい子だと思って」

「むう。……だが、聡子。この子は私の大事な――」

「はいはい。大事な娘、でしょう。わかっておりますよ。ほら、もう遅いですから、お薬を飲んで、お休みなさいませ」

天下国家を論じたばかりの口に、聡子が、ひょいと、薬を放り込む。九条が子どものように、渋い顔をする。


私は、こらえきれずに、噴き出した。

国の行く末を、誰よりも鋭く見通す、この人が。私のことだけは、まるで、孫を溺愛する、どこにでもいる、ただのおじいちゃんになってしまう。

けれど――こういう、何でもない、可笑しな景色こそが。私が守りたいと願う、人間の尊厳の、いちばん奥にあるものなのかもしれない。ふと、そんなことを思ったりした。


こちら、一定数継続してお読みいただいている方がおり、励みになっております。

他方で、やはり「小説家になろう」の中では異色の作品であり、文芸系を読む読者層が少ないので投稿先を変えた方が良いのではないか、との指摘をいくつか受けているところです。


元々第三者に読ませるつもりもなく書き始めた小説ではあったのですが、書いていくうちにテーマ性や物語を織りなすことにかなりこだわりが出てきてしまいました。


なので、恐縮なのですが、一区切りついた段階でこの小説は小説家になろうからは撤退させていただき、他サイトへの投稿に切り替えようと思っています。


ご容赦くださいませ。

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