間章
本編がシリアスすぎたのでその揺り戻しが来ました。。。
あの事件から、半年がたった。
私の人生は一八〇度変わった。
まあ今更いちいち列挙してみるのもなんだが。
髪の色、瞳の色、肌の色、年齢、性別、顔、身体能力、手足の長さ……あらゆる外見が変わった。
職業は学生になった。専攻も、科学技術から、政治学――法学・経済学の文系に変わった。
家族関係も変わった。自分が一家の主だったところから、他家に娘として迎え入れられて、父と母、兄弟ができた。
住むところも変わった。郊外の一軒家から、山手線のすぐ外側の高級住宅街の中の和風の古い家になった。
名前も変わった。
人間関係も変わった。かつての人間関係は、倉田や桑原をはじめ、何人か連絡が取れる人間はいるが、立花や藤崎といった医学部の学生に加えて、法学部のクラスメイトが何人かでき、一緒に行動するという意味では後者の方が圧倒的にウエイトが大きい。
これだけ変わると、神谷真との同一性は、もはやゼロに近い。
だが、それを私は受け入れており、むしろ肯定的にとらえている...だが、肯定し難いこともある。
目の前の問題に戻ろう。
目の前には、真新しい振袖、帯、そして和装用下着の一式が並べられている。
義母が目をらんらんとさせ手をわきわきさせんばかりにこちらを見ている。
これらの一式だけで数百万円...おそらくは、もっとするだろう。
せめて下着ぐらいは、自分で何とかしたいものだが、これまたすっかりつけ方が分からないものばかりだ。
「絵里香さん、ほら、ぼうっとしてないで。こちらへいらっしゃい」
義母――九条聡子は、私の戸惑いなどまるでお構いなしだった。
畳の上に並べた一式を、宝物でも扱うようにそっと撫でている。
その目は少女のように、きらきらと輝いていた。
「さあ、まずはこれからよ。肌襦袢。それから、裾除け」
聡子は、慣れた手つきで、薄物を私の肩にかけようとする。私は思わず身をすくめた。
「あ、あの、お義母さん....じ、自分で……」
「あら、いいのよ。遠慮なさらないで。あなたまだ和装は、慣れていないでしょう?」
慣れていないどころではなかった。
そもそもつい先頃まで、私は男だったのだ。
女物の和装下着の付け方など、知る由もない。けれど、それを口にするわけにもいかなかった。
されるがままに、私は普段着を一枚ずつ脱がされていった。
――恥ずかしい。
いい大人が、と、頭では、思う。
肌をさらすことへの羞恥はもう理屈を超えていた。
義母とはいえ、他人の前で裸にされる。
その心もとなさに、私は、うなじまで火照るのを感じた。
聡子はそんな私に頓着せず、楽しげに手を動かし続ける。
「あなたは、ほんとうに、いいお身体をしているわねえ」
胸のあたりにタオルを巻きつけながら、聡子がしみじみと言った。
「でも、お着物にはこれが邪魔になるの。凹凸は、なるべくなくして寸胴に。それが粋なのよ」
自慢のと言っていいのか、ともかく人並み外れて整っているこの身体の線が、何枚ものタオルでせっせと、埋められていく。
鏡の中でせっかくの曲線が丸太のようになっていくのを私は複雑な思いで眺めた。
そうしてようやく振袖に袖を通した。
目の覚めるような深い藍色の地に、銀の糸で四季の花が咲き乱れている。
袖を通しただけで、ずしりと重い。
問題は帯だった。
聡子は、私の背中でぐいぐいと帯を締め上げていく。
「お義母さま、く、苦しいです……」
「我慢なさい。緩いと着崩れるの。美しさには我慢がつきものよ」
ぎゅう、と、最後に帯を引き絞られて、私は、思わず「ぐえ」と女性らしからぬ声を出した。
肋骨のあたりを万力で締められているようだ。なるほど、女の美しさとはこういう苦行の上に成り立っていたのか。男だった頃には想像もしなかった。
廊下から足音がしてお義兄さんと、お義姉さんが顔をのぞかせた。
「母さん、また、はしゃいで……」お義兄さんは苦笑いを浮かべた。
「絵里香さんが困ってるじゃないか」
「あら、困ってなんていないわよ。ねえ、絵里香さん」
「えっ、あ……」
返事に、窮していると、お義姉さんが、そっと、助け舟を、出してくれた。
「お義母さま。絵里香さんはまだ慣れていないんですから。今日のところはほどほどになさってくださいね」
「ほどほど、ですって?」聡子は、心外だとばかりに、目を丸くした。「何をおっしゃるの。せっかく、こんなに可愛い娘が、来てくれたのよ。あれもこれも着せて連れて歩きたいに決まっているじゃないの」
「娘」という言葉に私はどきりとした。
聡子には、息子が二人いた。お義兄さんともう一人。二人とも立派に育て上げそれぞれの道へと巣立っていった。手のかかる盛りを過ぎてしまえば、男の子というのは母親にはそっけないものらしい。
「男の子はねえ・・・つまらないのよ」聡子は、私の帯を整えながらため息をついた。
「お洋服を、選んでやろうとしても『なんでもいい』の一点張り。お茶会に誘っても来やしない。それが、こんなお人形さんみたいな娘が来てくれたんですもの。もう、嬉しくて、嬉しくて」
その声には、長く一人で抱えていたであろう寂しさの影がにじんだ。
二人の息子を育て上げ送り出し。
広い屋敷に夫と過ごす、手持ち無沙汰な日々の中へ私という新しい「獲物」がころりと転がり込んできた。義母のはしゃぎようは、その裏返しなのだろう。
そんな顔をされると、私のような鈍い人間でも、少しは応えてあげなければならないのでは、という気持ちにならざるを得なかった・・・が。
「絵里香さんはお行儀もいいし、お顔もこんなにおきれいだし。これは、もういずれどこか立派なお家に、お嫁に……」
「お母さん」お義兄さんが、すかさず遮った。
「気が、早すぎるよ。絵里香さんは、まだ大学に入ったばかりなんだから・・・」
「あら、何を。こういうことは今から考えておかなくてどうするの」
私は最早引きつった笑みを浮かべるしかなかった。新しくできた母の底知れぬ情熱の前で、口を挟む隙などどこにもなかった。
そしてその日。
私は聡子に連れられて、ある園遊会に出かけることになった。
広い和風と洋風のそれぞれの顔を持つ庭園に、上品な装いの人々が行き交っている。
政財界の名だたる顔ぶれもちらほらと見えた。九条家の長年のつきあいなのだろう。
聡子は、私の腕をしっかりと取って会場をねり歩いた。
そして、知り合いを見つけるたびにさりげなく――しかし、明らかに意図して――私を、引き合わせるのだった。
「あら、奥様、ごきげんよう。……ええ、この子はうちで養女に。絵里香と申しますの。いえいえ、そんな。器量だけは人並みで」
器量だけは人並みと言いながら、その口ぶりは、隠しきれない得意で満ちていた。引き合わされた相手が、私を見てはっと息を呑むたび、聡子の背筋がほんの少し伸びるのがわかった。
「まあなんて、お美しい」「どちらの、お嬢様?」「九条さんに、こんな素敵なお嬢さんが、いらしたなんて」
口々に向けられる感嘆の声。その一つひとつに私は曖昧な微笑みを返しながら・・・内心消え入りたい思いでいた。
見られることには、慣れたつもりだった。ミス・ユニバースの舞台で数千の目を惹きつけた。
けれどこれはまたちょっと勝手が違う。
義母の、無邪気で誇らしげな視線の下で、自慢の娘として披露される。
その面映ゆさといったらなかった。
挙句に聡子は、見るからに良家の子息といった青年の前に、私をぐいと押し出した。
「絵里香さん、こちら〇〇様の、ご長男でいらしてね。……ほら、ご挨拶を」
「は、はじめまして……」
・・・その長男は、もしかしたら私が元男であることを知っているかもしれないのだ。もはや何とも言えない羞恥の極みである。
私が、しどろもどろに頭を下げているあいだにも、聡子の縁談への期待はふくらむ一方らしかった。
慣れない草履で、指の付け根は、とうに悲鳴を上げていた。帯は、相変わらず私の肋骨を締め上げている。微笑むだけで、頬の筋肉がこわばってきた。
――早く、帰りたい。
・・・私の目がどんどん虚ろになっていく一方で、聡子は一層いきいきと輝いていた。
日が、傾く頃、私たちはようやく車で屋敷に帰り着いた。
私はもうへとへとだった。
帯の重み。草履の痛み。絶え間ない微笑みの応酬。
慣れない一日は、舞台に立つよりもずっと私を消耗させた。
やっと家に帰って草履を脱ぎ、座ろうとするとお義姉さんが声をかけてきた。
「絵里香さん、お客様よ。藤崎さん、ですって」
藤崎。あの不器用な青年だ。この服を脱ぎ着して普段着に着替えるのにも、かなり時間がかかってしまいそうだ。私は少し思慮してから、一つ息をついて・・・結局振袖のまま玄関へ向かった。
私の姿を見るなり、藤崎はぴたりと固まった。
「……あ」
口を、半分開けたまま、彼は言葉をなくして彫像と化していた。
私の頭のてっぺんから、爪先まで視線を何度も往復させ、それきり石のように動かなくなった。
「藤崎くん?」
「……あ、う、その、すみません、えっと」
藤崎は、耳まで真っ赤にしてしどろもどろになった。
「に、似合って、ます。すごく。あの、ほんとに、その……きれいで……」
最後は、消え入るような声だった。
彼はもう、私と目を合わせることもできずにいた。
そのあまりにわかりやすい惚けようがおかしくて。
一日の疲れが、ふっと軽くなるのを感じた。
しかし、奥から義母がひょっこりと顔を出した。藤崎を一目見るなりその目がきらりと光ったのを、私は見逃さなかった。
「あらあら、絵里香さんのお友だち? まあ、どうぞ、ゆっくりなさって。お茶でも――いえ、お夕飯も、どうかしら」
「お義母さん」
私は、慌てて止めた。新たな「獲物」を見つけた義母の情熱がここで暴走を始める前に。
ちなみに義父の九条は、「絵里香はどこにも嫁にはやらん」と言い出した。
あなたは全事情をご存じでしょうに・・・かつて日本の中枢を一手に切り盛りしていた老人は、変なところで痴呆を発揮して、私はこの家の実の娘であったかのような取り扱いをされていた。
その夜。
ようやく楽な部屋着になって、私は自分の部屋でひとつ大きく息をついた。
女になってよもやこんな苦労をすることになるとは。
義母のはしゃぎように、一日振り回される。男だった頃には考えもしなかった種類の苦労だ。
世の女性たちはこんな労苦を、当たり前のように背負ってきたのか。
けれど。
畳に、寝転んで天井を見上げながら、私は思った。
今日私を着飾らせてはしゃいでいた義母。
困った私に、そっと、助け舟を出してくれた義姉。
気が早すぎると、母をたしなめた義兄。
そして私の姿に、惚けて真っ赤になっていた藤崎。
私の周りには、いつのまにかこんなにもたくさんの温かさをくれる人がいた。
かつてすべてを失い、孤独の海で絶望の底に沈んでいた神谷真。
あの男に家族ができていた。
そして、案じてくれる友がいた。
アイデンティティの、ほとんどすべてを失っても。
私は、こうして新しい関わりの中で、もう一度誰かの娘になり誰かの友になっていた。
帯の締めつけも。
草履の痛みも。
義母の暴走さえも。
その煩わしさの一つひとつが、いまは、たまらなく愛おしかった。
幸福だと素直に思えた。




