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令和怪異蒐集録  作者: 未来が見えない


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3/9

落武者の掌

 今でも鮮明に思い出す、子供の頃の夏休みの記憶。私は、会社員の父と保育士の母の間に生まれた、どこにでもいる平凡な家庭の一人っ子だった。小学校低学年の夏、私たちは母方の祖父母の家へ泊まりに行くことになった。


 都内から地方の田舎町まで、高速道路をひた走ってもへとへとになる距離だ。後部座席で爆睡する私とは対照的に、父はサービスエリアに寄るたび、眠気と戦うように忙しなくタバコを吸い、コーヒーを流し込んでいた。運転中も大きなあくびを繰り返しては、助手席の母に「危ないわよ」と嗜められていたのを覚えている。


 ようやく辿り着いた祖父母の家は、長い年月を刻んだ古色蒼然たる日本家屋だった。夜も更けた頃、私はふと尿意を催して布団を抜け出した。


 部屋からトイレへ向かうには、庭先を一望できる長い廊下を渡らなければならない。昼間は情緒ある庭園も、夜は底知れない漆黒に飲み込まれ、静寂だけが支配している。幼い身にはその暗闇がひどく恐ろしかったが、背に腹は代えられない。私は逃げるように廊下を突き進んだ。

 用を済ませ、足早に部屋へ戻ろうとした時だ。

 ふと視線をやった先の庭で、大きな松の木が、ぐにゃりと動いたように見えた。

「……っ」

 心臓が跳ねた。風はない。なのに、その巨木はまるで生き物のように、闇の中で身じろぎしたのだ。

 私は半べそで部屋に駆け戻り、両親に必死で訴えた。しかし、長旅で疲れ果てた父も母も「寝ぼけてるのよ」「風のせいじゃない?」と、取り合ってはくれなかった。

 翌朝、私は恐る恐る昨夜の松の木を確かめに行った。

 燦々と降り注ぐ朝日の中、それは昨日までと変わらない、ただの古びた松の木だった。

 ――やはり気のせいだったのか。

 そう安堵しかけた足元で、私は「それ」を見つけてしまった。

 松の根元に、びっしりと地面を這う、どす黒い人間の毛髪のようなもの。悲鳴を飲み込み、私は脱兎のごとく家の中へ逃げ帰った。


 その日の午後、私は急激な高熱に襲われ、布団に沈んだ。意識が混濁する中、気がつくと私は見知らぬ古い寺の境内に立っていた。

 夕暮れ時のような、禍々しい朱色に染まった世界。背後から「ガシャリ……ガシャリ……」と、重々しい金属音が響く。

 振り返ると、そこには髪を振り乱し、血と泥に塗れた鎧を纏った落武者が立っていた。

 その形相は鬼のように険しく、執拗に私を追いかけてくる。私は必死で逃げた。冷たい石畳を裸足で駆け抜け、息を切らし、何度も転びそうになりながら出口を探した。しかし、どこまで走っても寺の回廊は終わりなく続き、落武者の足音はすぐ背後まで迫る。

 ついに袋小路に追い詰められ、私はその場に蹲って目を閉じた。


「助けて……!」

 震える私の視界に、泥に汚れた無骨な手が差し出された。


 殺される、そう思って身をすくめたが、その手は私の頭を優しく、本当に優しく撫でたのだ。ごつごつとした指先からは、外見の恐ろしさとは裏腹な、陽だまりのような温かさが伝わってきた。

「ぉ……帰りなさい」

 掠れた声が聞こえた瞬間、私の意識は浮上した。


 目が覚めると、熱はすっかり引いていた。私は落武者に撫でられた頭を右手で抑える、氷枕で冷えていた。傍らで心配そうに覗き込む母の顔を見て、私は安堵の涙を流した。


 後日、私は祖父母にあの夢の話をした。祖父母は顔を見合わせ、少し困ったような、それでいて穏やかな表情でこう話してくれた。


「隣の家のご隠居夫婦には、昔から子供がいなくてね。寂しさのあまり、外から来た子供を可愛がりたくて生霊のような想いがこの土地に溜まっていたのかもしれないね。あるいは、この土地を守っていた先祖の武士が、大の子供好きだったという言い伝えもある。……どちらにせよ、お前を怖がらせるつもりじゃなかったんだろうよ」


 あの日、松の根元で見た髪の毛。夢の中で執拗に追ってきた落武者。確かにあれは怖かった。けれど、最後に触れた手の温もりだけは、今でも私の掌に残っている。

あれは呪いなどではなく、不器用な「愛」の形だったのかもしれない。


 東京に戻る車の後部座席で、私は自分の右手のひらをじっと見つめながら、そう自分に言い聞かせていた。

 ――だが。

 大人になった今、ふと思うことがある。祖父母が言った「愛」や「優しさ」は、はたして生者のためのものだったのだろうか。目を閉じれば、今でも鮮明に蘇る。夢の中で、私の頭を撫でたあの泥だらけの手。


 その手の感触は、時間が経つにつれて、温かさからじっとりとした湿り気を帯びたものへ、記憶の中で変質していった。

 撫でられた頭皮には、冷たく、泥と血が混じり合ったような、得体の知れない粘りつく掠れが残っていた気がしてならない。


 それは、まるで離れることを拒むかのように、私の髪の芯に、皮膚の奥に、ねっとりと絡みつき、今も剥がれずに癒着している――。


 あの落武者は、私を「逃がしてくれた」のではない。あの優しげな仕草は、ただの「所有の印」だったのではないか。


 そう気づいた瞬間、私の背筋に、あの古い廊下で感じたものと同じ、底冷えする漆黒の闇が、ゆっくりと這い上がってくるのを感じた。

いつもお読みいただきありがとうございます。皆さまからのブックマークや高評価が、執筆の大きな励みになります。これからも楽しんでいただけるよう精一杯書いていきますので、引き続き応援よろしくお願いします!

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