邂逅
そんな宙ぶらりんの関係のまま、私はドイツへ出張することになった。
正確には「随行」である。大臣級の要人がミュンヘンの国際会議に出席する、その大代表団の、ほんの末席だ。研修生の私の役割は、要するに荷物持ちと雑用係。
ドイツ語ができるという、ただそれだけの理由で駆り出された。
華々しい外交とは程遠い。
空港で団長の荷物を取り違えそうになり、ホテルではWi‑Fiの繋ぎ方を尋ねられ、会議場では延々とコピーを取る。本省から指示が来ていないかをチェックする。霞が関の雑用が、そっくりそのまま、海を渡ってきただけだった。
それでも、ミュンヘンだった。懐かしく、そして私が神谷真であったときから避け続けた場所。きっと命じられなければ一生来なかった場所だ。
妙な気分である。白人の顔をして、ドイツ語を話す女が、日本国の旅券、しかも外交旅券(※)を手に、日本代表団の一員としてこの街に降り立つ。
入国の係官は、私のパスポートと顔を二度見比べた。
明らかに東洋人の顔ではないので、無理もない。まあ何らかの事情で日本に帰化したのかとでも思っているかもしれない。そこはさすが外交旅券であるから不正取得を疑われることはなかった。
空港から一歩外にでれば、そこは既に懐かしい空気の香りがした。どこか乾いた草のような香りがする。20年ぶりに嗅いだ香りだが、その香りが過去の記憶を喚起する。
ミュンヘン。
かつて私が――いや、神谷真が留学時代を過ごした街だ。
そしてエーリカと暮らした街でもあった。
市の東側にあるメッセでの会議の後、市内のホテルに戻ってから少しだけ自由な時間ができた。私はあてもなく街を歩いた。足は、導かれるように中心街に向かっていく。
古い石畳。並木。市庁舎とその前の広場。
教会の鐘の音。ビアホール。
何もかもが、二十年前とほとんど変わっていなかった。
変わったのは私のほうだ。
あの頃、この道を歩いていたのは、貧乏な留学生の冴えない日本人の男だった。
いまは、白人の若い女の姿をして、ヒールのある靴で同じ道を歩いている。
広場の横には、エーリカと行ったカフェがまだあった。
彼女がボーイフレンドと別れた時にわんわん泣いていたカフェだ。
二人で安いコーヒーを分け合い、何時間も、くだらない話をした店だ。
彼女は、よく笑う女だった。
私の下手なドイツ語を容赦なくからかった。
懐かしさが込み上げる。そして、胸の中に、封印していた喪失の痛みが疼き出す。あの頃カフェで話をしていた二人の姿はここにない。
今はエーリカの魂はここにはなく私だけがここにいる。鏡をみればそこにはエーリカに似た女がいるが、それだけだ。その女は私の疑問に答えてはくれない。
そして私は決めた。この出張のあいだに、もう一度だけ彼女に会いに行こうと。私が避けていたことに向き合おう、と。
会議が終わった翌日、私は一日だけ休暇を取った。
ミュンヘンから列車に乗る。南へ二時間ほど。
窓の外を、牧草地と点在する赤い屋根の家々が流れていく。少しずつアルプスに向けて標高が高くなっていき、やがて列車は小さな田舎町の駅に着いた。
エーリカが、生まれ育った町だ。そして、彼女が眠る町でもある。
町外れの小さな教会。
その裏手にこぢんまりとした墓地が広がっていた。
記憶を頼りに私は墓石のあいだを歩いた。
前に来たのは神谷真が彼女を看取り葬列に加わったときだ。
あれから...長い歳月が流れている。
果たして、その墓石はすぐに見つかった。
荒れてはいなかった。それどころか墓前には、新しい花が供えられていた。
誰かがいまも手入れをしているようだ。
小さな墓石に向かって、私は呼びかけた。
『エーリカ、君の姿を借りてすまない。きっと君が何か後押しをしてくれたのだろう。そのお陰で僕は何とか生きている。だが、君の姿を借りて勝手に人生を生きて申し訳ないとも思う。これまでも、きっと君ならしなかったたくさんの選択があった。これからもそうだろう。それを君はどう思っているんだい?』
そして私は目を閉じ、問いかけに対する返答を待った。返答がくるわけがないのを承知で。
そのとき、背後で、息を呑む音がした。
振り返ると、一人の老婦人が立っていた。手には花を持ち、買い物帰りなのか、小さな籠を提げている。
その顔を見て、私はすぐにわかった。
エーリカの面影があった。
年老いて皺は深くなっていたが、目元の感じが彼女によく似ていた。
私には、すぐそれが誰だかわかった。
そして、老婦人のほうも――私の顔を見て、凍りついていた。
籠が手から滑り落ちた。
林檎が、いくつか地面を転がっていく。
彼女は、それにも気づかず、ただ私の顔を見つめていた。
見開かれた目に、みるみる、涙が盛り上がっていく。
「エ……エーリカ……?」
掠れた声で、彼女は娘の名を呼んだ。
私は何も言えなかった。
老婦人は、震える足で一歩、近づいてきた。そして私の顔を、食い入るように見つめ――やがて、何かに気づいたように、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ……違う。あなたは、あの子じゃない」
そうなのだ。もしエーリカが生きていれば、いまは私と同じ四十を過ぎた女のはずだった。
目の前の若い女は、娘に生き写しでありながら、若すぎた。
「でも、あなた……どうして、こんなに……」
老婦人の声は、混乱と、恐れとすがるような何かで震えていた。
死んだ娘の墓の前に立つ見知らぬ若い女が、死んだ娘に瓜二つ。
理屈の通らないその光景の前で、彼女は立ちすくんでいた。
この状況で、彼女と無関係を装うことなどできはしなかった。
たまたま似ているだけの他人ですと言って立ち去ることも納得はさせられないだろう。
私は、覚悟を決めた。
たとえ信じてもらえなくても。たとえ化け物を見るような目で見られても。この人にだけは、本当のことを話そう。
「……少し、長い話に、なります」と、私は、ドイツ語で言った。
「座って、聞いていただけますか」
私たちは、墓地の隅の古いベンチに、並んで腰を下ろした。
私は語り始めた。
かつてエーリカが、一人の日本人の男と恋をしていたこと。
その男の名は、神谷真。
ミュンヘンに留学していた貧乏な研究者だったこと。
「……マコト」老婦人が呟いた。
「手紙に書いてありました。日本のお友だちのこと。あの子のボーイフレンド……」
エーリカは、母に宛てた手紙の中で私のことを書いていたのだ。
会ったこともない、その名前だけを彼女の母は覚えていた。
その細い細い糸を手繰り寄せるように、私は話を続けた。
エーリカが病に倒れ、亡くなったとき。神谷真がその最期を看取ったこと。
彼女のひと房の髪を、形見として渡されたこと。
そして――その男が、長い歳月の後、すべてを失った絶望の果てに、その髪を使い、遺伝子操作で自らの身体をエーリカのものに作り替えたこと。
「……私が、その、神谷真です」
老婦人はただ黙って聞いていた。
信じてもらえるとは思っていなかった。あまりに突飛で、あまりにむごい話だ。
けれど、老婦人が私を見る目は、化け物を見る目ではなかった。
彼女はただ、じっと私の顔を見つめていた。
娘の面影をなぞるように。
そして、震える手を伸ばしてそっと私の頬に触れた。
「……温かい」と、彼女は言った。
「あの子の頬と同じ」
涙が、皺を伝って落ちていく。
私は、エーリカとの思い出をいくつか彼女に聞かせた。研究室でのこと。
彼女が、拗ねると、左の頬を膨らませる癖。
雨の匂いが、好きだったこと。
母から届く手紙を、何より大切にしていたこと。
そして、最期に「あなたともっと生きたかった」と伝えられたこと。
一つ話すたびに、老婦人の目からは涙があふれた。
「あなたは」とやがて老婦人は言った。
「あの子を、愛して、くれたのね」
「はい」と私は答えた。そのことに迷いはなかった。
「そしてあの子は……あなたの中で生きている」
彼女は、私の頬を深い皺が刻まれた両手で包んだ。まるで、長いあいだ会えなかった我が子に再会したかのように。
私は、お前は死んだ娘の姿を勝手に写し取った、おぞましい化け物だと言われても仕方ないと思っていた。
エーリカの母は、私を責めなかった。恐れなかった。それどころか、失った娘の最後のかけらに、もう一度触れられたことを喜んでさえいた。
「どうか」と、彼女は言った。
「あの子の分も。あなた自身の分も。どうか幸せになって」
こみ上げるものを止められなかった。私は、顔を両手で押さえ、声を上げて泣いた。その私の身体を彼女はそっと抱きしめた。
ずっと自分を赦せずにいた。彼女を失ったあの時から、一人だけのうのうと生きて幸福を求めることに後ろめたさを抱え続けていた。そして、家族を顧みず研究に打ち込み、全てを失った。
けれど本人以外では誰よりも私を責める資格のある人が、いま私に生きて幸せになれと言ってくれている。
私は、何かから解き放たれた気がした。
そういえば、今私を抱きしめる彼女は、私のもう一人の母親だ。少しややこしいが、私の今の身体を構成する遺伝子的には母親なのだ。
彼女は、駅まで私を見送り、私が電車に乗り込む時までずっと私のことを愛おしそうに見ていた。神が与えたこの奇跡を、ひと時たりとも見逃さないというように。
本当は、もっと一緒に居たかっただろうと思う。私も、一晩中でも語り明かしたかった。が、そこは私の仕事が許してくれなかった。明朝にはミュンヘンから日本に飛び立つ必要がある。
数年後にドイツに赴任する予定はあるが、その時まで彼女が健在かどうかは分からない。だから、もう一度会いに来られるかは分からない。
私は、電車から、エーリカの母の姿が見えなくなるまで手を振った。最後に見た彼女の顔は、泣きそうな笑顔だった。
私は、電車の中で考え続けた。
墓で私は彼女と対話するつもりだった。それはできなかったが、その代わりに奇跡のようなひと時が私と老母に与えられた。そのひと時は、彼女の母には慰めを、私には勇気を与えるものだった。
その夜。私は、ミュンヘンの中心街に近いビジネスホテルに泊まった。
髪をほどいてベッドに腰を下ろし、私は、スマートフォンを手に取った。
いつもなら、短いテキストを送るだけだ。「きょうはどうだった?」「おつかれ」「おやすみ」。
バーチャルな恋人。
けれどその夜は違った。私は、藤崎の番号に電話をかけた。
数コールで、寝起きらしい、彼の声が出た。日本はもう明け方近いはずだ。
「……絵里香さん? どうしたんですか、こんな時間に。何かあったんですか」
慌てた声が、おかしかった。
「何もないよ」と、私は言った。涙声にならないように、気をつけながら。
「ただ、声が、聞きたくて」
電話の向こうで、彼が息を呑むのがわかった。
三年付き合って、私がこんなことを言ったのは、初めてだったかもしれない。
「……っ、えっと、その」案の定、藤崎は、しどろもどろになった。
「お、俺も、その、聞きたかった、です。声」
相変わらず不器用な男だ。その不器用さが、いまはたまらなく愛おしかった。
帰ったら、ちゃんと向き合おう。
テキストの向こうの、バーチャルな恋人でいるのは、もうやめよう。
私の不確かなすべてを――子供を産めるかわからないことも、いつまで生きられるかわからないことも――洗いざらいもう一度話し合おう。
その上で、彼が、それでもと言ってくれるなら。今度は私から彼の手を取ろう。
エーリカに。そして、彼女の母に背中を押されて、
私は、ようやく未来へ足を踏み出す気になっていた。
子供を産めるかはわからない。この身体がいつまでもつのかもわからない。けれど限りがあるのなら、失うことを恐れて何もつかまずにいることはできない。それはちゃんと生きているとは言えない。
窓の外にはミュンヘンの古い市庁舎が見える。その下の広場には、あのカフェがあるはずだ。
明日私は、日本へ帰る。
私の家族と、会いたい人が待つ場所へ。
※外交官の旅券には外交儀礼上特権がつき、日本以外の国では飛行機のクルーと同じゲートを使います(なぜか日本の空港には外交官用のゲートがありません。)。日本の通常のパスポートは赤ですが、外交旅券は茶色です。ちなみに外交官以外の公用旅券は緑色です。また、当然ながらその国の国籍がなければ外交官にはなれません。




