鹿を喰らった土曜日
その場所は、俺だけが知っている秘密の聖域だった。
土日になれば、ジムニーにキャンプ道具を詰め込み、地図の端にある人里離れた渓谷へ向かう。そこには管理人もいなければ、他のキャンパーもいない。ただ、深い森の静寂と、冷たい水の音だけがあった。
彼と初めて会ったのは、三年前の初夏だった。
焚き火の準備をしていた俺の視界の端で、若い木々が不自然に揺れた。現れたのは、まだ体も小さく、毛並みに幼さが残る一頭の雄鹿だった。
その頭部には、大人の鹿のような立派な枝分かれはない。ただ、皮膚を突き破って生え始めたばかりの、短く、産毛に包まれた「袋角」が二本、ちょこんと突き出していた。
「……お前、どこから来たんだ?」
普通の鹿なら、人間を見た瞬間に弾かれたように逃げ出す。だが、その仔鹿は違った。濡れた鼻をヒクヒクと動かし、首を傾げながらこちらを見つめている。
俺はふと思い立ち、クーラーボックスからリンゴを一つ取り出した。ナイフで小さく切り、手のひらに乗せて差し出す。
「ほら、食うか」
仔鹿は警戒するように数歩下がったが、空腹には勝てなかったらしい。恐る恐る近づき、俺の指先からリンゴを奪うように食べた。その時、手のひらに触れた鼻の温もりと、袋角の柔らかそうな質感を、俺は今でも鮮明に覚えている。
それ以来、俺がキャンプ場へ行くたびに、彼は現れるようになった。
俺がリンゴや野菜を差し出すのは、彼にとって「当たり前」の儀式になった。彼は俺を敵とはおらず、むしろ「都合よく食料をくれる隣人」のように扱っていた。俺もまた、彼を野生動物としてではなく、どこか自分の一部のように慈しみ、育ててきた自負があった。
二度目の秋。久しぶりに現れた彼の姿を見て、俺は小さく声を上げた。
かつての小さな体は逞しくなり、頭上には立派な角が聳えていた。しかし、その右側の角には、痛々しい「ひび割れたような傷」が刻まれていた。
他の雄との激しい争いだったのか、あるいは突き出た岩にでもぶつけたのか。その傷は深く、角の成長と共に歪んだ形で固定されていた。
「ひどい傷だな……痛かったか」
俺が手を伸ばすと、彼は逃げなかった。ひび割れた角に指先で触れる。硬く、冷たい生命の記録。
その傷こそが、彼がこの厳しい自然を生き抜いている証であり、俺と彼を繋ぐ特別な「印」のように思えた。俺はそのひび割れた角を見るたびに、彼への愛着を深めていった。
そして、運命の夜が来た。
季節は巡り、山が冬の眠りにつこうとする十一月。いつもの場所に先客がいた。ハンティングジャケットを着込み、傍らにライフルケースを置いた老猟師だった。
「いい晩だな、若いの。お前さんも、この山の空気を吸いに来た口か」
老猟師は慣れた手つきで焚き火を熾し、鉄板を熱していた。
「今日は運が良くてな。最高の『獲物』が獲れたんだ。一人じゃ食いきれん。一緒にどうだ?」
俺は断る理由もなかった。鉄板の上に並べられたのは、見たこともないほど鮮やかな、深い紅色をした肉の塊だった。熱せられた脂が甘い香りを放ち、立ち上がる煙が鼻をくすぐる。
「これ、食べていいんですか?」
「ああ、今しがた捌いたばかりだ。最高の部位だぞ」
俺は促されるまま、一切れの肉を口に運んだ。
熱い。そして、驚くほど柔らかい。噛みしめるたびに、濃厚な野生の旨味が溢れ出し、喉を焼くように通り過ぎていく。
「……うまい! なんだこれ、こんな肉、食べたことないです」
俺は夢中で二切れ目、三切れ目と手を伸ばした。これまで食べてきたどんな肉よりも、生命力に満ちている。
「だろ? こいつは特別なんだ。この辺りでも一番の、誇り高い個体だったからな」
猟師は満足げに言い、俺が肉を飲み込むのを見届けてから、静かに言葉を継いだ。
「……鹿肉だ。それも、この森をずっと仕切っていた主だよ」
その言葉を聞いた瞬間、喉の奥で肉がひっかかったような感覚があった。
「鹿……ですか。ふーん、そうか。やっぱり野生のものは違いますね」
俺は平静を装いながら、自分を落ち着かせようとした。鹿なんて、この山にはいくらでもいる。俺が可愛がっていたあの鹿とは限らない。
「ほら、見てみな。こいつの角は立派だったぞ」
猟師はそう言うと、足元に置いてあった麻袋を無造作に引き寄せた。焚き火の火が、爆ぜた。オレンジ色の光に照らし出されたのは、巨大な二本の角。
右側の角の根元。
そこには、俺が何度も指でなぞり、何度も見つめた、あの「深いひび割れ」が刻まれていた。
喉を通ろうとしていた肉が、急に「鉄」のような冷たさに変わった。俺が今、口の中で咀嚼しているもの。それは、三年前の初夏に袋角を揺らしてリンゴをねだった、あの仔鹿だ。傷ついた角を俺に向け、信頼の証として額を預けてきた、あの親友の残骸だ。
「う、……あ」
胃の奥から、せり上がるような不快感が込み上げた。
俺が「うまい」と称賛したその脂は、俺が買い与えた野菜と、俺が注いだ愛情によって蓄えられたものだった。
「どうかしたか? 気に食わなかったか」
猟師の問いかけが、遠い場所で響く。
「……この鹿は、人を恐れていなかったはずだ」
絞り出すような俺の声に、猟師は短く鼻で笑った。
「ああ。驚くほど呑気な奴だったよ。俺が銃を構えても、逃げるどころか、何か食べ物でももらえると思ったのか、自分からこっちへ歩いてきやがった」
血の気が引いた。
彼を殺したのは、この猟師ではない。彼を殺したのは、「人間は優しく、食べ物をくれる存在だ」と彼に教え込んだ、俺自身だった。俺が彼に注いだ慈悲は、野生の中で生きる彼から「警戒心」という唯一の武器を奪い去る、遅効性の毒だったのだ。
「それが『人の業』だ、若いの」
猟師は冷徹な目で、俺の顔を見据えた。
「お前は慈しんでいるつもりで、こいつを無防備な『家畜』に作り替えたんだ。お前が愛でなければ、こいつは今もどこかで生きていたはずだぞ」
「……おえっ!」
俺はたまらず、茂みに向かって全てを吐き出した。
だが、吐き出せば吐き出すほど、口の中にはあの鹿の肉の繊維が、血の匂いが、こびりついて離れない。俺の体の一部になるために、彼は消化され、血流へと溶け出していく。俺が彼を愛した末路が、この醜い排泄と、共食いにも似た饗宴だった。
命を救い、育て、そしてその生命が最も輝いた瞬間に、自分の手違いで奪い去り、食べる。これほどまでに身勝手で、救いようのない業が他にあるだろうか。
夜が明けるまで、俺は震えながら地面を掻き毟っていた。
焚き火の脇に転がされたひび割れた角が、朝日を浴びて白く光っている。それは、言葉を持たない彼からの、最後の告発のように思えた。
それ以来、俺は二度とキャンプへは行っていない。肉を口にするたび、あの温かい鼻先と、角のひび割れの感触が蘇り、喉の奥が拒絶反応を起こすからだ。
俺は、自分が殺した親友を一生背負って、この「業」のなかで生きていくしかない。
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