嵐
嵐は、私が想像していたよりも、はるかに大きかった。
鷲尾の失脚などではない。勿論、ノーベル賞候補であった学者が失墜してその資格を失ったことは小さいことではないが、そんなことは霞んでしまっていた。
世界の関心は、一点に集中した。
遺伝子を組み替え、人が、まったくの別人に生まれ変わる――その技術だ。
不可能だと、誰もが思っていたことを、私は、この身で証明してみせた。もちろん、ただの妄想ではないかと言う声はあったが、研究ノートの正しさが私の実験に信憑性を与えた。
世界中の研究者が、医療機関が、国家までもが、色めき立った。
もし、その技術が本物なら。
老いも、病も、人は、思いのままに、現実を書き換えられるのかもしれない。
世界中の科学者がそれぞれトライした。
まずは動物実験からやってみたが、ことごとく失敗した。全てのマウスは、全身をがん細胞で埋め尽くされるか、その前に死んだ。
あまり明らかにはなっていないが、実際に人間でやってみようと思い立つ者すらいたようだ。
一人として、生き延びなかった。
制御を失ったがん細胞に、全身を喰い尽くされ、肉の塊となって、死んでいった。
あるいは、免疫の暴走に、神の炎に焼かれるような痛みを感じながら死んでいった。
私の成功は無数の偶然が、奇跡的に重なった結果でしかなかった。
九条が口にした、奇跡という言葉が、改めて胸によみがえった。
再現のできないもの。それを人は奇跡と呼ぶ。
そして、そのことが私を世界中の標的に変えた。
私の身体そのものが、計り知れない価値を持つ、研究対象になった。
私の身体を分析して、奇跡の再現への手がかりを求めようとする人間が、数え切れないレベルになった。
各国の研究機関から、身柄を求める声が、大学や政府のもとへひっきりなしに届いた。
それだけではなかった。表沙汰にできない手段で、私を手に入れようとする者たちも現れた。各国の諜報機関が、私の周りを嗅ぎ回り始めたのだ。
ただの一人の人間として生きるには、私は、あまりに、危険な存在になりすぎていた。
けれど、私には、思いがけない守り手たちがいた。
かつて、闇の中で、私が命を救った人々だ。その中には、名のある政治家も、大企業の経営者もいた。
表沙汰にはできない方法で命を拾った彼らは、私に、深い恩を感じ、決して私を売らなかった。
私が窮地にあると知ると、彼らは、それぞれの持つ力を、静かに私のために動かし始めた。
ある者は政界へ、ある者は財界へ。見えないところで無数の手が私を世界の悪意から覆い隠した。
そして、その守りの、中心にいたのが、九条だった。
ある時、九条は私を呼び出した。
「君を、私の養女にする」
ある日、九条は、静かに、そう言った。
有無を言わせぬ口調だった。
「私の娘ということになれば、おいそれと手は出せまい。私の名と、この国に張り巡らせた、私の力のすべてを君の盾にする」
かつて、命を救った礼に力を使えと言った老人が、いまその言葉どおり、私を自らの懐の最も深いところへ迎え入れようとしていた。
返しそびれた恩がある、と彼は、言っていた。私を守ることが、彼にとってのその一つになるのかもしれなかった。
私は感謝し、九条の養女となることを受け入れた。
ちなみに私の戸籍については、前例のない事態の処理にかなり議論があったところだ。
私が就籍で新しい戸籍を得た、その手段も必ずしも正当ではないところであるし、神谷真の戸籍を引き継ぐのがもっとも正当であるという議論も法律家の中ではあった。
しかし、遺伝子的に神谷真本人であるということを証明することは科学的には困難であり、また私が会見で述べたように、既に自意識は女性であった。女性が男性の戸籍を再び得ることが望ましいのかという別の議論もあった。
結局のところ、本人の希望を尊重する、という結論になった。
私は、神谷絵里香の戸籍をそのまま使うことを希望した。既に神谷真とは自意識の中でもアイデンティティを失っていた。寧ろ、今の神谷絵里香、エーリカの遺伝子を引き継いだこの身体にふさわしい名前が神谷絵里香だった。
そして、神谷の名前は、既に目的を果たしたと考え、私の名前は九条絵里香になった。これは、そのほうが九条の後ろ盾があることを示しやすいという事情もある。
その上で、大学は、退学届けを出した。これほどの嵐を巻き起こしておいて、一般の学生と同様に扱えというのはさすがに厚かましい話だ。実際に、嵐が収まるまで、大学に通える気もしないし、いつになったらこの嵐が収まるのか想像もつかない。
ただ、大学の方では一旦退学届けは受理せず、休学扱いということになっている。大学の方でも、これほどの研究者でもありネームバリューのある人間を、どう取り扱えばよいのか決めあぐねている。
...ちなみに鷲尾を処理したこと自体は、全く問題になっていない。彼は、かつての私のように、綺麗さっぱりと切り捨てられた。
ミスユニバースジャパンの開催団体には、改めて辞退する旨の通告をした。沢渡などは会見を受けて開催団体に抗議していたし、こちらは当然のように受け入れられた。
ただ、「女性ではない」という沢渡の批判はまた別の議論を引き起こした。元男性であっても手術によって女性になっている人間もいるところ、ましてや絵里香については遺伝子的には女性であることは証明されている。
また、後天的に作られた美である、という批判も、決して説得的ではなかった。ミスユニバースジャパンの候補者には、様々な種類の手術を受けて美を手に入れた人間もいるし、その線引きは一体どこにあるのかという議論が生じるところである。
むしろ、絵里香が得たその美は後天的ではあるとはいえ、何ら人工的なところはない。手術等を繰り返しても、あの美は手に入らない、そういう声すらあった。
なお、新しい候補者の選定は容易ではなかった。沢渡は差別的な発言を行ったとして、コンテストの対象者から除外されている。
こうして、記者会見からの数か月は嵐のように過ぎ去っていった。
私は、九条邸に匿われ、外出が難しい他は自由に過ごさせていただいている。
倉田の家は有難かったし恩もあるのだが、こう危険が出てきてしまうと彼らを巻き込むわけにはいかなかった。
九条の家は、静かに私を迎え入れてくれた。
九条には二人の実の息子がいるが、いずれも結婚し、長男夫婦は九条と同居している。なお、九条の息子達は政治の道は選ばず、市井の人間として静かに暮らしている。
その家族が、私を厄介者扱いせず、九条の命を救った私を受け入れてくれている。
何より、最大の理解者である九条自身が私と一緒にいてくれることが嬉しかった。
ついでに言えば、九条の妻は、遅くできたこの「娘」を初めての娘として狂喜している。
洋装、和装、振袖、様々な服装をさせられるのはなんとも言えないところがあるが、それぐらいはまあ許容範囲というところだ。私個人も楽しいのは否定しない。
寧ろ、私にあれこれ世話を焼いてくれる新しい母ができたことの方が嬉しかった。
私にとって、第二の家族と言える家族ができた。
それは何よりの贈り物だった。




