約束 (第二部終章)
外務省に辞表を出してから、私の毎日は目まぐるしくなった。いや、外務省も忙しかったが、忙しさの性質が違う。全て、自分で決めなければならず、自分に跳ね返ってくる。
次の衆議院選挙は半年後と言われている。あの事件を経て、私の名は以前とは違う響きで世間に知られることになった。奇妙な見世物としてではなく、一つの信念を貫いた人間として。
政治を志すなら、いましかない。
誰の目にもそう映ったのだろう。事件のあと、私のもとには、思いがけない依頼が次々と舞い込んだ。
テレビの情報番組が、コメンテーターにと声をかけてくる。名の知れた雑誌が連載をと持ちかけてくる。
悪い気はしない。
それでも私はその多くを断った。
特に、台本らしいものがありそうなものを。
きれいなスタジオで、当たり障りのないことを話す。それは外務省で書かされた、あの毒にも薬にもならない答弁とどこか似ていた。
いくつかの場には出た。自分の言葉が、まだ届いていない誰かに届くのなら、使えるものは何でも使えばいい。かつて美しさを武器にしたように、今度はこの知名度を、私の言葉を運ぶ翼にすればいい。
そう考えていた。
* * *
ある日、一つの話が舞い込んだ。かつて九条が身を置いた大政党からの、公認――つまり、党の正式な候補として立たないか、という打診である。
「悪い話、とはいえない」書斎で、九条はゆっくりと言った。
「お前には、もう知名度がある。あの事件で、名は全国に知れ渡った。看板は、じゅうぶんだ。だが、党に入れば、それ以外のものが手に入る」
「それ以外、ですか」
「まず、地盤だな。長年かけて築かれた後援組織。票の読める、確かな土台だ。それに、政策の勉強会がある。国政は範囲が広い。外交も、税も、社会保障も、一人で抱えきれるものではない。党なら、分野ごとに詳しい者がいて、教え合える。当選したての新人を、一人前に育てる仕組みも、それなりにはそろっておる」
「なるほど」
「そして、何より大きいのが、質問の機会だ」九条は、少し身を乗り出した。「無所属では、国会で質問に立つ機会すら、なかなか回ってこん。質問の時間は、会派――まとまった議員の集まりに、頭数に応じて割り振られるのでな。たった一人の無所属では、その順番を、ただ待つしかない。せっかく議員になっても、肝心の場で声を上げられん」
それは、私も知っていた。
外務省で、大臣の答弁を書く側にいたからだ。誰が、いつ、どれだけの時間、質問に立てるか。それは、会派の大きさで、あらかた決まってしまう。自分の言葉で語りたい私にとって、その機会を奪われるのは痛い。
九条の言うことは、一つひとつ、もっともだった。
それでも、私は無所属を選んだ。
「お義父様。おっしゃる利点は、どれも本物だと思います。……でも、私は外務省の三年で、もう一つ別のものを、いやというほど見てきました」
「ほう」
「議員という人たちが、既存の団体に、どれだけ強く縛られているか、です」
農業の団体。建設業の団体。長年、票と金を束ねてきた、支持組織。議員は選挙のたびに、彼らの力を借りる。だから、その意向には逆らえない。役所が練り上げた政策案が、業界団体のひと声で、骨抜きにされていく。そんな場面を、私は末席から、何度も見てきた。
「党の公認をいただくのは、その、しがらみの網の中へ、自分から入っていくことでもあります。上が決めた方針に従い、支持団体の顔色をうかがう。私がいちばん自分の言葉で語りたいと思ったこと。それが、いちばん通しにくい場所に、身を置くことになります」
「だが、質問の機会は、どうする。声を上げられねば、元も子もあるまい」
「順番を、逆にすればいいんです」と、私は言った。「最初から党におんぶに抱っこで当選するのと、まず自分の力で勝ってから、必要なら公認をいただくのとでは、まるで違います。先に一人で勝てば、私は誰にも借りを作らずに、議席へ着ける。そのうえで、質問の機会や勉強会のために党の力が要るなら、そのとき、対等の立場で話をすればいい」
追加公認という道がある。無所属で当選した議員が、あとから党の公認を受ける仕組みだ。何も、はじめから抱えられておく必要はない。そうすれば、党と方針が違った場合に辞めるのも自由だ。
それに、と私は思った。
幸か不幸か、いまの私には名がある。
地盤も党の看板も借りずとも、当選それ自体は、決して難しくないはずだ。ならばなおさら、まずは自分の足で立つべきだ。道は険しくとも。
九条は、しばらく私を見ていた。
やがて、ふっと口の端を上げた。
「……役所で、政治の裏側を、しっかり見てきたようだな」
「生意気を、申しました」
「いや。理想だけの、青い話ではない。損得も、順番も、ちゃんと勘定に入れておる」
彼は目を細めた。「いいだろう、好きにやれ。この老いぼれも、党とは関わりなく、一人の後援者として、できることをしよう」
「お義父様、そこまでは……」
「案ずるな。私はとうに隠居の身だ。しがらみなどもうない」
かつてこの国の中枢にいた男が、娘の選択を、笑って後押ししてくれる。
胸の奥が、じんと熱くなった。
ーそして、ここからがいつものパターンだ。
「ところで、そろそろ孫の顔が...」
私は頭を抱えた。
* * *
無所属の道は、聞いていたとおり険しかった。党の組織がない分、ポスター一枚貼るのも、事務所を借りるのも、すべて手弁当で始めるほかない。それでも、私は一人ではなかった。
借りた小さな事務所には、日ごとに人が増えていった。党の動員でも、雇われた運動員でもない。みな、自分の意思で、無償で集まってくれた人たちだった。
息子を亡くした、老いた母。事故で足を失い、あの日、駅で私をなじった、あの女性。事件のとき、私のデータを検証してくれた、若い研究者。
かつて私が名も告げずに救った、どこかの誰かの家族。そして、あの会見を見て、いてもたってもいられなくなったという、名前も知らない学生たち。
「あなたの言葉を、聞いたんです」と、一人の主婦が、封筒に宛名を書きながら言った。
「目の前の人を、一人の人間として扱う。そんな当たり前のことを、正面から言う政治家を私、初めて見ました。だから、何かせずにはいられなくて」
立場も、年齢も、これまでの人生も、まるでばらばらな人たち。その全員が私の言葉たったそれだけを頼りに、この狭い事務所へ集まってくる。ポスターを折り、電話をかけ、街頭でビラを配ってくれる。
倉田は相変わらず影に徹したまま、「困ったら言え」とだけ短く伝えてよこした。立花は、「あんたの動画、あたしが撮る。ダサいのは絶対に許さないから」と、なぜか本人以上に張り切っていた。
地盤も、看板も、鞄も、私にはない。それでも、私の手には、これがあった。人の心だけで繋がった、この場所が。
* * *
選挙の準備の合間を縫って、藤崎は、私を石垣島へ連れ出した。
はじめて二人で旅に出たとき、本当はここへ来たかった。けれど、わずかな休みをかき集めても一泊二日がやっとで、行き先は、石垣島から大きく後退して、伊豆の下田になった。
あのとき、藤崎は申し訳なさそうに言ったのだ。「石垣島じゃなくて、ごめんなさい。いつか、絶対、連れて行きますから」と。その約束を、彼はずっと覚えていた。
空港を出た瞬間、南国の光と風が、全身を包んだ。空は、目が痛くなるほど青い。海は、沖へ向かうにつれて、水色から青へ、そして深い藍へと、幾重にも色を変えていた。あの下田も悪くなかったが、空気がまるで違う。同じ海が、これほど違う顔を見せるのかと、私は思わず息をのんだ。
その日、私は、われを忘れてはしゃいだ。
白い砂浜を、裸足で駆けた。
男の時とは違う形の水着も、人の視線も気にならなかった。
透きとおった浅瀬をのぞけば、色とりどりの魚が、足元をすり抜けていく。
そのたびに、私は子どものように声をあげた。市場では、見たこともない南国の果物を、二人で分け合って食べた。
藤崎が慣れない手つきで撮った写真は、どれも私の顔が半分見切れていて、二人で笑い転げた。
「へたくそ」と、私がからかうと、
「緊張してるんですよ」と、彼は口を尖らせた。
政治のことも、身体のことも、いつ誰に狙われるかという恐怖も。その一日だけは、何もかも、遠い波の向こうへ置いてきた。
ただの、どこにでもいる一人の女として、私は笑っていた。そんな時間が、どれほど久しぶりだったか、自分でもわからなかった。
日が暮れて、私たちは宿を出て、夜の海辺へ、あてもなく散歩に出かけた。
街の灯りから離れると、頭上の空が、一変した。
見上げた先に、こぼれ落ちそうなほどの星があった。都会では決して見えない、細かな一粒までが、天いっぱいに敷き詰められている。海の霞で見えにくいが、南十字星もかすかに見える。波の音だけが、規則正しく、闇の中に響いていた。
「……すごい」私は、言葉を失って、ただ空を見上げていた。
藤崎が、隣で足を止めた。
「絵里香さん」
振り返ると、彼はいつになく、まっすぐな目をしていた。星明かりの下でも、それがわかった。
「はじめて旅行したとき、僕は、あなたの身体を守ると決めました。……今度は、身体だけじゃない。あなたの人生ごと、となりで守らせてください。結婚して、ください」
波の音が、やけに大きく聞こえた。
私はすぐには答えられなかった。嬉しさより先に、いつもの後ろめたさが込み上げてきたからだ。
「……いいの?」と、私は訊いた。「私、この身体がいつまでもつか、わからない。子供も、産めるかどうか、わからない。あなたにしてあげられないことが、きっとたくさんある」
「知っています。全部、承知の上です」藤崎は頷いた。「それに、研究も少しずつ進んでいます。あなたの身体の暴走を抑える手がかりが、見えてきました。まだ糸口です。治せるとは、言えない。でも――その先を、一緒に探させてください」
確実な未来を、彼は約束しなかった。ただ、わからない未来を、一緒に手探りしてくれると言う。それで十分だった。いや、それがいちばん、よかった。
「……はい」私は答えた。「ふつつか者ですが」
言ってから、少しおかしくなった。四十を過ぎて、まさか自分がこんな台詞を口にする日が来るとは。
満天の星の下で、私は生まれて初めて、自分の未来を、心の底から信じられる気がした。ずっと来たかった場所に、ようやくたどり着いた。そして、隣にはこの人がいる。
* * *
その報告を聞いた聡子の喜びようは、尋常ではなかった。その場で涙ぐみ、私を抱きしめ、五分後にはもう、どこからか式場のパンフレットを広げていた。
一方の九条は、腕を組んで渋い顔をした。
「ふむ。藤崎、といったか。あの馬の骨か。……絵里香。お前はたしか、パパのお嫁さんになると――」
「なりません」私は、即座に遮った。
「……はて。そうだったかな」
天下国家にはあれほど明晰な頭が、私のこととなると、途端にポンコツになる。それでも最後には、彼はぽつりと言った。
「……まあ、いい。幸せになりなさい。お前には、それを受け取る資格が、じゅうぶんにある」
その一言に、私は不覚にも、泣きそうになった。
数日後、思いがけない人から、短い手紙が届いた。元妻のもとで暮らす、あの娘からだった。
『パパのこと、おうえんしてる。がんばって』
たどたどしい字で、それだけが記されていた。かつて、変わり果てた私の顔の、その目の奥に父を見つけ出してくれた子。その一行が、どんな後援会の名簿よりも、私を強くした。
* * *
立候補の表明を、翌日に控えた夜。私は、事務所に一人残って、明かりの消えた机に、ぼんやりと座っていた。
政治家とは、自分を売るものだ。自分という人格と、その行動こそが商材だ。
そうして、ふと思う。
私を、私たらしめているものは、いったい何だろう。
かつて、神谷真は、自分を形づくるものを、すべて失った。研究も、家族も、名前も。そして、男としての身体さえも。物質としての「私」は、跡形もなく消えた。
いまの私の身体は、借りものだ。いつ壊れるかも、わからない。絵里香という名も、この顔も、昔の恋人からの借り物だ。
物質としても、名前も、見た目も、確かな「私」など、どこを探してもない。
それでも、私は、たしかに、ここにいる。
彼女から受け取った人生を使って、今確かに自分で選んでここにいる。
事務所の壁には、ボランティアの人たちが折ってくれた、ビラの束が積んである。机の上には、藤崎がくれた指輪と、娘からの手紙が並んでいる。
私を私たらしめていたのは、身体でも、名前でも、顔でもなかった。私が何を語り、何を選び、そして、誰が私のとなりに立とうとしてくれたか。それだけだったのだ。
三年前、世界は私の顔かたちの美しさを語った。うわべの評価だった。いまは、私の生き方を語る。外側から、内側へ。人が私を見る目が変わったのと同じだけ、私自身も、変わっていた。
借りものの身体で、もらった名前で、作りものの顔で。
それでも私は、自分の言葉を語り、自分の道を選び、たくさんの人と心を交わしてきた。その一つひとつの積み重ねが、いつのまにか、「九条絵里香」という、ほかの誰でもない一人の人間を形づくっていた。
戸籍の紙が、私を証明するのではない。私が生きた、その中身こそが、私を私にする。
ようやく、私は、自分が誰であるのかを、知った気がした。
* * *
先のことは、わからない。この身体がどうなるのかも。思い通りに当選できるのかも。子を授かれるのかも。何ひとつ、確かではない。
それでも、わからないまま、私は前へ進む。
九条絵里香という、たった一人の旗を掲げて。隣には藤崎がいて、後ろには、私を信じてくれる人たちがいる。
明日、私は立候補を正式に表明する。かつて無数の視線に怯えた私が、今度は自ら望んで、その渦の真ん中に立つのだ。
借りものではない、私自身の言葉で。
今度は、私が誰かを守るために。
それは私の約束だ。
第二部 了
活動報告をあとがきに変えたいと思います。
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