遺書 (第一部終章)
私の名前は九条絵里香。都内の国立大学法学部の1年生だ。
あれから大学には退学届を撤回し、法学部に転籍するように願い出て、それが認められた。
今は大学で政治経済を学んでいる(法学部の中に政治経済学科がある。)。
新しい勉強をすることはとても新鮮だ。
脳細胞そのものは入れ替わらないはずだが、若返った体は新たに脳内にシナプスを形成することを助けているようで、若い学生たちにも何とかついていけている。今までの医学部では既に知っていたことをもう一度学びなおすようなことが多かったが、今回は本当にゼロからの勉強だ。
特に法学は難解で頭を抱えることもあるが、哲学に似ている部分もあり、総じて言えば新しい勉強を楽しめている。
多くの学生は私がかつて神谷真であったということを半信半疑ながら知っていたが、ここでは同じ法学や政治学を学ぶただの学生として、対等に接してもらえている。
九条からは政治の道を勧められたが、今の戸籍上の年齢は21歳で、まだ被選挙権を得られていないため、先に勉強を進めている。
また九条の現役時代の知り合いには機会あるごとに会わせてもらい、実務と理論の双方から学ばせてもらっている身だ。
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夏のあるよく晴れた朝のことだった。私は身支度を終えて鏡の前に立っていた。
だいぶん女性としての身支度にも慣れた。他人と比べてかなり薄化粧だが、それが故に身支度の時間が短く済むのはとてもありがたい。それでも女性の身支度は男性より面倒ではあるが、大分慣れてきた。
季節はもうすぐ秋で、かつてこの鏡の中に、エーリカの顔を見て立ちすくんだ、その時期になった。あの朝から、ずいぶん遠くまで来たような気がする。
ふと思い出して、机の上から一通の封書を取り出した。それは、神谷真が書いた遺書だった。
結局、この遺書は誰にも見られず机の中にしまい込まれていた。
そこには、私が失った男の字で、神谷真の思いが綴られていた。
まずは自分の研究成果を奪われたこと、家族を失ったことの悲しみから始まっていた。しかし、内容は次第にあの実験のことについての研究者としての考察に代わり、「青虫が蛹を経て蝶になるように、いったん身体を溶かして完全に作り替えること、すなわちドイツ語でいう"Metamorphose"が理論的には可能である」ことに思いが至ったこと、その実験への興味が抑えられず、リスクを顧みず実行することなどが書かれていた。
あの日、神谷真は絶望していたが、最後まで科学者であった。その実験の結果が果たしてどうなるのかを自分で見届けるつもりがなかった、という一点を除いては。
Metamorphose。まさにあの日、私は神谷真という身体を脱ぎ捨て、新たな形質を手に入れた。
ただ、それがもたらしたものは単なる物質的な変質にとどまらなかった。私の身体の変質は、新たな人間関係をもたらした。私自身がこの世界から新たな「私」として認識されることを通じて、今の私が私であると言えるアイデンティティが構築されていった。
鏡の中の女は、薄化粧にも関わらず、ぞっとするほど美しい姿を持っている。それはエーリカでも神谷真でもない。にも関わらず、私はその姿を見て、自分だと認識するようになった。
誰もがこの顔を見て「私」だと認識してくれるからだ。だから、私はもう、その顔を誰かの借りものだとは思わない。
「私」を「私」だと認識してくれる人がいる。
そのことが私をここに存在させ、前に進む力へとさせてくれる。
階下から「絵里香さん」と義母が私を呼ぶ声がした。きっと朝食の準備が始まるのだろう。
私は「はい」と答え、鏡に背を向け、部屋を出て一歩を踏み出した。
(第一部了)
もう少し続きます。




