赦し
そうして少し嵐が凪いできた頃、私にはどうしても向き合わねばならない人々がいた。
私の正体を、何も知らずに、そばにいてくれた人々だ。立花と、藤崎。
立花は、私の告白をテレビで知った。
やっと外出が可能になって会ったとき、彼女は、私を、まじまじと見つめ、それから、ぽつりと言った。
「……神谷が、おじさんだったとか、信じられないんだけど」
血の気がひいた。
そして立花は続けた。
「いや、むしろ思い返すと信じられる要素しかないわ。あの神谷のおっさん臭い動作とか語りとか。」
今度は苦笑いするしかなかった。
「まあ、いいや。おじさんでも、おばさんでも。神谷は、神谷だし」
その、あっけらかんとした一言に、私は、不覚にも、泣きそうになった。
彼女にとって、私がかつて何であったかはたいした問題ではなかった。一緒に学食の席を取り、講義のノートを見せ合い、他愛のない話をした、その時間こそが本物だったのだ。
藤崎は、違った。
彼は、私の前に来ると、長いあいだ、黙っていた。
「ずっと、考えていました」やがて、彼は、口を開いた。「もし、神谷さんが、こんな容姿じゃなかったら。ただの、中年の男の人だったら。それでも、自分は、惹かれただろうか、って」
誠実な男だった。だからこそ、彼は、その問いから、目を逸らさなかった。
「答えは、わかりません」藤崎は、正直に、言った。「イエスのような気も、ノーのような気も、します。きっと、僕は、神谷さんの、この顔にも、惹かれていた。それは、嘘じゃない」
彼は、顔を上げて、私を、まっすぐに見た。
「でも、それでも。いまの、この気持ちだけは、偽れないんです。神谷さんが、何者でも。男だったとしても。僕は、あなたに惹かれている。この気持ちだけは、本当なんです」
私は、言葉を、失った。
これほど、正直な告白を、私は聞いたことが、なかった。彼は、自分の心の、都合の悪い部分まで、すべてさらけ出した上で、それでもなお、と言ったのだ。
「……どうして」気づくと、私は、訊いていた。「どうして、そこまで、正直で、いられるの。黙っていたほうが、ずっと、楽なのに」
「嘘をついて、神谷さんの隣に、いられたとしても」藤崎は、少し、笑った。「それは、神谷さんの隣じゃ、ない気がするんです。本当のことを、全部、言って。そのうえで、いいって、言ってもらえないと。意味が、ないんです」
不器用なのに、どこまでも、まっすぐな男だった。
私が、彼の思いに応えられるのか。女として、男を愛せるのか。それは、まだわからなかった。
けれど、私は決めた。
「ありがとう」と、私は、言った。「私も……ちゃんと、向き合ってみる」
逃げずに、確かめてみようと思った。
この作りものの身体に宿った心が、いつか誰かを愛せるのかどう命題だった。
ある日、思いがけない人物から、連絡があった。かつての妻だった。
喫茶店の隅で、向かい合った彼女は、ひどく痩せて見えた。私の顔を、まともに見られないまま、彼女は震える声で詫びた。「あなたが、いちばん苦しいときに、見捨ててしまって、ごめんなさい」と。
不思議と、恨みは、湧かなかった。あの頃、彼女もまた、限界だったのだろう。すべてを失った男に寄り添い続ける強さを誰もが持てるわけではない。
」
「もう、いいんだ」と、私は、言った。
かつての私が一緒に人生を歩もうとした女性は、はじかれたように顔を上げた。
「……どうして。私は、あなたがいちばん苦しいときに、一人にしたのよ。」
私は、どう答えればいいのかわからなかった。
ただ、この1年で年齢を重ねたその顔を見ていると、胸を焦がしていたはずの何かが、すっと引いていくのがわかった。
「あなたもつらかったことは分かっているし、私に貴方を責める資格はない」と言った。
どういう形であれ、家族を養っていくという責任を果たせなかったことは事実だ。
あの時、確かに一緒にいてもらえれば、苦しくても、自分はあの選択は取らなかっただろう。
だが、自分の身体も何もかも捨てて楽になろうと思った人間が、人を責める資格があるだろうか。
そうして、彼女に赦しを与えることができるのは、神谷真を受け継いだ今の自分だけだった。だから、赦した。
しかし、この赦しは、私が避けてきた最大の問題を運んでくるものでもあった。
娘との再会だ。




