一つ
本当は、石垣島にでも行きたかった。
真っ青な海と、白い砂浜。南の島で、何もかも忘れて、二人で過ごす。そんな絵を、私はひそかに描いていた。
けれど、現実は、そう甘くない。霞が関の1年生に、まとまった休みなどそうそう取れるものではない。藤崎も藤崎で、医学部の最終学年、国家試験を控えて首が回らない。
二人の、わずかに重なった休みをかき集めて、ようやく捻り出したのが、一泊二日。行き先は、石垣島から大幅に後退して、伊豆の下田になった。
それでも、海は海だ。
東京から特急で、二時間ちょっと。
窓の外を相模湾がきらめきながら流れていく。隣で、藤崎は船を漕いでいた。よほど疲れているのだろう。口を半分開けて眠る、その間抜けな寝顔を、私は、飽きもせず眺めていた。
下田の海は、思いのほか、美しかった。
夏の盛りを少し過ぎて、人もまばらだった。白い砂浜と遠浅の透き通った海。部分部分がエメラルドブルーで、東京から電車で2時間でこんな綺麗な海に来られることを、四十数年も生きていて知らなかった。私たちは、靴を脱いで、波打ち際を歩いた。
冷たい水が、足首を洗う。藤崎が、子どものように波を蹴ってしぶきを上げた。研究のことも、仕事のことも、ここには届かない。久しぶりに私はただの二十代の女として海辺にいた。
「絵里香さん」歩きながら、藤崎が、ふと言った。「来てよかった」
「うん」
「石垣島じゃなくて、ごめんなさい。いつか、絶対、連れて行きますから」
「気が早いよ」と、私は笑った。「まだ、一緒に海に来ただけなのに」
「……それも、そうですね」
彼が、照れたように、首の後ろを掻いた。その仕草が、おかしくて、愛おしかった。
宿に戻り、夕食を済ませ、温泉に浸かって部屋に戻った頃にはすっかり夜だった。
窓を開けると、潮の匂いと、波の音が流れ込んでくる。二人で、縁側に並んで腰を下ろした。
「藤崎」と、私は切り出した。「ちゃんと、話しておきたいことがあるんだ」
これまで、ずっと避けてきた話だった。テキストの向こうの、当たり障りのないやり取りに逃げてきた話。けれど、ミュンヘンの夜空を見ながら私は決めた。もう、逃げない、と。
「知ってると思うけど、私の身体は、不安定なんだよ」私は、言った。「いつ、どうなるか、わからない。明日急に崩れるかもしれない。何年もつのか、誰にもわからない」
藤崎は、黙って聞いていた。
「それに……子供を、産めるかも、わからない。そもそも妊娠できるのかも、できたとして、この身体で無事に産めるのかも。子供に、どんなリスクが及ぶのかも.....何もわからないんだ」
言ってしまうと、楽になるどころか、胸が苦しくなった。彼の人生を、私の不確かさで縛ってしまう。その後ろめたさが、改めてのしかかってきた。
「だから、もし、あなたが――」
「絵里香さん」
藤崎が、私の言葉を遮った。
「全部、わかってます」彼は、静かに言った。「ずっと前から。その上で、僕は、絵里香さんと一緒にいたいんです」
「でも、子供が――」
「子供は、いてもいなくても、いいです。いたら嬉しいけど、いなくても、絵里香さんがいてくれたら、それでいい。それに――」
彼は、少し、言葉を選んだ。
「僕、決めたんです。進路」
研究に行くか、臨床に行くか。彼がずっと迷っていたことは、知っていた。
「臨床は、目の前の患者を助けられる。確かな手応えがある」藤崎は、波の音に紛れるような声で言った。「研究は……何年かけても、何も生まれないかもしれない。報われないかもしれない」
私は、黙って聞いていた。研究という言葉に、神谷真の人生がよぎった。半生を捧げ、奪われ、すべてを失った、あの男のことが。
「研究は、やめておきなよ」つい、私は言ってしまった。「あれは……報われない世界だよ。報われないどころか、人生を丸ごと持っていかれることも、理不尽すぎることもある」
神谷真のことを言っていた。彼にも、それは伝わったはずだ。
「知ってます」藤崎は、うなずいた。「神谷さんの……あなたの過去のことも、考えました。研究が、一人の人間を、どれだけ追い詰めたか」
それから、彼は私をまっすぐに見た。
「でも、僕は、研究に行きます。再生医療をやるつもりです」
私は、驚いて、彼を見た。
「あなたの身体のことを、もっと知りたいんです」彼は言った。「なぜ、あなたが生き延びたのか。どうすれば、その不安定さを抑えられるのか。子供を産める可能性があるのか。――誰も、わからないって言うなら、僕が、わかるようになりたい」
胸を、突かれた。
「僕には、あなたを政治の世界で守る力も、お義父さんみたいな人脈もありません」藤崎は、少し笑った。「でも、これなら。僕にしか、できないことかもしれない。あなたのために研究をする。あなたと一緒に生きる時間を、一日でも長くするために」
研究という、「神谷真」という一人の人間を滅ぼした道。それを、藤崎は、私のために選ぼうとしていた。同じ一本の道が、その選択で憎しみと喪失の道にも、愛と希望の道にも、なりうるのだ。
「……ばかだなあ」と、私は言った。声が、震えていた。「そんなの、報われないかもしれないのに」
「報われますよ」藤崎は言った。「だって、ゴールが、あなたなんですから」
その夜、私たちは、結ばれた。
藤崎の手が、そっと、私の手に重なった。その先のことは、もう、言葉はいらなかった。
.....ただ、もう一つだけ、打ち明けておきたいことがあった。
「藤崎」私は、消え入りそうな声で言った。「私、女として……こういうの、初めてなんだ」
彼が、息を呑むのが、わかった。
そうなのだ。神谷真として、私は結婚もし、子もなした。けれど、それは男としての話だ。この身体で、誰かとこうして向き合うのは、生まれて初めてだった。四十六年も生きてきて、まるで初心な少女のように、私の胸は高鳴っていた。
「……怖いですか」藤崎が、囁いた。
「ううん」と、私は首を振った。「怖くない」
かつて、桑原に壁へ叩きつけられたとき、私は、女の身体の無力さに、ただ怯えた。男の力の前で抗えない恐怖を思い知った。
けれど、いま、同じ無力さの中に、私は、まるで違うものを見ていた。委ねることの、安らぎ。守られることの、温かさ。同じ脆さが、恐怖にも、信頼にもなるのだと私は初めて知った。
部屋の明かりが、静かに落ちた。波の音だけが、二人を包んでいた。
――そして、その先のことは、語るまい。
どれくらいの時間が、過ぎただろう。
気がつくと、私は、藤崎の腕の中にいた。窓の外は、まだ夜だった。波が、寄せては返している。彼の心臓の音が、頬に伝わってくる。規則正しく、力強い、生きている音だった。
身体の奥に、これまで知らなかった、深く、温かな満ち足りが、残っていた。
男だった頃の、あの鋭く、性急ですぐに醒めてしまう快楽とは、まるで違う。もっとゆっくりとした、全身を浸す、波のような充足だった。それは、肉体だけのものではない。誰かと、心の奥まで、深く繋がったという――そういう種類の、満たされ方だった。
これが、女として愛されるということなのか。
私は、その余韻が、身体の隅々にまで染み渡っていくのを感じていた。指の先まで、温かい。心臓は、まだ少し速い。
しっとりと汗ばんだ肌が、彼の肌と、境目もわからないほどに馴染んでいた。
この身体を、私は借りものだと思ってきたところがある。エーリカの身体。作りものの、自分のものではない器だと。
けれど、いまは、違った。
この身体で、私は、感じ、悦び、満たされた。この胸の高鳴りも、この温もりも、この満ち足りも、まぎれもなく、私自身のものだった。
私は、ようやく、この身体と、一つになれた気がした。
やがて、藤崎の、健やかな寝息が聞こえてきた。
本当に、世話の焼ける男だ。こんな大事な夜に、先に寝てしまうなんて。
けれど、その無防備な寝顔を見ていると、胸の奥が、じんわりと温かくなった。
この人は、私のために、研究の道を選んだ。神谷真を滅ぼした、あの道を。ゴールを、私にして。
私は、そっと、彼の額に唇を寄せた。「ありがとう」と、聞こえないように、小さく囁いた。
窓の外で、夜の海が、静かに息づいていた。
南の島には行けなかった。
けれど、私たちには、これから、いくらでも時間がある。――そう信じてもいいような気が、していた。
不確かな身体。不確かな未来。それでも、いまこの瞬間、私は、確かに幸せだった。
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藤崎修二には、ずっと、引け目があった。
九条絵里香という女は、自分には不釣り合いだと、彼は思っていた。世界が振り返るほどの容姿。誰もが知る、あの記者会見。引退した大物政治家の養女に、外務省のキャリア。――そして、かつて神谷真という、優れた研究者であった人。
そのどれを取っても、平凡な一医学生とは、釣り合わなかった。
惹かれたきっかけが、あの容姿だったことは、否定しない。けれど、時間を重ねるうちに、藤崎が見ていたのは、もう顔ではなかった。
時折見せる鋭い眼差し。
女子の会話に入り込みきれない不器用さ。
そして、その奥に沈む、底知れない孤独。
完璧に見えるこの人は、本当は、ひどく危うい場所に、たった一人で立っている。
自分には恋愛経験はほとんどないが、それでも目の前のこの人を離してはいけないと思う。それはいっときの感情ではない。離したら一生後悔するだろうと思い続けていた。
その夜、縁側で、絵里香が自分の身体のことを打ち明けたとき。藤崎は、内心震えていた。この人がいつかふっと消えてしまうかもしれない。その怖さが、初めて現実の重さをもって迫ってきたからだ。
研究か、臨床か。何年も答えの出なかった問いが、その瞬間、嘘のように解けた。
――僕は、ただ、この人を好きでいるだけでは、嫌だ。
目の前のこの人がいなくなるかもしれないのに、何もできずに、ただ見ているだけなんて、耐えられない。
誰もわからないと言うのなら、自分が、わかる人間になる。それが自分にできるたった一つのことだ。口にしてみると、自分でも驚くほど、迷いがなかった。
その夜のことを、藤崎は、生涯忘れないだろうと思った。
そして、女として初めてだと、絵里香は言った。その言葉の重さ。
四十六年を生きてきた人が、顔を真っ赤にして少女のように、自分の腕の中で小さく震えている。その人が、自分にすべてを委ねてくれた。それは、欲望よりも先に途方もない畏れにも似た感情だった。
大切にしよう、と思った。この人の、過去も、これからも、丸ごと。
いいじゃないか。自分は決して大した人間じゃない。だから、目の前の人に人生を捧げてみよう。それできっと後悔しないし、そうでない方が後悔する。
――そんなことを思いながら、眠りに落ちた。
初めて知る互いの温もり。
翌朝。
そんな決意とは裏腹に、藤崎と絵里香は互いを見合って真っ赤になっていた。互いに目を合わせられず、気まずいわけではないが、おそろしくぎこちない空気の中、朝食をとって帰途についた。




