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令和怪異蒐集録  作者: 未来が見えない


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4/9

拭えない指紋

 西日の差し込むワンルームは、埃っぽく、それでいてどこか寒々としていた。


 安藤はノートPCのブルーライトに照らされながら、画面越しの先輩、松原と向き合っていた。オンライン会議が始まってから既に一時間が経過している。議題はほぼ片付き、今は残された細かい進捗を確認するだけの、緩慢で、少し退屈な時間が流れていた。


 安藤がその「違和感」を捉えたのは、松原が手元の資料に目を落とし、会話がふと途切れた瞬間だった。

(……なんだ、あれ?)

 松原の背景、白い壁を背にした彼女の右肩のあたりに、薄い影のようなものが浮いている。


 それは、レースカーテンが風に揺れているようにも見えたが、松原の部屋の窓は閉まっているはずだった。煙のように実体がなく、それでいて背景の白さとは明らかに異質な、淀んだ「白いモヤ」だ。

 松原が頷くたび、そのモヤは彼女の肩に吸着したまま、ゆらりと形を変える。安藤は無意識に、画面に顔を近づけていた。


(心霊現象か? いや、まさかな……)

「安藤くん? どうしたの、そんなに目を細めて」

 松原が画面越しに首を傾げた。その動きに合わせて、モヤは彼女の耳元をなでるように蠢く。

「あ、いえ……松原さん、そちらの部屋、何か炊いてます? 加湿器とか、お香とか」


「え? 何も。窓も閉めてるし。どうして?」

「いや、松原さんのすぐ後ろに、白いモヤみたいなのが見えた気がして……」

 松原は怪訝そうな顔をして、自分の肩越しに背後を振り返った。当然、そこには何もない。安藤が凝視している画面の中では、彼女の手がその白いモヤを虚しく突き抜けていた。


「何言ってるのよ、やめてよ。何も映ってないわよ?」

「……ですよね。すみません、たぶん僕の目の錯覚です。最近、執筆活動で目を使いすぎてたのかも……」

 安藤は苦笑いしながら、自分の愚かさを笑い飛ばそうとした。


 しかし、その時、彼は気づいた。

 松原が大きく身を乗り出して画面を確認しようとしたとき、その白いモヤは彼女の動きから一瞬だけ遅れて、元の位置に「固定」されていたのだ。安藤は自分の視点を少しずらしてみた。……確信した。モヤは、松原の部屋に浮いているのではない。それは、安藤が見ている「液晶画面の表面」に存在していた。


(……あぁ、なんだ。そういうことか)

 安藤は安堵の溜息を漏らし、背もたれに深く体を預けた。


 昨夜、深夜までポテトチップスを片手に作業をしていた。その際、無造作に画面を触った指紋が、西日に反射して白く浮かび上がっていただけだったのだ。角度によっては、それが背景に重なり、あたかも向こう側の空間に存在するように見えたのだ。


「すみません松原さん、解決しました。僕の画面、指紋でベタベタだっただけです。お化けだなんて、お恥ずかしい」

「もう、驚かせないでよ。しっかり掃除しなさいね、後輩くん」


 松原の弾けるような笑い声がスピーカーから響く。

 安藤は照れ隠しに頭を掻きながら、手元にあったティッシュを一枚抜き取った。人差し指を立てて、画面をゴシゴシと力任せに拭き取る。

 四隅に散らばっていた細かな汚れは、一拭きで消え去り、漆黒の液晶が本来の光沢を取り戻していく。

 しかし。中央にある一際大きく、濃いモヤだけが、消えなかった。

(……あれ?)


 安藤は首を傾げた。ティッシュの角を使い、その一点に集中して力を込める。キュッ、キュッという乾燥した音が部屋に響く。だが、汚れは落ちないどころか、ティッシュの感触が徐々に変質していくことに彼は気づいた。

 ガラスの硬質な抵抗ではない。


 指先に伝わってくるのは、粘り気のある「ぬるり」とした感触。まるで生き物の粘膜をなでているような、不快で、生暖かい弾力。

(……嘘だろ?)


 安藤の指が凍りついた。

 次の瞬間、ティッシュで強く圧迫していたはずのそのモヤが、物理法則をあざ笑うように、画面の端へとスルスルと移動したのだ。安藤の手は、動いていない。にも

かかわらず、指紋だと思っていた白い影は、まるで捕食者から逃げる小動物のように、液晶の縁を滑って逃げたのだ。

「……動いた」

「え? 何が?」

「松原さん……汚れが、自分で動きました。拭き残しが流れたんじゃない。これ、生きてるみたいに……」


 安藤の心臓が早鐘を打つ。

 モヤは今、画面の中で不安げな表情を浮かべる松原の顔を避けるように、液晶の最端、ベゼル(縁)のぎりぎりのところで静止している。

 それはもはや、単なる汚れには見えなかった。霧のような不定形だったはずの輪郭が、次第に細長く、節くれ立った「五本の指」のような形へと凝縮されていく。


(画面の中……? いや、違う。僕の『画面の表面』を動いているのか……?)


 安藤は呼吸を忘れ、液晶を見つめた。白い五本の指は、液晶の縁を内側からではなく、外側から、つまりこちら側の現実を掴むようにして、震えていた。


「安藤くん、顔色が真っ青よ。本当に大丈夫?」

「松原さん……見てください。僕の画面の端……何かが、這い出してこようとしてる……」

「パキリ」

 乾いた音がした。

 ノートPCのプラスチックフレームに、亀裂が走った。安藤の指先が触れていた画面の境界線から、あの白いモヤが「奥行き」を持って浮き上がってきたのだ。それはモニターの裏側から、安藤の指を包み込むようにして、這い出してきた。


(……僕の方に、いたのか)

 安藤が気づいたときには、すべてが遅かった。心霊現象だと思っていたものは、松原の背後霊などではなかった。


 それは最初から、安藤のすぐ隣に……ノートPCの死角に潜み、安藤が「画面の汚れ」として意識し、触れるのを待っていたのだ。


「安藤くん? 返事して! 安藤くん!」


 画面の中の松原が絶叫している。彼女には、安藤の顔面に白い「手」が覆い被さり、彼をモニターの向こう側へと引きずり込もうとしている光景は見えていないのだろう。彼女の視点では、安藤が急に苦しみだし、画面から消えたようにしか見えないはずだ。


 安藤の悲鳴は、白く濁った冷気によって喉の奥で押し潰された。白い指が彼の眼球に触れ、鼻を塞ぎ、口の中に滑り込む。


 ぬるりとした粘膜の感触が全身を包み、意識が急速にホワイトアウトしていく。


 ……数秒後、安藤の部屋には静寂だけが残された。液晶画面には、ただ一人、誰もいなくなった安藤の部屋を、涙目で、怪訝そうに見つめ続ける松原の姿だけが、静かに映し出されていた。


 安藤の消えた椅子の背後で、西日に照らされた空気中に、新しい「白いモヤ」がふわりと浮かんだ。

 

 それはゆっくりと、次の「獲物」を探すように、画面の向こう側の松原を見つめているようだった。


いつもお読みいただきありがとうございます。皆さまからのブックマークや高評価が、執筆の大きな励みになります。これからも楽しんでいただけるよう精一杯書いていきますので、引き続き応援よろしくお願いします!

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