肯定
私−神谷真の娘。
連れ去られたあの子。生まれたときからつい1年と少し前までずっと一緒に過ごしてきたあの子。
その娘が会いたいと言っていると、元妻から伝えられた。
私にとってはもっとも会いたくて、会うのが辛い人間だった。
私は、もうあの子の父ではない。戸籍的にも遺伝子的にも。
性別も変わり、年齢も変わり、顔も変わり・・・・かわり果てたこの姿を見せること自体が、多感な時代のこの子を傷つけるのではないか。
父ではない、と拒絶されないか。
今までなぜ自分を探さなかったのかと詰られないか。
色々な思いが胸をよぎった。
*****************
指定された喫茶店で待っていると、ずいぶん背の伸びた娘が母に連れられて入ってきた。まだ1年しか経っていないから当然ではあるが、すぐに分かった。
だが、大分大人びたような気がする。様々な経験がこの1年間にあったからだろうか。
あの頃、枕元にウサギのぬいぐるみを置いていた幼い子は、もういなかった。
聡明そうな目をした少女がそこにいた。
娘は、私の前に座ると、しばらくじっと私の顔を見つめた。いざとなると何と声をかければいいのか、私にはわからなかった。何をしゃべっても、上滑りしてしまいそうだった。
口を開いたのは、娘のほうだった。
「パパ、なんだよね」
私は、答えられなかった。
「ニュース、見たよ。全部」娘は、まっすぐに、私を見て、言った。「信じられなかった。でも……目を見たら、わかった。パパだって」
「目?」私は、かろうじて、声を、絞り出した。
「うん。顔も、声も、髪も、ぜんぶ、別の人みたいなのに」娘は、こくりと、頷いた。「目の奥だけ、パパの、まんまだった。わたしを、見てるときの、その目。あれは、パパの目だよ」
その言葉に、私の胸の奥で固く凍りついていた何かが音を立てて崩れた。
脳に残った神谷真。最も置き換わりにくいその器官に宿った、私の本質。
それをこの子は変わり果てた顔の奥に見つけ出してくれたのだ。
「ねえ、パパ」娘は、続けた。
「もう、前のパパには、戻れないんでしょう」
私は、うなずいた。戻れないと。
すると娘は少し笑った。泣きそうな、けれど強い笑顔だった。
「だったら」と、彼女は言った。
「いまのパパを、ちゃんと、好きになりなよ。パパが、自分のこと、嫌いなままだったら、わたし、悲しいから」
私は、言葉を失った。
なんとか慰めを与えようと意気込んで来たのは私のほうだった。
それなのに、この子は、私をその小さな手で、まっすぐに押し返してきた。
前の自分に戻れないのなら、いまの自分を肯定しろと。
「……ああ」と、私はかろうじて答えた。
「そうだな。そうするよ」
涙が、止まらなかった。
失ったと思っていたいちばん大切なものから、私は生きていいのだと許された。
娘は私の肩に手をおいた。周りからは、年の離れた姉妹のように見えたかもしれない。
帰り際娘は鞄の中から古びたウサギのぬいぐるみを、そっと覗かせた。私が彼女にプレゼントし、かつて枕元に置いていたあのウサギだ。片方の耳が少しほつれていた。
「これ、まだ、持ってるんだ」娘は、はにかむように、言った。「パパがいつか帰ってくる気がしてたから。……帰ってはこなかったけど。でも、こうして会えたから。だからもういいんだ」
私は、胸がいっぱいになって何も言えなかった。
嵐が少しずつ凪いでいった。
私の周りには、人が残った。
倉田がいて、奈緒がいて、立花がいて、藤崎がいた。
九条とその家族がいた。
命を救った患者たちや、桑原さえも。
肉体を失い名を変え過去を捨てた私に、こんなにも多くの人が心を寄せてくれていた。
かつて私は問うた。身体のすべてが別人のものになったとき、人は、どこに自分を見出すのか、と。
いま、その答えが、わかる。
私は、私を取り巻くこの人々との関わりの中にいる。誰かに名を呼ばれ、誰かに手を取られ、誰かと心を通わせる。
その一つひとつの関わりが、糸のように、私という存在を織り上げていた。アイデンティティとは孤独な肉体に宿るものではなかった。他者との間に結ばれるものだったのだ。
私が、どこまで、生きられるのかは、わからない。
この身体の奥にはいつ暴走するともしれない、危うい力がいまも眠っている。
明日、すべてが崩れ去るかもしれない。けれど、もうそれを恐れてはいなかった。限りがあるからこそいまのこの一日が確かに輝いて見えた。
私は前を向ける。そう信じられた。
ただ、復讐を成し遂げた私が次にできることはなんだろうか。これからどう生きるのか。その具体的なプランは何もなかった。
...迷う私に、九条が、思いがけないことを、言った。
「絵里香。政治を、やってみないか」
私は、驚いて彼を見た。
「君は、市井の一人としてひっそり生きるには危険を背負いすぎた。狙う者は、これからも絶えんだろう。ならばいっそ誰よりも、人目につく場所に立つことだ。公人になれば、君を闇に葬ることは難しくなる」
それから九条は、目を細めて言った。
「それに君には人を惹きつける、稀有な力がある。その美しさは今でも変わらないし、人は、君の言葉に耳を傾ける。君の一挙一動足に関心を持つ。話を聞いてもらえる。それは、何かを変えようとする者にとって、何ものにも代えがたい武器だよ」
美が武器になる。
かつてただ見られることへの戸惑いから始まったものが、ミス・ユニバースの舞台で、意識的な道具となり、いま世界を動かすための力に変わろうとしていた。
人々に話を聞いてもらう。自分が何を人々に訴えかけたいのか、その上で何を成し遂げたいのかという明確な答えがいまあるわけではない。ただ、自分のように、人間としての尊厳を否定されたことのある人間しか分からない思いがある。理不尽に抗い、物事をあるべき姿に戻す。それは、自分一人でできることではないし、社会の多くの声が必要だ。自分がそれをすることができるならば、するべきではないのか。
それは、復讐を終えた私に、残された新しい使命のように思えた。
九条が、あの夜突きつけた問い。
与えられた二度目の生を、何に使うのか。
その答えが、ようやく見え始めていた。




